学習通信040916
◎「権威にしがみつき出世をねらい私腹を肥やすのは、ほとんどが男性」……と。
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男らしさ・女らしさ
一時、主に働く女性たちの間で、「男前」というのが同性をほめるための形容詞として流行した。今でも若い人たちの会話の中には、ときどきこのことばが出てくる。自分をしっかり持って仕事の腕も一級、でも情に厚く面倒見もよい。
「オンナは自分さえよければいい」などという固定観念が存在した時代もあったが、「男前」はその反対。八十年代に漫画家の中尊寺ゆつこさんが提唱した「おやじギャル」とも共通するが、「男前な女」の特徴はなんといってもこの「自分の利益だけではなくまわりのことも考えている」ことにあろう。つまり、公共性の精神を持っているのだ。
具体的には、本人の前でも堂々と「ユキさんってホント、男前ですねえ」と言い、言われた方は「そうかな?」とうれしそうに照れ笑いをする、そんな使われ方をすることが多い。
説明は不要だとは思うが、「男的」は決して現実の男性に近いことを意味しているわけではない。あくまで、「かっこいい女性」を表現するためのことばである。そしてこれは、外見のいわゆる「男っぽさ」とはまったく関係がない。それどころか、「男前な女」たちは服装や化粧にもきちんと気をつかっているため、外側はむしろ「女性っぽく」見える。
従来の男性──いわゆる「おじさん」──は、こういった外側と中身が離反した「男前な女」の複雑なあり方を理解せず、見た目だけで「色っぽくてイイ女」と言うか、仕事ぶりから「まさに男まさり」と言うかだろう。目の前にいる人をこれまでの「男」か「女」、どちらかの性の概念に無理やり分類することしかできないのだ。遂に、そういう人たちこそが「おじさん」と呼ばれるのかもしれない。
では、「男前な女」が増える中で、実際の男はどうなっているのだろう。容易に想像がつくとは思うが、「男前な男」はそれほど増えているとは思えない。職場でも、自分のために、また後輩や会社のためにせっせと働く「男前な女」たちを横目で見ながら、権威にしがみつき出世をねらい私腹を肥やすのは、ほとんどが男性。しかもそういう男たちは「男前な女」に対しては「オトコだかオンナだかわからない」と冷たく、決して自分の恋愛や結婚の対象として彼女たちを選ぶことはない。
かくして、まだまだ男性中心の企業や組織では「男前な女」は同性や後輩からは熱い支持を集めても、出世もパートナー探しもなかなか思うようにできず、と十分、幸せになりきれないケースも少なくない。その姿をいやというほど見てくると、最初は「私も先輩のように仕事もできて人間も大きな人になりたい」と思っていた若い女性たちも、「やっぱりそんなことしても損するだけだから」とあきらめざるをえなくなる。
もちろん、すべての若い女性たちが、社会で仕事に全力投球する人生を選択する必要はない。しかし、「そうしてみようかな」と考えた人が「やっぱりやめた」と断念してしまうのは、やはり社会全体の損失とも言える。そうならないようにするには、大人の男性たちがまず、「外見は女性的だが、内面的には自立してしっかり働こうとする男前の女」という新しい女性のあり方を認めることが必要。
そして、今や従来の意味での男らしさ──公共性や指導カなど──は彼女たちの中にしかないかもしれない、ということも一度、考えてみた方がよい。そしてその上で、「よし、では自分がそういう女性をサポートしていこう」と決意するのが、「新・男前な男」と言えるのかもしれない。
若い人たちの中には、すでにそういう女性たちを素直に尊敬し、愛することのできる男性たちも目につき始めている。しかし、そういう若者の中にも、社会に出て従来の「男か女か」という価値観の洗礼を受けて、すっかり変わってしまう人もいる。
政治の世界を見ても、自分やせいぜい自分の属する派閥の利益のことしか考えていない男性の政治家にまかせておくと国が危機に瀕する、と多くの国民が気づき始めているはず。これからは、若い「男前な女」と、彼女たちと共生できる「新・男前な男」に期待するしかない。大人たちは、せいぜいそういう若者の邪魔をしないようにし、彼らが少しでものびのびと自分の能力を発揮できる社会を残せるか、真剣に考えた方がいい。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p176-179)男らしさと女らしさ
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男らしさと女らしさ
マルクスの「告白」
「男はやさしく、女はおおしく、なんてこないだいったけどね」とA君が入ってくるやいなや、きりだした。
「マルクスが正反対のことをいってるんだってね。あなたのすきな男性の美徳は≠ニいう娘の問いについては強さ≠ニ答え、あなたの好きな女性の美徳は≠ニいう問いについては弱さ≠ニ答えてるんだって。これ、どういうことかね」
「まあ、マルクスって、そんな人だったの」とC子がいった。
「さすがマルクス、といいたい気もちょっぴりするけどな」とB君がいった。
そのマルクスのことばは、私も知っている。その当時はやっていた「告白あそび」というやつの一節で、「あそび」だから、まじめな答もあるがじょうだんめいたのもある。
「あなたのすきな美徳は?──素朴」「あなたの幸福とすることは?──たたかうこと」「あなたの不幸とすることは?──屈従」「好きな標語は?──すべてを疑う」などというのはもちろん正面きって答えた部類だが、「すきな名前は?」という問への答が「ラウラ、イェンニー」となっているのは、これは娘の名前だし、「好きな料理は?」という問にたいして「魚」と答えているのは、「料理」(ディッシュ)にたいして「魚」(フィッシュ)という語呂合わせのシャレだ。だからまあ、あのマルクスの答も、半分じょうだんの要素もあるんじゃないかな。
そんなふうにとりあえず私はいってみたのだが、C子はなっとくしなかった。「じょうだんのなかに本音がでるものよ」というのだ。
「寅さんの告白」
そこで私も考えた。私には、なにもマルクスのいうことを、なにからなにまで弁護しなければならないという義理あいはない。マルクス大先輩のことばであっても、まちがってるものはまちがってるといわねばならぬ。だが、問題のマルクスのことばについては、もう少し考えてみる余地があるのではないか。
まず、美徳としての強さとはなんだろう、と私は考える。あらゆる強さが無条件に美徳であるというわけではあるまい。たとえばヤクザの「強さ」はどうか。
「あれは強さじゃなくって弱さだよ。金や権力には卑屈で弱くて、弱いものにたいしてだけやたらと強がるんだから」とB君がいった。
そのとおり、本質的な弱さのあらわれとしての見かけの「強さ」もあるわけだ。こんなのは美徳どころか、悪徳だろう。
これにたいして、寅さんの場合はどうか。
寅さんが強いものをもっていることを否定する人はいまい。そして寅さんが、見かけはヤクザっぽいけれども、その本質においてヤクザと正反対のものであることを否定する人もまたいまい。
「ははあ、寅さんに告白≠やらしたらおもしろいだろうな」とA君がいった。
そうだ、そうしたらおもしろいだろうなあ、きっと。そうしたら、寅さんはどう答えるだろうか。
「男性の美徳はやさしさ、女性の美徳はおおしさ、なんて、けっしていいはしないだろうな」とB君がいった。
「そうだな、寅さんだったらやっぱり、男は強さ、女は弱さ、と答えるだろうな」とA君もいった。
「それはきっとそうね」と、意外にすなおにC子もいった。「寅さんははずかしがり屋だもんね。すると、マルクスは寅さんみたいな人だったというわけ?」
それは必ずしもそうでもないだろうけどさ、マルクスの男らしさと寅さんの男らしさとには、一脈あい通じるものがたしかにあるとは思うなあ。男だから、ぼくにはそれがわかるんだ。
強さのあらわれとしての「弱さ」
そこで、「女は弱さ」と寅さんがいうとすれば、その「弱さ」とはなんだろう、ということになった。
「それはね、強さのあらわれとしての弱さなのよ」とC子がいった。「女だから、私にはそれがわかるんだ」
「むつかしいこといって女を売りこむんだなあ」とB君がいった。「だけど、わかる気がするね、男だからな、ぼくも」
そうだ、わかるなあ、ぼくも、男だからね。
寅さんが「男の美徳」として口にするにちがいない「強さ」が、じつはやさしさのあらわれとしての強さであるように、そしてまたそのことが男であるぼくによくわかるように、そのように寅さんが「女の美徳」として口にするにちがいない「弱さ」が、強さのあらわれとしてのカッコつきの「弱さ」、つまりやさしさだということ、よくわかるような気がするんだなあ。
「だいたい、女はしぶといからね。山で遭難したときも、先にまいるのは男のほうで、生き残るのは女だそうじゃないか」とB君がいった。
「それは脂肪がたっぷりあるせいだろう」とA君がいった。「でも女のほうが男より平均寿命が長いのも事実だな」
「とにかく女はしぶといんだよ」と、またB君がいった。
「しぶとくってわるかったわね」とC子が応じた。「でも、子どもを生み育てていくうえでは、恥や外聞にかまっておれないってことも女にはあると思うわ」
「するとなにかい、男は恥や外聞にかまけがちな弱さがあるというのかい」
それはあるだろうなあ、B君、現実の問題としてね。それが生理的なものに由来するのか、それとも男中心の社会でやしなわれた社会的なものか、あるいはその両方か、ということはともかくとして、たしかにそれはあるんじゃないかな。恥や外聞のために男があっさりあきらめたり、思いきったりすることを、女は容易なことではあきらめず、思いきらない。それがマイナスのかたちで出ると、それは「女の愚痴」となり「女心の未練」となるが、同様に、男の決断、思いきりは、へたをするとポッキリ折れるもろさとなり、もしくは安全地帯への逃避となり、あるいは五月の鯉の吹流しということにもなるだろう。
「あれ、それは腹に一物ももたないサッパリした気性、という意味じゃないの?」とB君がいった。
「裏をかえせば、かっこうだけはいいけどなかみはからっぽ、ということにもなるじゃない」とC子がいった。
ソプラノとバス
「寅さんの告白」を想定することによって、マルクスの「告白」への疑問はなんとなく消えたかたちになったが、ではほんとうの意味の男らしさ、女らしさとはなんだろうということが、あらためて問題になった。真の男らしさが、やさしさと強さの統一であり、真の女らしさが、強さとやさしさの統一だとすれば、両者のちがいは事実上なくなってしまいはしないか、という疑問を、またB君が提出したからだ。
「カレー・ライスも、ライス・カレーも、けっきょくおんなじだもんな」とB君がいった。
「それとこれとはちがうと思うわ」とC子がいった。「男らしさも女らしさも、共通の本質をもってはいるけど、そのあらわれかたがちがうのよ、性のちがいに応じてね」
「ぼくもそう思うな」とA君がいった。「おなじ光でも、凸レンズをとおるのと、凹レンズをとおるのとでは、曲がりかたがちがうんだ」
そうだ、声の場合だってそうだろう。いい声、音楽的な声というのがある。だけどそれは、男性の場合と女性の場合とでは、あらわれかたがちがう。男だったらバスかテノールになり、女だったらアルトかソプラノになるのだ。
「私の人間らしさはおのずから女らしさとしてあらわれてくるということね。女らしくあろうとするまえに、人間らしくあろうとつとめること。それが真の女らしさへの道だってことね。異議なし。賛成」とC子がいった。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p59-64)
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◎「男らしさも女らしさも、共通の本質をもってはいるけど、そのあらわれかたがちがうのよ、性のちがいに応じてね」……と。