学習通信040915
◎「宗数的反映そのものも消滅する。」……。

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 ところで、すべての宗教は、人間の日常生活を支配している外的な諸力が人間の頭のなかに空想的に反映されたものにほかならず、そして、この反映のなかでは、地上の諸力が天上の諸力という形態をとるのである。

歴史の初期には、まず最初に自然の諸力がこの反映の対象となり、その後の発展のなかで、さまざまな氏族のあいだできわめて多様なきわめて雑多な人格化をこうむるのである。

こういう最初の過程は、少なくともインドヨーロッパ諸民族については、比較神話学の手で、インドの『ヴェーダ』におけるその起原までさかのぼって跡づけられているし、その後の経過については、インド人・ペルシア人・ギリシア人・ローマ人・ゲルマン人において、また、材料の及ぶ限りではケルト人・リトアニア人・スラヴ人においても、個々の点について立証された。

しかし、まもなく、自然の諸力と並んで社会的諸力も作用するようになる。この社会的諸力も、自然の諸力そのものと同じようによそよそしく、また、はじめには同じように説明できないまま、人間にあい対し、見かけは同じ自然必然性をもって人間を支配するのである。はじめはただ自然の神秘的な諸力だけを反映していた空想的な形姿が、こうして、社会的な属性をもつようになり、歴史的な諸力の代表者となる。

或るもっと進んだ発展段階では、多数の神々のもっていた自然的および社会的な属性が、ことごとく全能の唯一神に移される。そして、この唯一神そのものは、これまた抽象的人間の反射にすぎないのである。このようにして一神教が成立した。

これは、歴史的には〔古代〕ギリシア後期の俗流哲学の最終の産物であって、ユダヤ人の排他的な民族神ヤハウエ〔エホヴァ〕は、これをすでにできあがった姿ではっきり具体的に表わしていたのである。

こういう便利で手ごろで万事に適応できる姿では、宗教は、人間を支配しているよそよそしい自然的および社会的諸力にたいする人間のふるまいの直接のつまり情動的な形態として、人間がそのような諸力に支配されているあいだ、存続できる。

すでにしかし何度も見たように、こんにちのブルジョア社会では、人間は、自分自身がつくりだした経済的諸関係に、自分自身が生産した生産手段に、或るよそよそしい力に支配されるかのように支配されている。だから、宗数的反射作用の事実上の基礎は存続しているわけで、それとともに、宗教的反射そのものも持続している。

そして、たとえブルジョア経済学がこのようなよそよそしい力の支配の因果連関をいくらか洞察する道をひらいたとしても、実際上はなにも変わらない。ブルジョア経済学には、恐慌を全体として阻止することもできなければ、個々の資本家を損失と貸しだおれと破産とから守ることも、個々の労働者を失業と貧困とから守ることも、できない、いまでもやはり、〈事を計画するのは人間、事の成否を決するのは神(つまり、資本主義的生産様式というよそよそしい力の支配)>、という状態になっている。

ただの認識だけでは、たとえそれがブルジョア経済学の認識よりも先へまた深く進んだものであっても、社会的諸力を社会の支配に服させるには足りない。そのためには、なによりもまず、一つの社会的行為が必要である。

そして、この行為が実際にされたとき、社会が、全生産手段を掌握し計画的に運用することによって、自分自身とその全成員とを、現在この生産手段──成員たち自身が生産したものなのに、よそよそしい優越した力として成員たちに向かいあっている、この生産手段──のためにとどめおかれている隷属状態から解放したとき、したがって、人間がもはやただ事を計画するだけではなく事の成否をも決するようになるとき、はじめてそのときに、いまでもまだ宗教のうちに反映されている最後のよそよそしい力が消滅し、それとともに、宗数的反映そのものも消滅する。

それは、〈そのときにはもう反映できるものがなにもないから〉という、簡単な理由によるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p203-205) 
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商品生産者たちの一般的社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがってまた価値として取り扱い、この物的形態において彼らの私的諸労働を同等な人間的労働として互いに関連させることにあるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的人間を礼拝するキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント、理神論などとしてのキリスト教がもっともふさわしい宗教形態である。

古アジア的、古代的等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、それゆえまた商品生産者としての人間の定在は、一つの副次的な役割を──といっても、共同体が崩壊の段階にはいっていけばいくほど、ますます重要になる役割を──演じている。本来の商業民族は、エピクロスの言う神々のように、あるいはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、古代世界の空隙にのみ存在する。

あの古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもはるかに簡単明瞭ではあるが、それらは、他の個々人との自然的な類的連関の臍帯からまだ切り離されていない個々人の未成熟にもとづいているか、さもなければ、直接的な支配隷属関係にもとづいている。

それらの生産有機体は、労働の生産諸力の発展段階の低さによって、またそれに照応して狭隘な、物質的生活生産過程の内部における人間の諸関係、それゆえ人間相互の諸関係と人間と自然との諸関係によって、制約されている。

この現実の狭隘さが古代の自然宗教や民族宗教に観念的に反映している。

現実世界の宗教的反射は、一般に、実際の日常生活の諸関係が、人間にたいして、人間相互の、また人間と自然との、透いて見えるほど合理的な諸関連を日常的に表わすようになるとき、はじめて消えうせる。

社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれるとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる。

けれども、そのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難に満ちた発展史の自然発生的産物である一連の物質的実存諸条件が、必要とされる。
(マルクス著「資本論 @」新日本新書 p134-135)

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五、宗教問題での日本共産党の基本的態度

 日本共産党は、日本国民とその現在および未来にたいして自主的責任を負う科学的社会主義の党として、宗教にかんして次のような基本的態度をとる。

(1)日本共産党は、伝道・布教をふくむ信教の自由を無条件で擁護する。
 日本共産党は、戦前、天皇制権力の国家神道政策と、それに批判的な宗教団体、信仰者への迫害に反対してたたかい、戦後最初の大会である一九四五年十一月の第四回党大会で決めた行動綱領でも、言論・出版などの自由とともに「信仰の完全な自由」をかかげた。新憲法作成過程の一九四六年に発表した日本共産党の憲法草案では、「信仰と良心の自由」、「宗数的礼拝、布教の自由」をうたった。

 宗数的礼拝や結社、布教・伝道の自由などをふくむ信教の自由の全面的保障には、政教分離の貫徹が不可欠である。そのさい、どの宗教、宗派も活動を認めあうことが大切であり、特定の宗数団体が自分以外の宗教の存在を認めず、力ずくで排撃するようなことは、信教の自由を宗教の側から破壊することになろう。

(2)日本共産党は、政教分離という民主主義的原則の貫徹をはかる。政教分離は、中世封建社会の政教一致主義を打破するたたかいのなかで明確にされてきた民主主義的原則である。これには二つの側面がある。

 第一は、国家にかかわる問題である。国家にとって宗教は私事、すなわち個人の内面的問題であり、国家は、どんな宗教にも特権をあたえたり、逆に差別的にあつかったりしてはならず、信仰の問題への国家のいかなる介入も許されない。わが国では、戦前の絶対主義的天皇制権力が、国家神道をつくり、天皇および政府指導者が神官に直接参拝し、全国民に神社参拝を強制するなど、極端な政教一致主義をとったが、現在も自民党など反動勢力は、靖国神社国営化という政教分離に反する企図をもっている。

現憲法は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定しており、この民主的規定を貫徹しなければならない。

 第二は、宗教の側にかかわる問題である。現憲法は「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」としている。宗数団体は、共通の信仰にもとづいて組織されているものである。

信仰者と宗教団体が広い意味での政治参加の権利をもつことは当然であるが、宗教団体が特定政党とその議員候補の支持を機関決定して、信者の政治活動と政党支持の自由を奪うことは正しくない。信者一人ひとりの政治活動と政党支持の自由を大切にすることは、民主主義の初歩的原則である。しかも、宗教団体の特定政党支持は、信者の民主主義的自由を奪うだけでなく、その政党の誤った態度まで宗教団体が支持するという二重に有害な結果をもたらす。

 日本共産党は、民主主義的な政教分離の原則のわい曲や空洞化に反対し、その全面的貫徹のためにたたかう。

(3)信教の自由を擁護し、国家の宗教問題への介入に反対するとの立場は、将来のいかなる社会においてもつらぬかれる日本共産党の不動、不変の原則的態度である。

 われわれの展望する社会主義社会、さらに共産主義社会における、宗教の将来にかかわる問題は、自由な理論的予見の領城に属するが、宗教的信仰が存在するかぎり信仰の自由は無条件に擁護される。このわれわれの態度は、将来の社会主義社会でも、共産主義社会でも不変であり、何人によってもこの原則の侵害は許されないであろう。

 一九七〇年の第十一回党大会では、将来の展望として、独立・民主の日本はもちろん、社会主義日本においても信教の自由を保障することが確認されている。この日本共産党の一貫した見地は、一九七四年十二月に調印された創価学会との協定にも書きこまれた。

一九七五年秋のイタリア共産党、フランス共産党との共同コミュニケでも、民主的変革の段階においてはもちろん、将来の社会主義社会においても、言論、思想、集会、結社の自由、文化・芸術表現の自由、複数政党制などとともに「布教の自由をふくむ信教の自由を完全に保障する」ことが一致して強調されている。

 信教の自由は、思想、言論、集会、出版、結社の自由などの基本的自由と対立するものではなく、その一翼である。したがって、政権に批判的な宗教団体であっても、その活動の自由が保障されることは当然である。

 わが党の理論的立脚点である科学的社会主義と、その科学的世界観は、神仏などの超越者や彼岸≠フ世界の存在を信じないが、党の世界観の問題と国家や社会の精神生活の問題とは、別個の事柄である。

共産党が科学的社会主義の世界観をもっているからといって、共産党がめざす社会や国家のなかで、それ以外の世界観や哲学の多様な存在を認めないとか、科学的社会主義の世界観を国家のイデオロギーとして社会全体におしつけるなどは、党と国家の混同であって、絶対にあってはならないことである。

わが党のめざす社会主義社会にも、共産主義社会にも、いかなる「国定の世界観」もなければ、「官許の哲学」も存在せず、特定の思想や信仰を行政的手段でおしつけたり禁止したりするいかなるイデオロギー的強制も存在しない。

 わが党は、科学的社会主義者として、この科学的世界観が将来は人類の多数者のものとなるだろうと確信している。しかし、これは人類の精神生活の将来の発展についての予見であって、わが党は現在においても将来においても、国家権力による思想や信教の問題への介入には、絶対に反対である。将来社会でどの世界観、どの哲学が、どれだけの比重と影響力をもつかは、行政的手段によってではなく、思想自身の力、その社会の成員一人ひとりの自由な選択によってきまる問題である。

 日本共産党が理想としている共産主義社会は、人間による人間の搾取をすべて根絶することはもちろん、あらゆる人びとに、豊かな物質的繁栄と精神的開花を保障する「真に平等で自由な人間関係の社会」(党綱領)である。未来のこの自由な共同社会においては、複数の世界観や価値観の存在する自由は尊重され、科学的世界観の保持者も宗教をふくめ他の世界観の保侍者も、平等かつ個性ある成員として自由な共同社会を形成するであろう。
(「日本共産党第一二回党大会第七回中央委員会総会決議」赤旗」一九七五年十二月二十一日)

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 さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。
(前衛04年4月臨時増刊号「日本共産党第23回大会特集」──日本共産党綱領──」P25)

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◎宗教に対する科学的社会主義者の態度を確立しよう。