学習通信040914
◎「特別な温度をもつことが熱そのものにはできない」と。

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 すでに前のほうで(「経済学」、六)見たように、労働の価値について語ることは、一つの自己矛盾である。労働が或る種の社会的諸関係のもとで生産物ばかりか価値をもつくりだし、そして、この価値が労働で測られるのであるから、特別な価値をもつことは労働にはできないのであって、それは、特別な重量をもつことが重さそのものにはできないのと、あるいは、特別な温度をもつことが熱そのものにはできないのと、同じである。

しかし、〈労働者は、こんにちの社会では、自分の労働の全「価値」を受け取っていない、そして、社会主義の使命は、この弊害を取り除くことである〉、などと空想するのが、真の「価値」についていたずらに思いわずらうすべての社会的錯乱の特徴的な性質である。その弊害を取り除くとなると、まず第一に、労働の価値とはなにかを見つけだす必要がある。

そして、この価値は、〈労働をその十全な尺度である時間で測らないでそれの生産物で測ろう〉とやってみることによって、見つかるのである。〈労働者に「労働の全収益」を与えよう。

労働生産物ばかりか労働そのものがじかに生産物と交換できることにしよう、一労働時間が別の一労働時間の生産物と交換できることにしよう〉、と論者は主張する。

このやりかたは、しかし、たちまち一つの「疑念をいだかせる」難点をかかえこむ。全生産物が分配される。社会の最も重要な進歩的機能である蓄積は、社会から取り上げられて、個々人の手にゆだねられその好き勝手にまかされる。個々人は、自分の「収益」でなんでも好きなことをしてかまわないが、社会の富あるいは貧しさは、せいぜいよい場合でも、前どおりである。

だから、過去に蓄積された生産手段を社会の手に集中したのは、将来に蓄積されるすべての生産手段をもう一度個々人の手に分散させるためであったことになる。こうして、論者は、自分自身の諸前提を真っ向からやっつけて、まったくの不条理にいきついてしまったのである。

 〈流動的な労働を、つまり、活動中の労働力を、労働生産物と交換させることにしよう〉、と言われる。そうなると、この労働力は、それと交換されるはずの生産物とまったく同様に、商品である。そうなると、この労働力の価値は、けっしてそれの生産物に照らして規定されるのではなく、自分に体現されている社会的労働に照らして、したがって、こんにちの賃金法則に従って、規定されることになるのである。

 いや、それこそまさにあってはならないことなのだ、と言われる。流動的労働つまり労働力は、それの全生産物と交換できることにしよう、と。つまり、労働力は、それの価値とではなくそれの使用価値と交換できる、ということにしよう、というのである。〈価値法則は、他のすべての商品にはあてはまらせよう、しかし、労働力にかんしては廃止されたものとしよう〉、というわけである。そして、自分自身を無効にするこういう混乱が、「労働の価値」の背後に隠れているのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p197-199)

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 諸商品の価格は賃金によって決定されるというのは、どういう意味なのか? 賃金とは労働の価格の名称にほかならないから、それは、諸商品の価格は労働の価格によって規制されるということである。

「価格」は交換価値であり──私が価値というのはいつも交換価値のことである──、貨幣で表現された交換価値であるから、この命題は、「諸商品の価値は労働の価値によって決定される」、または「労働の価値は価値の一般的尺度である」という命題に帰着する。

 しかし、それでは「労働の価値」それじたいはどのようにして決定されるのか? ここでわれわれはゆきづまる。ゆきづまるというのは、もちろん、われわれが論理的に推論しようとすればである。だがこうした説を提出する人たちは、論理上の疑念などにはこだわらない。

たとえば、わが友ウェストン君を見てみよう。はじめに彼はわれわれにこう言った。賃金が諸商品の価格を規制する、したがって賃金が上がれば価格も上がらざるをえない、と。つぎに彼は一転してわれわれにこう説明した。賃金を引き上げてもむだであろう、なぜならば、そのときにはもう諸商品の価格は上がったあとだからであり、また賃金はじっさい賃金が費やされる諸商品の価格によってはかられるものだからである、と。

こうして、労働の価値が諸商品の価値を決定するという主張からはじまって、諸商品の価値は労働の価値を決定するという主張で終わる。こうしてわれわれは、いかんともしがたい悪循環のなかで右往左往し、まったくなんらの結論にも達しないのである。

 要するに、一つの商品、たとえば労働、穀物その他なんらかの商品の価値を、価値の一般的な尺度および規制者にしても、われわれはそのことによって困難を他に転ずるにすぎないのである。というのは、われわれは、ある価値を、それはそれでなにかによって決定されなければならないような別の価値によって決定するわけだからである。

 「賃金は諸商品の価格を決定する」というドグマは、これをもっとも抽象的な言葉で言いあらわせば、「価値は価値によって決定される」ということになり、この同義反復が意味するものは、われわれが、じつは、価値についてなにもわかっていないということである。もしこの前提を承認するならば、経済学の一般法則にかんするいっさいの推論は、たんなるたわごとになってしまう。

だから、リカードウが、一八一七年に刊行された彼の『経済学原理』のなかで、「賃金が価格を決定する」という古く、俗受けのする、陳腐な謬論を根本からくつがえしたのは、リカードウの偉大な功績であった。この謬論は、アダム・スミスと彼のフランスにおける先駆者〔重農主義者〕たちが、彼らの研究の真に科学的な部分ではしりぞけていたが、しかし彼らの研究の比較的通俗的で俗流的な諸章でふたたびもちだしたものである。
(マルクス著「賃労働と資本」「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p122-124)

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 労働の賃金のいかなる変動も、これらの商品の相対価値には少しも変動をひき起しえないだろう。その理由はこうである。──もし利潤が一〇パーセントであれば、その場合には一〇パーセントの利潤をあげて一〇〇ポンドの流動資本を更新するためには、一一〇ポンドの収益がなければならない。

利潤率が一〇パーセントの時に、等額の固定資本部分を償却するためには、年々一六・二七ポンドが受領されなければならない。というのは、金利が一〇パーセントの時には、一〇年間にわたる一六・二七ポンドの年金の現在価値が一〇〇ポンドであるからである。したがって、狩猟業者の猟獣全部は年々一二六・二七ポンドで売れなければならない。

だが、漁撈業者の資本量も同じであり、固定・流動資本に配分される割合も同しであり、また、〔使用される固定資本の〕耐久力も同じであるから、彼も同額の利潤をあげるためには、彼の財貨を同じ価値で売らなければならない。

たとえ賃金が一〇パーセント騰貴し、その結果それぞれの産業で必要とされる流動資本が一〇パーセント増加するとしても、それが双方の事業部門に及ぼす影響は等しいだろう。双方の部門ともに、以前と同量の商品を生産するためには、二〇〇ポンドではなく二一〇ポンドが必要になるだろう。だが、これらの商品は、以前とまさに同額の貨幣に対して、つまり一二六・二七ポンドで売れるだろう。それゆえ、それらの商品の相対価値は同じであり、利潤は双方の産業で均等に低減するだろう。

 それらの商品の価格は騰貴しないだろう。なぜなら、仮定によって、諸商品を評価する貨幣は、その生産につねに同一量の労働を要するため、不変の価値をもっているからである。

 貨幣を産出する金鉱が同一国内にあると仮定しよう。その場合には、賃金騰貴の後には、以前資本として使用された二〇〇ポンドで取得されたものと同一量の金属を取得するのに、二一〇ポンドが必要になるだろう。狩猟業者や漁撈業者がその資本を一〇ポンド増加することが必要になったのと同じ理由で、鉱山業者もその資本に等額を増加することが必要になるだろう。

これらの職業のいずれにおいても、所要労働量が増加するのではなくて、労働に支払われる価格が騰貴するだろう。そこで、狩猟業者や漁撈業者に、その猟獣や魚の価値を引き上げようと努めさせるのと同し言い分が、鉱山所有者にもその金の価値を引き上げようとさせるだろう。

この誘因はこれら三つの職業のすべてに同じ力で作用しており、またこれらの職業に従事する人々の相対的地位は賃金騰貴の前後を通じて同じであるから、猟獣・魚・金の相対価値はひきつづき不変であろう。賃金は二〇パーセント騰貴し、その結果利潤がそれよりも大きな比率か、小さな比率かで下落することがあるだろうが、それによってこれらの商品の相対価値に変動がひき起されることは、少しもないだろう。

 今、同一の労働と固定資本とを用いて、捕獲できる魚は増加するけれども、金や猟獣は少しも増加しないと仮定すれば、金や猟獣と比較した魚の相対価値は下落するだろう。一日の労働の所産が二〇尾ではなく、二五尾の鮭になるとすれば、一尾の鮭の価格は一ポンドではなく、一六シリングになり、一頭の鹿と交換に与えられる鮭は、二尾ではなく、二尾半になるだろう。

しかし、鹿の価格は、ひきつづき以前と同じニポンドであろう。同様に、もし同一の資本と労働とを用いて獲得できる魚が減少すれば、魚の相対価値は騰貴するだろう。そうだとすれば、魚の交換価値が騰落するのは、ただ一定量の取得に要する労働が増減したからであるにすぎない。そして、その騰落が必要労働量の増減の比率を超えることは、けっしてありえない。

 その場合、他の諸商品の変動を測定できる不変の標準があれば、諸商品が永続的に騰貴することのできる最高限度は、その生産に必要な労働量の増加分に比例しており、その生産に必要な労働が増加しない限り、それらが少しでも騰貴することはありえない、ということがわかるだろう。

賃金の騰貴は、それらの商品の貨幣価値を引き上げないだろうし、また、その生産に必要な労働量が少しも増加せず、その生産には同じ割合の固定資本と流動資本とが使用され、同じ耐久力をもつ固定資本が使用される他のいかなる商品と比較しても、引き上げないだろう。すでに述べたことだが、もし他の商品の生産に必要な労働が増減すれば、それによって直ちにその相対価値の変動がひき起されるけれども、こういう変動は必要労働量の変動によるのであって、賃金の騰貴によるのではない。

 そこで、本節によって明らかであるように、資本が蓄積されても、蓄積が諸商品の一つないしそれ以上のものの生産の容易さの増大、もしくは困難の増大を伴わぬ限り、諸商品の相対価値は賃金の騰貴によっては必ずしも変動しない。
(リカードウ著「経済学および課税の原理 -上-」岩波文庫 p40-43)

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◎賃金があがれば物価があがる……賃金を抑えないと競争に勝てない。商品の価格を下げるために……本当なのか。

◎「自分の労働の全「価値」を受け取っていない」と。もし受け取ってしまえばどうなるのだろうか。社会の発展は……。