学習通信040912
◎「だれが「本」を殺すのか」……と。

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グーテンベルク以来のムーブメント

 「本」というものを一個の物質としてみた場合、そこにはどんな特徴があるだろうか。紙という素材にインクのシミをつけ、ページをつけて綴じたもの、というのが物質としての「本」の最低条件ということになるだろう。あなたがいままさに読んでいるこの「本」も、そういう条件でつくられているはずである。

 「本」にこういう形が与えられるようになったのは、いうまでもなくグーテンベルクが活版技術を発明して以降のことである。私はこれまで数多くの「本」を読んできた。その影響を強く受けて生き、これからも読書を糧にしようとしている。そういう意味でいえば、私自身、近代印刷技術の圏内で呼吸してきた。

 電子技術の発達によって、それがいま大きくかわろうとしている。パソコンのディスプレイ画面が紙にとってかわり、そこに表示されるデジタル文字が長年親しんできた活字文字を歴史の彼方に遠く追いやろうとしている。こういうと、そんなバカなことが起きるはずがない、「本」は「本」として永遠の生命をもっている、だいいち、もしそんな時代がきても、パソコンで「本」を読むなんて自分はごめんこうむる、という声がすぐに聞こえてきそうな気がする。その気持ちはよくわかる。なぜなら私自身、人一倍そう思ってきたからである。

 ネットの煩雑な手続きと画面の劣悪さを考えただけで、失礼といって、パソコン画面から逃げだしたくなる。何であんな劣悪なデザインの画面に向かい、七面倒くさい手続きまでして「本」を読まなければならないのか。パソコンで「本」を読むということは前戯ばかりが長いセックスのようなものじゃないか、第一、ある意味で読書空間として最高の環境の獄中では読めないではないか、と悪たれ口をきいてきた。いまでも、私の目の黒いうちは、電子本などというものには目もくれず、紙に活字で印刷された「本」を読みつづけようと思っている。

 しかし、「本」の歴史を勉強するうち、私の活字本に対するこだわりとは別に、活字本から電子本という流れは歴史の必然として、どうやらもうとどめようがないということがわかってきた。私はいまのところ電子本にとびつくつもりはないが、自分が生きているうちに、長年親しんできた「本」の世界に歴史的大変革が起きるらしいということ自体には強い興奮をおぼえる。五十をすぎた私でも、ひょっとするとかわれるかもしれないという期待は、やはり人間を年がいもなくわくわくさせるものである。

 グーテンベルクが活版技術を発明する以前、羊皮紙に手書きされた聖書の筆写本は、教会内に鎖で縛られた門外不出の貴重品だった。それが印刷技術の普及によって複製化され、教会内から解き放たれた。これは教会内の壁画が近代市民意識の芽生えによって、タプロウ(板絵)という独立した絵画として広まっていった道筋と共通している。

 この取材をはじめる前、私はパソコンの画面上で読む電子本とは、「本」の歴史を逆行させ、現代から将来にわたる「教会」ともいうべきコンピュータの前に、人々をもう一度かしずかせるものだとばかり思っていた。ハードとソフトを兼ねそなえ、どこにでも携行できるすぐれた活字本の機能をあえてセパレーツするとんでもない代物だと見向きもしなかった。

 だが、電子出版にかかわる人々の意見を聞くにつれ、その認識を徐々に改めさせられた。紙という「劣悪」な表材にインクのシミをつけた本をみたとき、グーテンベルク以前の人々は口をきわめて罵ったという。春秋の筆法をもっていえば、電子本に対する私の拒絶感は、グーテンベルク以前の人々のそれと似たようなものだったのかもしれない。人間の感性の進歩は、いつも技術の進歩に一歩遅れてやってくる。

 これまでみてきたように、日本の出版界はいま、マスヒステリーといってもいいような状況を呈している。どこへ行っても「本が売れない」という会話が挨拶がわりにかわされている。出版界に本当に未来はないのだろうか。本という商品はこのまま衰退の道をたどっていくのだろうか。

 どうやらその予測は悲観的にすぎるようである。私のまったく知らなかったムーブメントが、地平線の彼方からいまかすかな砂塵を巻きあげて押し寄せているらしい。そして、電子出版というそのムーブメントの中心人物は、実は私とも因縁浅からぬ人物である。

 彼と私は大学時代、同じサークルに所属していた関係で、卒業後も年に二、三度ほど会う機会をもっていた。その際、電子出版の将来について熱っぽく語るのが常だった。しかしパソコンをはじめとする電子機器類にめっぽう弱く、もはや時代遅れの商品になったワープロでさえまだ「一本指打法」しかできない私には、彼の語る内容の半分ほども理解できないというのが正直なところだった。まして彼がやろうとしていることが、私のいる活字本の世界と地つづきで、その将来を大きく左右する可能性を秘めているらしいことは、この取材をはじめるまでうかつにもまったく知らなかった。

 彼はいまや日本の電子出版界を代表する人物とまでいわれている。その彼、ボイジャー代表の荻野正昭(五十四歳)のこれまでの足跡や、これからやろうとしている事柄などについてはおいおい述べるとして、その前に、私のいる活字本の世界がいまどんな状況にあるのか、専門家の意見を聞きながら、あらためて検証していこう。
(佐野眞一著「だれが「本」を殺すのか」プレジデント社 p396-399)

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 キリスト教徒の読むものとしては不適当という理由によって、古代のギリシア人やローマ人の著作は、筆写はされても修道院の図書室の片隅に眠る歳月がつづいていたのです。これらの著作が、人文学者たちによって探し出されて陽の目を見るように変わる。キケロの著作を見つけ出したペトラルカは、その一人にすぎません。これらを読んだ人々は、使われている平易な語彙と明晰で簡潔で論理的な文章構成に眼を見張る。同じラテン語なのに、聖職者の口から出る複雑でもったいぶった中世風のラテン語と、今新たに発見された古代のラテン語では、同じことの表現のしかた一つでも差異があるのを知ったのです。

 言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、言語を使って表現していく過程で自然に生れる、自分自身の思考を明快にするという働きもある。明晰で論理的に話し書けるようになれば、頭脳のほうも明晰に論理的になるのです。つまり、思考と表現は、同一線上にあってしかも相互に働きかける関係にもあるということ。また、流れがこのように変われば、自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の言葉で話し書く魅力に目覚めるのも当然の帰結です。

神を通して見、神の意に沿って考え、聖書の言葉で話し書いていた中世を思い起せば、ルネサンスとは「人間の発見」であったとするブルクハルトの考察は正しい。しかも、言語が人間のものになれば、人間だからこそ感ずる微妙な感情の表現にも出場の機会が訪れる。そして、思考も感性も言語も聖職者の独占を脱したからには、それをなるべく多くの同胞に行き渡らせたいと願うのも当然です。こうして、ラテン語圈の方言の一つにすぎなかったイタリア語は、民族の言語に成長していったのです。

 現代イタリア語の基本は、十四世紀から十六世紀にかけてフィレンツェで書かれた数々の著作によって成ったとされている。ダンテからマキアヴェッリに至るフィレンツェの文人たちによって、イタリア語は言語として完成したのです。その証拠に、彼らの作品には、日本で言う現代語訳のたぐいが存在しない。小学生でも、古風な言いまわしを解説する「注」の助けは借りたにしろ、原文で読まされるのです。フィレンツェの映画館のスクリーンの上の壁画には、詩人でもあったメディチ家の当主ロレンツォが作った詩の一節が原文で刻まれている。明日はどうなるかわからないのだから今を楽しもう、という意味の有名な詩の一句です。

楽しむ今≠ニいうのが映画であるのが笑わせますが、イタリアでは古文が存在しないという事情は理解いただけるでしょう。一方、日本では、『平家物語』や『太平記』や『徒然草』や『花伝書』を、現代語訳でなしに原文で読める人はどれくらいいるだろうか。それなのに同時期のイタリアでは、言語が、聖職者の独占物ではなく俗界の人々のものになっていたからこそ、後代まで理解可能な国語を形成できたのだと思います。そして、この傾向の確立と拡大に力あったのが、発明されたばかりの活版印刷の技術であったのでした。

 ダンテ、ボッカッチョ、マキアヴェッリに、レオナルドやミケランジェロやラファエッロの名を知る人は多いでしょうが、アルド・マヌッツィオの名を知っている人は少ないと思う。だが、この出版人は、ルネサンス文化の創造と普及に偉大な功績をあげた人なのです。この人物に関しては『イタリア遺聞』中の「ある出版人の話」と題した項で記述済みなのでここでは要約に留めますが、現代的に言えば、グーテンベルグの発明の企業化に成功した人、と言えるでしょう。

 グーテンベルグが活版印刷の技術を発明したのは一四五五年であるとされるのが正しければ、アルド・マヌッツィオはその六年前に、南イタリアのナポリ近郊に生れました。成長するにつれていだきはじめた夢は人文学者になることであったようで、まずはローマに出てラテン語を学びます。次いで、北イタリアのフェラーラに居を移す。当時のイタリアで最も有名だったギリシア語の学者が、フェラーラの領主エステ家で家庭教師を務めていたからです。三十を過ぎる頃には彼も、小領主でも教養人一家として知られていたピコ家の家庭教師になる。

当時では知識人ないし有識者の別名でもあった人文学者の二大就職先が、法王や君侯や共和国政府の秘書官か、でなければ有力者たちの子弟の教育係であったからです。とはいえ、家庭教師であっても主君の秘書役まで兼ねる場合も多く、今で言う家庭教師という言葉には収まりきれない存在ではあったのですが。

 ミランドラの領主のピコ家とは、メディチ家が主宰して有名になるアカデミア・プラトニカ(英語読みならばプラトン・アカデミー)の一員のピコ・デラ・ミランドラを生んだ家門ですが、蔵書の質と量でも相当なものであったらしい。アルドの仕事には、ピコ家の蔵書の整理や収集もあった。この仕事に従事していた十年の間に、出版業への認識とそれを起業するに際してのノウハウを、三十代のアルドは会得していったのでしょう。

 出版業をはじめると決心したアルドは、仕事の場はヴェネツィアと決める。一四九〇年、四十一歳の年でした。なぜ彼はヴェネツィアを選んで、フィレンツェやミラノやローマを選ばなかったのか。

 まず第一に、ヴェネツィアにはすでに出版業の一里塚≠ェ築かれていたということ。グーテンベルグの発明から二十年後、ヴェネツィアの二人の版型職人によって、イタリアでは最初の印刷本になる、キケロの『書簡集』が出版されていたのです。これを百部印刷するのに四ヵ月かかったが、それでも従来の筆写に比べれば格段に能率的。そして、最初の試みが成されれば次はより容易になる。再版のときには、要した期間は同じでも、部数は六百に増えていたのです。

 利点の第二は、ヴェネツィアでは言論の自由が保証されていたことでした。当時の言論の自由とは、キリスト教会による干渉や弾圧から自由でいられるということ。自国の経済がオリエントの異教徒との交易で成り立っていたこの海の都は、他の地方では威力があった法王による「聖務禁止」や「破門」に対してもびくともしなかった。なにしろ、「まずはヴェネツィア人、次いでキリスト教徒」と高言していたのがヴェネツィアの市民で、ローマの法王もこのヴェネツィアに対しては、「他のどこでも自分は法王だが、ヴェネツィアではちがう」と嘆くしかなかったのです。

同じ時代にスペインやフランスやドイツで猛威をふるった異端裁判や魔女裁判も、ヴェネツィア共和国では一例も起っていない。ローマ法王庁にプロテストしたとたんに禁書に指定されたルターの著作も、政教分離を説いたがために禁書あつかいになったマキアヴェッリの著作も、ヴェネツィアでならば手に入れることができるとは、当時のフランスからの旅人の手紙にあるとおりです。言論の自由のないところには、出版の自由もない。しかも、言論の自由が保証されるにしても当時のそれは、有力な個人によって保護されるケースが多かった。

『コンスタンティヌスの寄進状』が法王庁が秘かに作らせた偽物であると実証したロレンツォ・ヴァッラは、それに怒った一聖職者によって異端裁判に引き出されそうになりますが、その彼を守ったのは、ヴァッラの主君であったナポリ王でした。しかし、いかに有力者でも個人による保護では恒久性は保証されない。言論の自由の保護にこのような限界があった時代、国家として教会の干渉を拒否しつづけたのがヴェネツィア共和国であったのです。

ルネサンスも終りになる十六世紀後半には、宗教改革に対抗して起った反動宗教改革の大波がイタリアをも襲う。ローマの法王庁も反動宗教改革派に牛耳られ、その中でもとくに戦闘的であったイエズス会による異端者狩りが猛威をふるうように変わる。このような時代にも幸いにして脱獄に成功できた人に、秘かに助けの手を差しのべた人々は一様に忠告する。ヴェネツィアに逃げなさい、と。言論の自由とは、ただ単に言論を職業にしている者に対してのみ意味をもつものではない。他のあらゆる自由の「母」でもあるのです。

 アルドがヴェネツィアを選んだ理由は、この他にも、乱世の時代なのにヴェネツィアだけは国内が安定し繁栄していたので、優秀な職人を集めるのに好都合であったからだ、とか、一四五三年のビザンツ帝国の滅亡を機にヴェネツィアにはギリシアの学者が多く亡命し、この人々の持参した古典の写本を参考にできたからとか利点は数多くあげることはできます。しかし、これらのどれにも増して重要な利点は、言論の自由の保証であったと思う。この一事が、アルド・マヌッツィオを先頭にしてはじまったヴェネツィアの出腹案が、短期間のうちにヨーロッパの規模になった要因でした。

 錨にいるかのマークを印刷したアルド社出版の最初の書物は、一四九四年に刊行された『ギリシア詩集』です。ラテン語の対訳がついているのは、ラテン語ならば学生もふくめた知的エリートに理解でき、しかも当時のヨーロッパでは国際語であったからで、アルド社は販路をヨーロッパ全域と考えていたことがわかります。

そして、記念碑的な大事業と当時から評判だった、アリストテレスの全集の出版が完了したのは一四九八年。古代のギリシア文学作品以外にも、アルド社の出版物には、古代ローマの作品からダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ等のイタリア文学、さらにエラスムスの『ラテン格言集』と、当時の現代文学まで網羅されてくる。

一四九五年から九七年にかけて、全ヨーロッパでは一千八百二十一点の書物が刊行されましたが、そのうちの四百四十七点までがヴェネツィアで出版されている。第二位のパリでも百八十一点です。ヴェネツィアは、印刷技術の発明国であるドイツをはるか後方に引き離した、一大出版王国になったのでした。
(塩野七生著「ルネッサンスとは何だったのか」新潮社 p59-64)

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◎「言論の自由とは、ただ単に言論を職業にしている者に対してのみ意味をもつものではない。他のあらゆる自由の「母」でもあるのです。」と。