学習通信040923
◎「あやまればこそ人間」……。
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あやまればこそ人間
ここで私は「あやまればこそ人間」ということばを思いだします。昔からいろんな人がいろんなニュアンスでこのことばを口にしてきましたが、私はこのことばがたいへん好きです。すでにこれまでも、他の文章のなかで再三、このことばを引用したことがありますが、ヒューマニズムの精神の端的な表明として、また科学的精神の重要な核心にもかかわるものとして、ここでもまた、このことばが自然にうかんできます。
誤解はないと思いますが、念のためにいいそえておけば、「あやまればこそ人間」というのは、けっしてたんに人間の弱さ、おろかさだけを指摘しているのではありません。「人間は神さまではないから、つねにあやまりをおかすもの」というのは、たしかに一方では、人間の弱さ、おろかさの自覚という要素をもふくんでいますが、同時に「だからこそ人間はすばらしいのだ」という自覚──これがもう一つの面であり、ここに核心があるのです。
なぜ「あやまりをおかすからすばらしい」のかといえば、それによってどこまでも進歩していけるからです。進歩・発展の余地のない「いきどまりの真理」、神がかりの 「絶対的真理」──非寛容の精神、他にたいする排除の論理をともなうところの──にたいする、それは真っ向からのアンチ・テーゼでもあるのです。
だから「あやまればこそ人間」というのは、「どうせ人間はあやまるものだから」と、そのあやまりにあぐらをかく──あやまりのなかにすわりこんでしまうことを意味するものではありません。反対に、つねにあやまりを発見し、つねにそれを乗りこえていくという積極的な努力の姿勢を前提にしているのです。「人間は、努力しているかぎりあやまるものだ」というゲーテの 『ファウスト』の一節が示しているように。あるいはまた、「あやまったことが悲しいのではありません。あやまりの原因がわからないことが悲しいのです」という、キユリー夫人のことばが示しているように。
ついでながら、「あやまる」という日本語には、二つの意味があります。一つは「まちがう」という意味で、「誤」という漢字があてられます。これまで使ってきたのはもっぱらこの意味でした。しかし、もう一つには「わびる。頭をさげる。謝罪する」という意味で使われる場合があり、これには「謝」という漢字があてられます。神がかりの「絶対的真理」をふりかざす信仰の立場は、これをうけいれない人にたいしてその「誤り」をみとめて「謝る」ことを要求します。土下座して謝罪すれば許してやらぬものでもないというぐあいに。ローマ法王庁がガリレオ・ガリレイにたいして要求したのがまさにそれでした。
科学的精神が「誤り」にたいしてとる態度は、これとはまったく異るものです。キュリー夫人のことばは、そのこともはっきと示しておると思います。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p54-56)
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──このような決議ははなはだあぶなげがなく、誤りをおかすおそれがまったくないことを、認めてやらなければならない。それはちょうど、なにも語らないためにものを言う人間には、誤りをおかすおそれがないようなものである。そして、このような決議をつくるためには、ただ一つのことしか必要でない。運動の後尾にくっついてゆくことができれはよいのである。
(レーニン著「なにをなすべきか?」国民文庫 p80-81)
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◎学習通信031219 を重ねて深めましょう。