学習通信040925
◎「どの著作のなかでマルクスは、唯物史観を叙述したのであろうか?」と。

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 ところで、『資本論』を読み終わって、そこに唯物論を見いださないというまねをやってのけた人間がいる、ということ以上に滑稽で奇妙なことを、諸君は想像できるだろうか! 唯物論はどこにあるのか?──ミハイローフスキイ氏は心の底から当惑して、こう質問している。

 彼は『共産党宣言』を読んで、現代秩序──法的な秩序も、政治的秩序も、家族的秩序も、宗教的秩序も、哲学的秩序も、それらの説明が、そのなかで唯物論的に与えられていることに気がつかなかったし、さまざまな社会主義理論や共産主義理論の批判さえ、それらの根源をあれこれの生産諸関係のなかに探し、見いだしていることに気づいていない。

 彼は、『哲学の貧困』を読んで、プルードンの社会学の検討が、唯物論的な観点から導き出されていることにも気づかなかったし、プルードンが提起したきわめて多様な歴史上の諸問題の解決の仕方にたいする批判が唯物論の諸原理から出発していることにも気づいていないのである。これらの諸問題の解決のために資料を探す必要があると言う著者自身の指摘はすべて、生産諸関係への言及に帰着することにも気づいていない。

 彼は『資本論』を読んで、自分の前に一つの──それももっとも複雑な──社会構成体の唯物論的な方法による科学的な分析の手本があること、すべての人に認められた、誰によっても陵駕されていない手本があることに、気づいていない。そして彼は腰をおろしたまま、深遠な問題にたいするその頑健な思索を働かすのである。「どの著作のなかでマルクスは、唯物史観を叙述したのであろうか?」、と。

 マルクスを知っている人なら誰でも、これにたいして別の質問で彼に答えたはずである。どの著作でマルクスはその唯物史観を叙述しなかったろうか? と。しかし、ミハイローフスキイ氏が、マルクスに唯物論研究があることを知るのは、きっとカレーエフ某の手で、なにかの歴史脆弁論的労作のうちで、『経済的唯物論』という題名のもとに適当な番号によってその研究が指摘されるときだけであろう。
(レーニン著「「人民の友」とはなにか」新日本出版社 p23-26)

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『資本論』を一般理論の書とだけでみないこと

 『資本論』は普通は経済法則の著作ということになっています。そもそもマルクス自身が、「近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である」とのべているわけです。

 ところが実際に『資本論』をよんでみると、経済法則を軸にしながらも、その法則が資本主義社会の現実にどのようにあらわれ、さらには社会をうごかしているか、その生きた過程として政治、国家、法律、裁判、戦争、そして哲学、イデオロギー、主義主張、理論、教育、などがいたるところにでてきます。

ところによっては階級闘争そのものが延々とつづく、戦術問題さえでてくるということになっています。労働組合問題そのものもあります。しかもそれがたんに全部あるというだけではなくて、具体的な歴史の事実をつらぬく、土台と上部構造の相互関係の法則性としてのべられていて、上部構造問題はすべて根源にさかのぼって位置づけられるということになっています。

 『経済学批判』の序文で、唯物史観をみちびきの糸にするとされていたことは、実際はこれほどにふかいことなのかと、よむものを驚嘆させる分析がつぎつぎにあらわれるということになっています。そして、そういうふうに書きすすめられることをとおして、結局は『資本論』は経済学の書であることをこえて、「科学的社会主義の学説の理論的主柱」といわれるものにまで、たかめられることになっていったのでしょう。

 『資本論』をよむものは、このことを意識してよみすすむのと、ただたんにむつかしいところを理解しようとしてそのことで満足してしまう、それでもうフラフラになってしまうというようにして、よんでいくのとでは、資本主義の経済的な運動法則の深さと広がりの全体のつかみ方で、欠けるところがでてくるということになるのではないでしょうか。このような視点を明言をもって指摘したのは、先に推した『資本論と今日の時代』論文なのですが。
(吉井清文著「どうやって「資本論」をよんでいくか」清風堂書店 p195-197)

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◎資本論を「科学的社会主義の学説の理論的主柱」として読む。