学習通信040911
◎「財産にもとづいた階級が勢力」……。
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こうしてここでは、まったく新しい一要素が、すなわち私有が、制度のなかに取りいれられている。国家の市民の権利義務は、その土地所有の大きさに応じて定められ、財産にもとづいた階級が勢力を得るだけ、それだけ古い血族体が押しのけられた。氏族制度は新たな敗北をこうむってしまった。
とはいえ、財産を基準にして政治的権利を定めるやり方は、それなしには国家が成立しえない不可欠な制度の一つではなかった。そうしたやり方が、国家の制度史のうえでたとえどんなに大きな役割を演じたにしても、なおきわめて多くの国家が、またまさに最も完全な発展をとげた国家が、そうしたやり方を必要とはしなかったのである。アテナイでも、それは一時的な役割を演じただけであった。アリステイデス以来、すべての公職は市民のだれにも公開されていた。
これにつづく八〇年間に、アテナイの社会は、それがその複数百年にわたって発展しつづけた方向をしだいにとりだした。ソロン以前の時代のさかんな土地抵当高利貸付はある程度阻止されたし、所有地の法外な集中もそうされた。商業、それと奴隷労働を使ってますます大規模に営まれる手工業および工芸が、支配的な職業部門となった。
人々はいっそう開明的になった。当初の残酷な方法で自分の仲間の市民を搾取する代わりに、主として奴隷とアテナイ外部の顧客とを搾取した。動産、すなわち貨幣形態の富と、奴隷および船舶からなる富とはますます増大したが、この動産は、いまや初めの、視野のせまい時期でのように、所有地を手に入れるための単なる手段ではもはやなくなった。
動産が自己目的となった。それとともに、一方では、古い貴族勢力にたいして、富裕な商工業者の新階級のなかから競争者が生じて勝利をおさめ、他方では、古い氏族制度の残滓もまた最後の基盤を奪われた。
いまではその成員がアッティカ全土にわたって散在し、完全にまじりあって住んでいる氏族、胞族、部族は、そのため政治的団体としてはまったく役に立たなくなっていた。
多くのアテナイ市民は、どの氏族にも全然所属していなかった。彼らは移住民で、市民権こそ認められていたが、古い血縁団体のどれにも受けいれられていなかった。それと並んで、さらに、たえずその数をましていく、単なる在留外人移住者がいた。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p155-156)
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アテネ
アテネを首都にするアッティカ地方は、広さ三六〇〇平方キロメートルと、耕地に恵まれているとはいえないにしても、岩だらけのギリシアでは広いほうに属する。アテネの近くには天然の良港ピレウスもあり、海に向って開かれた地方だった。また、ギリシアに侵入してきたドーリア人の支配を逃れられたこともあって、アカイア人としての純血も相当な程度には保たれていたようである。このアテネの建国者を、伝説は、クレタ島の暴君ミノスを倒したテセウスに帰している。建国初期の国々の例にもれず、アテネもまた初期の政体は王政だった。
それが、紀元前八世紀頃には貴族政に移行する。貴族出身の九人の統領が、一年任期で、行政と軍事と祭事を担当し、それ以外の貴族たちで構成される長老会議がこれを補佐し、自由な市民からなる民会は、あっても発言権はほとんどなかったという政体であった。
だが、前七世紀に入ると、この貴族政体はアテネの現状に合わなくなった。土地の所有に経済力の基盤をおく貴族階級に対し、商工業によって力をつけはじめていた新興階級が台頭してきたからである。彼ら自由市民層には、経済力は獲得したのに国政への参加は拒否されていることへの不満が強かった。また、大土地所有者である貴族たちとは反対に、狭い土地しか所有せず、それゆえに借金に苦しまされることの多かった自作農階級も、貴族への反撥に同調した。
これらの、デモスと呼ばれる市民たちの最初の勝利は、前六二〇年前後のこととされる、法律の成文化である。これによって、貴族階級は、法が不文律であった時代には勝手気ままにふるまうこともできた、司法権を失った。だが、この程度の手直しでは、「デモス」の不満は解消されなかった。ここで、ソロンが登場する。前五九四年、改革を実行するうえでの強権を既成支配層である貴族たちに認めさせた彼は、歴史上、「ソロンの改革」と呼ばれる政治改革に着手した。
ソロン自身は、台頭しつつある商工業者層に属していたわけではなく、借金に苦しむ小土地所有者階級の出身でもなかった。広大な土地をもつことでアテネを牛耳ってきた、名門貴族の出身である。彼もまた、歴史にはときにあらわれる、先を見通すことのできる人間であったのだろう。
ソロンはまず、自作農たちを借金地獄から救済するための政策を立て、それを法制化した。農民たちの借金は大はばに軽減され、返済できなかった者が貸し主の奴隷にされる従来の制度も廃止した。古代社会では当り前のこととされてきた、借金の返済が不可能な場合には奴隷になって肉体で返済するという制度を全廃したのである。これは、古代社会でははじめての、人権尊重の例となった。
ソロン個人も、穏健でリベラルな考えの持主であったようである。「デモス」の急進派が要求した、すべての私有地を没収していったんは国有地にし、それを等分に分配しなおすという案をしりぞけている。彼自身、次のように書き残している。
「市民には、妥当な名誉を与えた。彼らの権利を取りあげもせず、といって、それに新たにつけ加えることもせずに」
しかし、ソロンの行った改革の最大の眼目は、政治改革であったろう。彼はまず、人口調査を行った。そして、それによって明らかになった事実をもとに、不動産の多少とそれによってもつ権利は比例の関係にあると決めた。こうして、国政参加の権利が出身階級に左右されることがなくなった。
王政は、一人で行うという意味でモナルキアと呼び、貴族政は、選ばれた少数の人が担当するがゆえにアリストクラツィアと呼ばれる。一方、ソロンによってはじめられた、資産の多少が権利の多少に比例する制度は人口調査をもとにしているという意味で、ティモクラツィアと名づけられている。日本ではこれを金権政と翻訳する研究者が多いが、これだとどうしても、票を金で買うほうの金権政治を思い浮べてしまいがちだ。それでここでは「資産政」と訳すが、収入の多少が権利の多少につながるというのはけしからん、と思う人も多いにちがいない。
だが、貴族に生れなければ国政参加の権利がもてなかった貴族政に比べれば、当時としてはよほど進化した政体なのであった。血はどうしようもないが、財ならば、それを得るのは才と運しだいだからである。また、古代では、いやフランス革命以前では、平等という理念でも、平等が当然である人々の間での平等としか考えられていなかった。それに、権利を農業収益の多少に比例させるという考えも、さして理不尽な考え方ではない。商工業で財を築いた人々も、土地などの不動産に投資して築いた財の保全をはかるのが、今日でも一般的な傾向である。
ソロンは、このティモクラツィア、つまり資産別に、アテネの全市民を四階級に分けた。収入の多い者から順に、第一階級、第二階級、第三階級ときて、無産とされた市民は、第四階級を構成する。
まず、義務だが、第一と第二の階級に属す市民は、自己負担の軍備軍装での騎兵として、兵役を務める義務があった。第三階級に属す市民たちも、軍備軍装の自己負担は同じだが、馬も準備しなくてはならない第一・第二階級よりは、経済上の出費は軽くなる。重装歩兵としての兵役が、この人々に課された義務である。おそらく人数でも、この第三階級が最も多かったのだろう。古代の軍隊の主力は、重装歩兵であったからだ。そして、第四階級に属す市民たちには、軽装歩兵か艦隊の乗組員としての兵役が義務づけられていた。
次いで、義務に伴う権利だが、政府の要職は第一と第二の階級が占め、第三階級は行政官僚を務め、第四階級は、選挙権は有しても被選挙権はもたないと決められたのである。
地中海世界ではどの国よりも先んじた「ソロンの改革」が、アテネを貴族政から脱却させ、ポリスと言われればただちに思い浮べる民主政の都市国家に移行させたことは明白である。アテネの発展の第一歩は、このソロンによって踏み出されたのであった。
しかし、改革というものは、改革によって力を得た人々の要求で再度の改革を迫られるという宿命をもつ。「ソロンの改革」も、この宿命から無縁ではいられなかった。
アテネは、ピレウスに良港をもっている。しかも第一次の植民活動でアテネ人が大挙して移住した小アジアのイオニア地方では、アテネより先に通商による繁栄を迎えていた。アテネは、この東方からの刺激を受けないではすまなかったのだ。
そのうえ、「ソロンの改革」によって、貴族でなくても資力さえあれば、国政の要職を務めるのも夢ではなくなっていた。それに、ソロンによる資力の重視は、ソロンの改革では農業収入に限定されていたとしても、アテネ人の資力に対する考え方を変えずにはおかなかった。
そして、通商が盛んになるとともに、アテネの市民たちは、従来のように貯えた資力を土地に投資するよりも、海運や通商業に投資するようになったのである。もともとギリシアの土地は痩せているので、投資効果ということならば、盛んになりつつあった海運や通商業に投資するほうが効果的であったのだ。
動産を築きはじめた市民たちが、不動産を基盤とした政体に満足しなくなるのは時間の問題でしかない。とはいえしばらくの間は、ソロン個人の権威に刃向う勇気は誰にもなく、問題の表面化は避けられたのである。だが、ソロンが公生活から引退するやまもなく、人々の不満は爆発した。
しかし、爆発した力を秩序立てることのできる人物に恵まれなかった当時のアテネでは、権力の空白状態が待っていただけだった。無政府状態、つまりアナルキアである。
(塩野七生著「ローマは一日にして成らず 上」新潮文庫 p151-157)
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「動産を築きはじめた市民たちが、不動産を基盤とした政体に満足しなくなるのは時間の問題でしかない。」
「動産が自己目的となった。それとともに、一方では、古い貴族勢力にたいして、富裕な商工業者の新階級のなかから競争者が生じて勝利をおさめ、他方では、古い氏族制度の残滓もまた最後の基盤を奪われた。」
「まったく新しい一要素が、すなわち私有が、制度のなかに取りいれられている。国家の市民の権利義務は、その土地所有の大きさに応じて定められ、財産にもとづいた階級が勢力を得るだけ、それだけ古い血族体が押しのけられた。氏族制度は新たな敗北をこうむってしまった」……と。