学習通信040909
◎「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」……と。

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ルネサンス期におけるヒューマニズムの出発

 「ヒューマニズム」ということば(イタリア語のウマネジモ)が、ーつの顕著な潮流を示すものとしてはじめて登場してきたのは、十四〜十五世紀のイタリアでした。

 それは、イタリアにおけるルネサンスの黎明期でした。そこには「ウマニスタ」と呼ばれる一群の人びとがいました。「ウマニスタ」とは英語の「ヒューマニスト」にあたることばですが、ふつう「人文主義者」もしくは「古典学者」と訳されています。どんな人たちかといえば、古代ローマ、さらにさかのぼって古代ギリシャの古文献──哲学・文学・芸術の──に夢中になっている人びとでした。

 そもそも「ルネサンス」というのは、ふつう「文芸復興」と訳されるように、ギリシャ・ローマの古典文芸の復興を、ということが時代の合言葉になったところから、のちに名づけられたものですが、その音頭とりとなったのがウマニスタたちであったのです。

 中世のヨーロッパでは、キリスト教(カトリック教)が絶対的な権威をもって君臨しており、すべてが「神さまくささ」の臭気をまとわされていました。人間はみな罪深いもので、人間の欲望はすべて悪、この世はあの世のためにある、といったお説教がいわば文化の中心をなしており、そうしたお説教に人びとはあきあきしながら、それとはちがった文化がありうるということを考える力さえ、ほとんどうばわれていたのです。そんななかで、ながらく忘れられていたギリシャ・ローマの古典を指さしながら、「ほら、ここにこんな人間くさい文化があるじゃないか!」と叫んだのが、ウマニスタたちだったのです。

 もともとイタリアは、かつてのローマ帝国発祥の地であり、ローマ帝国が東西に分裂してのちも西ローマ帝国の中心でありつづけたのですが、その西ローマ帝国がゲルマン民族に滅ぼされてからは、古代ローマ文化の伝統とすっかり断ちきれてしまっていました。

 しかし、十字軍の遠征などをきっかけとして、東方との交流がさかんになりだし、東ローマ帝国やイスラム世界に保存されていたギリシャ・ローマの古典に接することができるようになったとき、それに接した人びとは、そこに、これまでの神さまくさい文化とはまったくちがった人間くさい文化を見いだして、目を見はったのです。何しろ、そこでは神さまたちまでがひどく人間くさくて、みなみずみずしい肉体のもち主であり、恋もすればけんかもする、酒に酔っては馬鹿さわぎもする、というぐあいだったのですから。

 十五世紀のなかばに東ローマ帝国が滅亡して、そこの学者たちがたくさんの古典とともに逃げこんできてからは、古典熱はいっそう高まりました。その熱中者がウマニスタ(人文主義者)と呼ばれ、その熱をさしてウマネジモ(人文主義)と呼んだわけです。「人文主義」というと固苦しいみたいですが、この場合、「人文」というのは「人間くさい文芸」の略称と思えばいいでしょう。

 ルネサンスの運動は、やがてフランスにも波及しました。すなわち、十六世紀になると「もっと人間くさい学問・芸術を!」という叫びがあげられるようになり、こうした叫びをあげる人びとが「神学者」にたいして「ユマニスト」と呼ばれるようになりました。「ユマニスト」とは、つまり英語のヒューマニストです。そして、そうした人びとの主張それ自体が、後に「ユマニスム」(すなわち英語のヒューマニズム)と呼ばれるようになったのです。

「人間くささ」あるいは「人間らしさ」のイメージ

 以上、ヒューマニズムということばのいわば素姓しらべをやってみたわけですが、「人間くささを大切に」といおうと「人間らしさを大切に」といおうと、かんじんなことは何といっても、その「人間くささ」あるいは「人間らしさ」のなかみです。「人間くささ」とか「人間らしさ」とかいうことで、どんなものをあなたはイメージにうかべるでしょうか? そこに、あなたの人間らしさ、人間くささのあり方が示されると思うのですが。

 ルネサンス時代のヒューマニストたちはキリスト教が支配する以前のギリシャ・ローマの古典文芸を、人間らしさ・人間くささの一つの典型としてとらえていました。今日の皆さんは、どんなものを人間らしさ・人間くささの典型として思いえがくでしょうか?

 この本でこれからあと書くことは、すべて、そのことについて皆さんと討論するための素材です。

 私自身の気もちをここでー言さしはさんでおけば、もし皆さんがたとえば「寅さん」をその一つの典型として思いえがくなら──あるいは「ジャリン子チエ」を思いえがくなら、皆さんとのこれからの討論は、おおいに友好的・同志的な討論となるだろう、と思います。「寅さん」については、すでに一言ふれました。「ジャリン子チエ」についていうならば、『あなたの疑問に答える哲学教室・第2集』(学習の友社)につぎのように書かれています──

「『ジャリン子チエ』にいつも笑いをかきたてられ、その登場人物たちをこよなく愛する人は、他人を権力で支配することに快感を覚える人間、暴力に快感を感じるような人間では絶対にありえないでしょう」
 私はまったく同感です。そしてそれは、私なりの「ヒューマニズム宣言」です。

「寅さん」VS「角さん」

 「でも」とここでいう人があるかもしれません。「寅さんだってたしかに十分に人間くさいけど、角さんだってそれなりに人間くさいのじゃないか」と。

 いや、田中角栄(元首相)のは人間くささじゃなくて汗くささだ、といってみてもはじまりません。寅さんだって相当に汗くさいのじゃないかと思いますし、汗くささだって人間くささのうちです。そして、同じ自民党系政治家たちのなかでも、官僚上がりの連中にくらべれば、人間くささという点で田中角栄の方にはかりが下がることはたしかだろう、と私も思います。

 でも私は、角さんの「人間くささ」と寅さんの「人間くささ」との間には、決定的なちがいが一つある、と思います。

 寅さんの大事な特徴のーつとして、徹底的に相手の立場に立つ能力ということがある、と思うのです。寅さんは無類にほれっぽい人であって、きれいな女の人が近くにあらわれると、すぐにフワフワポーッとなってしまうのですが、ひとたびそうなった上は、徹底的にその女の人の立場に身をおいて考えるのです。必ずしも女の人にたいしてだけではありません。そしてその場合相手の社会的地位なんて、まるで眼中にないのです。ただし、その相手の人の立場に立つし方が寅さん流の思いこみにもとづいているものだから、話がいつもトンチンカンになったり、チグハグになるのですが、そういうなかで傷つくのは必ず寅さんで、それはもう目もあてられないほどに傷つくのですが、絶対に寅さんが相手を傷つけるということはありません。逆に相手は、いつも寅さんからはげまされ、力づけられ、寅さんに心から感謝するのです。

 これにたいして田中角栄は? 彼の特徴は、絶対に他人の立場に立たないということだ、と私は思います。そういう奴は許せない、ということも、寅さんの人間性の大切ななかみをなしているものであり、それはそのままヒューマニズムの大切ななかみをなすものだ、と私は思います。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p11-17)

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 「ルネサンスの特色の一つは、古代の復興と言われていますよね」
 「復興は復興ですが、単なる古代の復元でも模倣でもない。フィレンツエ第一の教会である「花の聖母寺」(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の円蓋をどう建造するかのヒントを建築家のブルネレスキに与えたのは、友人だった彫刻家のドナテッロとともに見てまわった、パンテオンをはじめとするローマ時代の建造物であったとは、当時からすでに有名な話でした。

しかし、この二つを比較した図を見ればわかるように、ローマ時代とルネサンス時代のドームは同じではない。パンテオンではドームの頂上部は開いていてそこから外の蒼空が眺められるのに対し、ヨーロッパの教会の円蓋建築の最初になる花の聖母寺では、頂上部は大理石の頂塔で閉じられ、しかもその上には金色に塗られた銅製の円球が載るという構造になっていた。

 これでは、耐重策の上でも耐震策上でも、ドームの構造は変わってこざるをえない。パンテオンのように、上部に行けば行くほどセメントによる屋根を薄くし、かつそのセメントに混ぜられる軽石の数を増やすことで重量を軽減する策は採れません。円屋根の上部の重量が軽減することでかえって、頂塔の重みで円屋根が崩れ落ちてくるのは眼に見えている。それでブルネレスキは、傾斜の度を急にすることと屋根の部分を八本の稜線で補強すること、それに加えて円蓋全体を二重構造にすることで、この難問を解決したのです。

キリスト教的な考えでは、頂上部を開け放してそこから空が眺められるという開放的な造りでは、祈りの場である教会の構造としては不適当であったのでしょう。しかし、このように改造したことでブルネレスキは、ローマ建築の特色である秩序と調和を再興しながらもキリスト教の要請にも応えた、ルネサンス様式の建築を創造できたのです。

 この事情は、絵画でも同じ。ポンペイが発掘され、はじめてローマ時代の壁画が陽の下に再び姿を現わすようになるのは十九世紀になってからです。だから、十五世紀に生きたルネサンス時代の画家たちはそれを見ていない。彼らが眼にすることができたのは、遺跡でしかなくなったトライアヌス浴場の下に長く埋もれていた、「ドムス・アウレア」の名で有名な皇帝ネロの宮殿の壁画です。

現代では色を再現するのも困難なほどにひどく破損していますが、五百年昔のルネサンス時代ならばまだ線も色彩も相当な程度には遺っていたにちがいない。これらを見た画家たちは、古代のローマ時代にすでに遠近法が活用されていたことを知ったのです。

 彫刻の分野とて、事情はまったく同じだった。はじめのうちは考古学的興味でも芸術品愛好の趣味でもなく、屋敷の建設工事中に偶然に発見された品々を洗って自邸内に置いていたのが人々の眼につくようになり、メディチ家のような新興成金がそれらを購入するのに金を惜しまないことが知れ渡るようになると、庶民までがテヴェレの河床をあさったり古代の競技場跡や街道の附近を掘り起すようになったのでしょう。なにしろ、中世の間中いまわしい邪教の遺物として排斥してきた品々が、大金に化ける時代になったのです。

こうなると、屋敷の主も訪れる人に自慢して見せるようになり、メディチ家ほどのコレクターともなると、フィレンツェの聖マルコ寺院の回廊に陳列して、若き芸術家たちに自由に見学させる。一時代前ならばキリスト教徒が見るのにはふさわしくない汚れた品々だからと排斥の先頭に立っていたローマ法王庁でさえも空気が変わり、購入したにしろ取り上げたにしろ集まる一方の古代の裸体彫刻の間を、僧衣の群れが行き交う光景が普通になってくる。

そしてこれらは、美術館の形にはなっていなくても、見たいと欲する人には誰に対しても開放されていたのでした。

 固定概念に眼を曇らせてさえいなければ、地中から姿を現わした古代のギリシアやローマの彫像のすばらしさは、それを見た人ならば即座に理解したにちがいない。

ルネサンス人による人間の肉体の再発見が、人間の裸体美の再発見になったのは、中世時代の着衣姿の彫像を見慣れた後だからこそで、それはカルチャーショックとしてもよいほどの衝撃であったにちがいありません。中世人の見ていた裸体像は、十字架上で苦悶する痩せたキリストだけであったのだから」

 「そうは言われても、ヴェスヴィオ火山の大噴火によって一千七百年以上もの歳月、地中に埋没していたポンペイは別として、放置され半ば埋もれた状態であったにせよ遺跡も遺品も人々の眼にはふれてきたはずです。なにしろ、ローマ帝国崩壊からルネサンスまでは一千年間。これほどもの長い歳月、人々が盲でありつづけたということが納得できません」

 「人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、考えたくないと思いつづけていると実際に考えなくなるものなのです。その例証としては適当かどうかわかりませんが、一般のドイツ人と強制収容所に送られて死んだユダヤ人を思い起してください。ドイツ人の多くは、強制収容所が存在することは知っていた。

昨日まで親しくしていた友人が突然に姿を消したのにも、気づかなかったはずはない。ただ、そういうことは見たくないし考えたくないと思いつづけているうちに、実際に見えなくなり考えなくなってしまったのです。戦争が終ったとき、ドイツ人は一様に言った。われわれは知らなかったのだ、と。これは、知りたくないと思いつづけたからにすぎません。

 ユリウス・カエサルの言葉に、次の一文があります。
 「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」

 この一句を、人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし、と言って自作の中で紹介したのは、マキアヴェッリでした。ユリウス・カエサルは古代のローマ人、マキアヴェッリは、それよりは一千五百年後のルネサンス時代のフィレンツェ人。カエサルの言を再興≠オた中世人は、一人も存在しません。つまり中世の一千年間、カエサルのような考え方は、誰の注意も引かなかったということでしょう。

 この一例が示すように、ルネサンス人は、人間の肉体の美を再発見しただけでなく、人間の言語も再発見したのです。
(塩野七生著「ルネサンスとは何であったか」新潮社 p53-59)

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◎「寅さんの大事な特徴のーつとして、徹底的に相手の立場に立つ能力ということがある」「田中角栄は? 彼の特徴は、絶対に他人の立場に立たないということ……。そういう奴は許せない、ということも、寅さんの人間性の大切ななかみをなしているもの」。

◎あなたの人間性のなかみは……。生まれ変わり(霊魂)≠人間なら$Mじても……と言った人もいた。