学習通信040910
◎「浮気」とは、理想を欠いて目先だけを追うところに生じるもの。

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無関心からヒト嫌いヘ

 では、社会力とはどのような資質能力のことか。これまでも、『子どもの社会力』(岩波新書)や『学校の社会力』(朝日選書)などでかなり詳しく説明してきたことでもあり、ここでは要点のみ整理しておくことにするが、社会力とは、端的に言えば、人が人とつながり社会をつくっていく力のことである。

さらに付け加えれば、多くのさまざまな人たちといい関係をつくり、そうした人たちともちつもたれつしながら、地域づくりやさまざまなボランティア活動に参加したり、あるいは各種の勉強会に参加したり、イベントや催しを自主的に企画し仲間を募って一緒に運営したりするなど、社会の運営に積極的にかかわり、さらにはもっとましな社会をつくろうと考え、そのためのさまざまな改革案をあれこれ構想し、そうした改革案のできる部分を、できるところから実際に実現していくことにも積極的にかかわっていく、そうした意欲や資質能力のことである。

 では、人間が社会の運営や改善改革に積極的にかかわっていこうとするそのおおもとになっているのは何なのか。

私の答えは、他者への関心や愛着や信頼感がきっちりあることである。他者への強い関心があるからこそ、その人に近付き交わり行動を共にするようになるのであり、そのような交わりや付き合いを通してその人のことがどんどん分かるようになり、深く理解できるようになるのであり、深く理解できるようになるからこそ、その人の身になって物事を考えられるようになるのであり、その人に共感することも容易にできるようになるのである。

互いに相手のことがよく分かり、理解し合え、共感し合えるようになれば二人の関係は極めていい関係にあるといっていい。そうなれば、互いに相手に対し愛着心を募らせ、信頼感を強めていくことになるはずで、双方の関係がそこまでいい関係になれば、協力して何かをやることに進み出て行くのにさほどの時間は必要としないはずである。

このような関係がさまざまな多くの人たちとの間で出来上がったらどうなるか。社会の在りようや運営に無関心でいられるはずはなく、社会の改善改良に頬被りすることなどできようはずもないことである。私が社会力のおおもと(原基)が他者への関心であり愛着であり信頼感であると言い続けているのは、このような理屈からのことである。

 ところが、いま、子どもに限らず若い世代に広がっているのは、他者への無関心であり、他者とのかかわり忌避の性向である。それがさらに高じて、他者嫌いになり、他者とかかわることを恐れるようになり、さらには人間そのものが嫌いになるというメンタリティ(心性)が強まっている。言うまでもなく、社会をつくっているのはわれわれ生きた人間である。

人間が嫌いで他者に無関心、そして他者との関係を一切絶ちたがる人間が社会の運営に積極的にかかわるはずはない。結果として、引きこもる若者や子どもたちが、いま推計一〇〇万人とも一六〇万人ともいわれる事態になるのは、ごく当然のことである。
(門脇厚司著「親と子の社会力」朝日新聞 p12-13)

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結婚が愛の墓場となるとき

「情熱的な愛」という。「情熱」とはいったいなにか。
 国語辞典をひらいてみると、情熱とは「感情がはげしくもえあがること」と説明されている。しかし、これは的確な説明とはいえないと思う。

 「感情がはげしくもえあがる」といっても、いろいろな場合がある。すぐに一目ぼれしてボー。とのぼせあがるが、たちまちさめてケロリとしている、といったのもある。こんなのを情熱的な愛というだろうか。そういう人のことは情熱家とはいわず、「浮気っぽい人」という。それがことばのただしい使いかただろう。

 活動の場合でも同様だ。たとえ一時的にはどんなにはげしくもえあがることができても、ワラ火のように持続性がない、そんなのでは情熱的な活動とはいえない。浮気的活動というべきだろう。

 突如としておこる一時的で急激な感情は、心理学では「情動」といって、情熱もしくは熱情と区別する。情熱は情動とちがって「長つづきのする傾向であること、感情的であるとともに知的な要素をふくむこと、したがって、その人間の精神生活を長いあいだ支配し、価値判断をあたえてゆく点」に特徴をもつものだ、と『岩波心理学小辞典』にある。

 情熱とは、理想と一体のものではあるまいか。知の力の所産としての理想によって鼓舞される感情、それが情熱なのではなかろうか。だからこそそれは「感情的であるとともに、知的な要素をふくむ」のであり、「その人間の精神生活を長いあいだ支配し、価値判断をあたえてゆく」ということになるのだろう。

 これにたいして「浮気」とは、理想を欠いて目先だけを追うところに生じるものだと思う。

 「結婚は恋愛の墓場」ということばがある。これはどのような「恋愛」の場合をいっているのだろうか。それは理想を欠いた恋愛、ただ相手と毎日いっしょにいたいというただそれだけのものの場合をいっているのだと思う。

 そういう場合は、結婚までは結婚すること、つまり毎日相手といっしょにおれるようになることが一種の「理想」として前方にある。だから、そのかぎりでの「情熱」がそこに生じる。しかし、結婚とともに、前方に見るべき理想は、もはやなくなる。それとともに「情熱」も死ぬ。

 それはそうだろう、相手といつもいっしょにいたいというだけの愛でそれがあったのならば、毎日ハナつきあわせておれるようになったとたんに、その相手がハナにつきだすようになってくるのも、当然だ。

 「ともに人間として高まることをたすけあう愛」であるならば、高めあう目標はつねに前方にある。この場合には、結婚は、愛の墓場となるどころか、かえって愛を深め、ゆたかなものにつちかう条件となるだろう。

ヒューマニズムの問題

 もちろん、人間における愛は、たんに異性間の愛だけにつきるものではない。親子の愛、仲間への愛、民族あるいは祖国への愛、そして人類への愛。

 この人類愛は、ヒューマニズムと呼ばれるものとほぼ同義語であろう。そして、異性間の愛をはじめ、さまざまな愛は、このヒューマニズムの構成要素をなすもの、といってもいいだろう。

 ところで──異性間の愛をもふくめて、要するに「愛」と呼ばれるものの反対語はなんだろう? 「きまってるじゃないか、それは憎しみだ」とあなたは答えるだろうか。

 国語のテストヘの答としては、もちろんこれでじゅうぶん正解だろう。しかし、人生の真実としてはどうだろうか? 人生の真実としては、この答はけっして正解ではない、と私は思う。

 人生の真実としての愛の反対語は、憎しみではなく、無関心だ、と私は思う。

 だって、そうではなかろうか──わが子を深く愛する母親は、わが子の誘拐犯人をはたして憎まないだろうか? わが子の誘拐犯人にたいして無関心であれる母親、そんなのはわが子を愛する母親なんかではありゃしない。

 愛をけがすもの、ひきさくものにたいして怒りを、憎しみを感じないような愛、そんな「愛」をどうして真の愛といえるだろう。憎むべきものを憎むことなくして、どうして愛すべきものを愛することができるだろう。

 だから、愛の反対は無関心だ。愛は知ることを求める──愛の対象について、愛の敵について。異性への愛だってそうだ。恋人への愛は、恋人についての、さらには恋がたきについての、おさえようとしてもおさえることのできない知識欲、あくことを知らぬ知的探求の努力をうみださずにはいないではないか。

 いまの世のなかには、愛をけがし、ひきさく力が、なんとはびこっていることだろう。それについて無関心であってはならない。それを憎むことを知らねばならず、その正体について知る努力を怠ってはならない。それこそが真の愛のあかし──ヒューマニズムのあかしであると思うのだ。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p48-52)

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◎「人間が社会の運営や改善改革に積極的にかかわっていこうとするそのおおもとになっているのは何なのか。……他者への関心や愛着や信頼感」
「愛の反対は無関心」……。