学習通信040919
◎「「さて私はどちらを選ぼうか」という選択の余地はそこにはない」……と。

■━━━━━

 ナンシー関の予言

 消しゴム版画家にしてコラムニストのナンシー関は、かなり前から「W杯の時期が来るのが気が重い」と書いていた。ナンシーは、人々が目の前に与えられた何か──それがテレビ番組であろうとイベントであろうと──を疑いなしで受け入れて、感動したり熱狂したりするということに、生理的な気持ち悪さを感じていたようだ。

相手がどんなに人気者や権力者であっても疑問を感じたときは平気でそれを書いてきたナンシーは、文章の中で自分にツッコミを入れることも忘れなかった。熱心にだれかを批判しながら、いつも「そういう自分はどーよ?」と自己を相対化する。「自分で自分を見る視線」が彼女ほど厳しかった人も、そういないはずだ。

 そういうナンシーにとっては、そこに集う人が批判精神も自己の相対化も放棄して、ただ目の前で起きていることに夢中になる姿が、とても不気味に見えていたのだろう。そうやって結集する人たちがぷちナショナリズムから本格的なナショナリズムに傾いていく危険性をこれまで論じてきたが、ナンシーはイデオロギーとしてナショナリズムがどうかというより、その萌芽を直感的に感じるような場、集団がとにかく不気味に見えたのだと思う。二〇〇二年六月になり、ナンシーの恐れていたW杯が始まった。まだ一〇日もたっていない段階で、彼女はコラムにこう書く。

と、こんな枝葉末節なところをつつきながら、なんとかこのワールドカップを乗り切ろうとしているわけである。何かね、もう積極的に「嫌だ」とか「うるさい」とか絡んでいく気がしないのである。もはやちょっと引き気味。怖いです。気味悪っす。(「テレビ消灯時間」『週刊文春』二〇〇二年六月二十日号)

 この「気味悪さ」の理由についてナンシーは、「大きなスポーツイベントが来ると、人は何故か心ひとつに束ねられてしまいがちなのは解ってたけれど、今回のワールドカップは束が太い」からだと自分で解釈する。繰り返しオリンピックやW杯の「気味悪さ」について書いてきたナンシーの熱心な読者ならすんなり読めるこの解釈だが、実際にW杯に熱狂しているサポーターなら、なぜ「人の心がひとつに束ねられること」が不気味なのか、それからしてよくわからないかもしれない。

 このコラムではナンシーは、また別の怖さとして「普段は集合住宅のマナーをきちんと守っているカタギな善人が、カタギな善行として(注・得点場面などをテレビで見ながら)奇声を発しているって構造」もあげている。ここでは、声をあげるほうが善行で、それに文句を言うのはもちろん、声をあげない、試合の中継を見ないというほうが誤った行いなのである。

「さて私はどちらを選ぼうか」という選択の余地はそこにはないし、「私は善行を演じているのだ」という芝居の意識も彼らにはないだろう。それなのに、知らないうちに「そうしなければおかしい」という気分にさせられて、本当にサッカーが好きなのか日本代表を応援したいのかを考える間さえ与えられず、反射的に「ギヤーッ」と奇声をあげている。

 いつのまに、だれによって彼らは「束」にさせられているのか。それとも自然発生的に「束」になっただけなのか。その前に、彼らは「束」の一部になっているという自覚があるのか。それがいっこうに見えてこないので、ナンシーは「怖い」と言うのだ。

 コラムニストの彼女は、繰り返しオリンピックやW杯に対して「怖い」「気味悪い」と自らの生理的嫌悪感を表明するだけで、十二分にその使命を果たしていたと思う。本来なら、それは言論人、知識人と呼ばれる人たちの役割であるはずだが、彼らがそれを果たせないなら、せめてナンシーが連呼した「怖い」「気味悪い」の正体をきちんと分折して見せるべきだった。
(香山リカ著「ぷちナショナリズム症候群」中公新書ラクレ p171-174)
■━━━━━

 少年たちによる「浮浪者狩り」の光景

 この原稿をここまで書いてきたとき、横浜市内の中・高生のグルーブがつぎつぎと浮浪者を襲って殺傷した、という事件に接しました。「浮浪者は汚いから」「酒臭いから」だからやったと少年たちはいい、「遊びでやった」ともいっているといいます。「襲っても反撃してこない。おびえて、こわがって逃げまどう。それを追いまわすのは面白かった」とも。また、他の少年グループとのけんかの下稽古として、ともいっているそうですが。

 襲われて死亡した老人の場合、ガード下に寝ているところを数人がかりでなぐりつけ、蹴りあげ、頭をたたき割り、血だらけになって動けなくなったのをゴミかごのなかにおしこめてふりまわした、というのが目撃者の証言です。通りがかりの老婦人を空気銃でねらいうちした少年もいる、ということです。

 とっさに私は、松本零士の作品『銀河鉄道999』の冒頭のシーンを思いうかべました。金で機械の体を買った「機械人間」たちが、生身の体のままの貧乏人たちをなぐさみ半分に狩りたてて殺している、というシーンです。それは、そこでは、遠い未来の地球での話ということになっていたのですが……。

 「子どもたちの世界で、弱者≠選んで、なぶる、という傾向があらわになってきたのは、この数年のことだといわれる」と朝日新聞は伝えています。「最初は、子どもたちの間の弱者≠見つけ、それを集団で痛めつける、という形だった。対象として選ばれるのは、体の弱い子、障害のある子、勉強のできない子、家の貧しい子、加えて、いじめられても抵抗しない、あるいは、できないような、おとなしい性格の子どもたちなどだった。」しかし、このような事件は、最近二、三年、「もはや日常の光景」になってしまっており、そして「子どもたちのホコ先は、一年ほど前から、大人の弱者≠ノも、向けられ始めている」でも、その「大人の弱者」を襲った少年たち自身が、やはり、さまざまな形で「おちこぼれ」させられていった、その意味での「弱者たち」であったのです。そうした少年たちが、薄暗いゲームセンターなどにたむろしているのを見ると、いいようのない思いにかられます。

「浮浪者襲撃事件」の少年たちも、ゲームセンターから警察に引きたてられていったのだそうです。「彼らは未来の自分たちを襲ったのだ」という感想を述べた人がいました。真実がつかれている、と私は思います。恐ろしい真実の一面が……。

ゴリキーの「ヒューマニズム宣言」の背景

 このようにいうことは、あの襲撃事件の被害者たちを加害者たちのなれのはてとして片づける、ということではもとよりありません。朝日新聞にのせられたつぎの投書を読んでみてください。「自由業、五二歳」とあります。

 「私はかつて、薬物の後遺症のためルンペンのごとく暮らした時期がある。自殺しそこねて世の中を改めて直視した時、人間そっくりのブタやサルどもが、何らかの理由で不幸な境遇に陥った人々に対し、人間面して言いたい放題を口にしているのを知った。私の人生観は一変した。このブタやサルどもが死滅するか、改心して本物の人間に回帰しない限り、自分から死ぬのはやめた、と考えた。

 横浜の浮浪者殺傷事件を知った時、異様なショックとともに、もし加害者が浮浪者をただ怠惰かつ無能の非人のごとく考え、世間に代わって抹殺するのが善なりと知恵足らずの発想からそうしたのなら、まだ情状酌量の余地はあると思った。しかるに何ごとか! 中、高校生ら少年の、遊びであったとは。

 ルンペンに悪党はいない。彼らはひっそりと、世間に出来る限り迷惑をかけまいと心掛けながら、世の享楽にもべっ視にも何一つ文句をいう訳ではない。己一人の人生のタ暮れを静かに生きているだけである。彼らの心の底からは、人の心はついぞ失われたことがないのだ。思い上がったガキどもよ、君らこそ、ルンペンに足げにされ殴られてしかるべきだ。だが、安心するがいい、彼らは決してそんなことをしないし、ましてや殺すなどとたわけたことは絶対にしないのだ。諸君は、己の心を永劫の昔にかえして正すがいい」

 「ルンペンに悪党はいない」という言葉については、私は長い注釈、但し書きが必要だと思っていますが、それはいまはやめにしておきます。ともあれ私には、これがまるでゴリキーの作中人物の言葉のようにきこえてくるのです。ゴリキーの時代と今の時代とでは、けっして同じではありませんが、それでもやはり、これをたんに、過去の時代の声としてだけ聞くことはけっしてできないでしょう。

 先ほどゴリキーの「ヒューマニズム宣言」を紹介しましたが、この『どん底』の作者は自分自身、まさしくこのようなどん底の体験者でした。「ゴリキーは、生まれるとすぐに、人生のどん底に沈んでいった」とルナチャルスキーが書いています。八歳の時から社会にほうりだされ、自分で食べていかなければなりませんでした。クズひろい、コック、小僧、パン焼き、聖像売り、人足など、食べていくためには何でもやりました。文字どおりの浮浪者生活も。「盗みなんて、場末の町じゃ、別に悪いことなんかじゃない、ただの習慣さ。いや、それどころか、食えない貧乏人に残された、たった一つの生きる方便だ」とも彼は語っています。

 「彼は筋肉労働のもっとも困難な、もっとも苦しい形態を知った。どん底というものを知った。彼はその苦しい少年時代に、餓え、打撃、侮辱と、さまざまな辛酸をなめた。世間は容赦しなかった。生命の糸は千回も断ちきられようとした」 (ルナチャルスキー)

 あのゴリキーの「ヒューマニズム宣言」は、こうした背景のなかから発せられたものです。

「毛布の重さ」とファシズム

 もう一つ、やはり朝日新聞の「今日の問題」欄から書きうつしておきたいと思います。

 「十余年前、大阪のドヤ街。あいりん地区≠ノ泊まり込んで、取材したことがある。

 毛布をかぶって、広場の一隅に老人が寝ていた。まくら元で四、五人の浮浪者が酒を飲んでいる。体の具合が悪いのかと老人に聞くと、ひどい肺結核なのだという。どうして病院、に入らないのか、とさらに聞くと、ついこの間まで入っていたのだが、生活が窮屈なので逃げ出したのだという。

 お医者も看護婦も、あれだけ親切にしてくれたのに逃げたのだから、容体が悪くなったから、また入れて下さいとは、義理が悪くていえない=@通りに易者が座っていた。二重、三重の人垣が、まわりにできている。さあ、ただで手相を見てやる≠ニ、易者がいったとたん、五、六本の手が突き出された。易者は、その一つを引き寄せていう。
 おまえは、くにへ帰れ。くにへ帰ってくにの女と世帯をもて=@そういったとき、くに≠ニいう言葉に打たれたかのように、人垣からおー≠ニ嘆声が起こった。

 その後、あいりん地区は変わっただろうか。この地区を見続けている大藪寿一大阪市大教授にたずねたら、ドヤも住人の生活も、まったく以前と同じということだった。

 今の社会は競争本位で、足腰の弱い者を振り落とす。広場の病人のような生き方、考え方もある。そして人々がここに吹き寄せられてくる。
 相変わらず、ドヤ街の住人は、易者を取り巻いた人たちのように孤独である。最近の調査によれば家族なし∞故郷の家族と離れている。妻なし≠ェ、あわせてハ割を超える。

 浮浪者を襲った少年たちは、地面の湿気を吸った毛布の重さや、くに≠ニいう言葉におー≠ニ声をあげる人たちの孤独を思わない。少年たちは、浮浪者をただ汚い≠ニいう。

 長い間、われわれは横浜の少年たちと同じように、他人を汚い≠ニさげすむ誤りを重ねてきた。人が人を汚い≠ニいう風潮は、一種のファシズムの始まりではないか」

 これもまた、ゴリキーの作品の一節そのもののように私にはひびいてきます。そして、ヒューマニズムの問題についていま真剣に考えなければならない理由が、ここに示されている、と思います。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」(1983)学習の友社 p17-23)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「人が人を汚い≠ニいう風潮は、一種のファシズムの始まりではないか」と。