学習通信040926
◎「知の力と技術」……@
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知の力と技術
これまでに述べてきたことは、「信仰は力」というスローガンにたいして「知は力」ということをスローガンとしてかかげる、それが近代ヒューマニズムならびに近代科学の立場であった、というふうにまとめなおすこともできるでしょう。
「信仰の立場」は当然のことながら、「信仰は力」ということを力説してきました。信仰によって「絶対的な力」にあずかれば何一つできないことはない──病気だってなおせるし、鳥のように自由に空を飛ぶことも、魚のように自由に深海の底にもぐることも、何だってできる、とまでそれはいったものです。
しかし、そのようにして現実に空を飛んだ人は一人もなく、深海の底にもぐりえた人は一人もいませんでした。信仰の力によってペストや天然痘の恐怖から人間が解放されることもまた、不可能でした。
しかしいま、人間は、現実に自由に空を飛ぶことができ、鳥もかよわぬ月の世界にまで、その足跡をしるしとどめることができるようになっています。深海の航行だって可能ですし、かつては不治の病とされた幾多の病気も、いまは簡単になおすことができるだけでなく、予防することさえできるようになっています。どのようにしてそういうことができるようになったのでしょうか? 「知の力」によってです。知の力としての科学と、その具体化としての技術の力によってです。つぎの詩をよんでみてください。
地上には、巨人がいる。
彼には、苦もなく機関車をもちあげるような腕がある。
一日に数千キロも走れるような足がある。
どんな鳥よりもずっと高く雲の上を飛べる翼がある。
どんな魚よりもずっとたくみに水中を泳げるひれがある。
見えないものを見るそんな目があり、
他の大陸での声がきける耳がある。
山をつらぬき瀑布をさえぎる、そんな力を彼はもつ。
彼は思いのままに大地をつくりかえ、
森林を育て、海と海をつなぎ、砂漠を水でうるおす。
この巨人とは何ものか?
この巨人−それは、人間である。
これは、『森は生きている』の作者マルシャークの弟にあたるイリーンという人が書いた『人間の歴史』という本の冒頭におかれているものですが、これをイリーンの 「ヒューマニズム宣言」と呼ぶこともできるでしょう。
ここに歌われている巨人の腕、足、翼、ヒレ、等々が何であるかは注釈を要しないでしょう。それは、知の力、その応用としての技術の所産である人工の腕、足、翼、ヒレ、等々をさしています。それらはすべて、人間がもってうまれた肉体器官としての腕・足・等々ではなく、自然物を加工してつくりだされたものです。
「自然物がそれ自身、人間の能動的な活動の器官となる。それを人間は、聖書のことばにもかかわらず、自分自身の肉体諸器官につけくわえて、自分の自然の姿をひきのばす」という、マルクスの『資本論』の一節が思いあわされます。「聖書のことば」とは、「汝らのうち、誰か思いわずらいて身の丈一尺を加ええんや」ということばです。「どんなに努力してみても、自分の力で身長をちょっとでものばせる人などいはしない」という意味ですが、この聖書のことばにもかかわらず、人間の知の力は人工の手・足・等々をつぎつぎとつくりだし、それによって自分をつぎつぎと拡大してきたのであり、宇宙の大きさにまで自分を拡大する可能性をもっているのです!
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p54-56)
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《人間は考える葦である》と語ったのはパスカルであった.思惟する,というのはたしかに人間のひとつの重要な特徴である.人類という動物種をさす学名「ホモ・サピエンス」(知恵あるもの,の意味)もこの考え,すなわち人類を理性をもつもの,思考するものとして特徴づける考えに相応したものであろう.
しかし,人類と,自然界の諸多の動物種とをこの理性もしくは「思惟」という一点において区別することは,もちろんそれなりの理由はあるが,一面的に過ぎる而も感ぜられる.人間はその築き上げてきた社会や文明とともに人間としての存在を考えられているのであろうし,人間の文明も社会も,決して人間の思惟,その精神活動のみから生れてきたものではないからである.
また,もしかりにそうであったとしても,何が人間をして「理性をもつもの」,「思惟するもの」たらしめたか,すなわち諸多の動物種の進化の過程でどのようにして「理性をもち思惟する」人間が誕生するきっかけが与えられたか,という問はまた別個の問題として存在する.人間の存在が歴史的なもの,自然史的なものであるとみるかぎり,人間の本質もまた,それを彫り上げてきた自然史的側面からの光をあててみなければならない.
人間の本質としてその精神活動の面のみを重視する傾向に批判的なある人びとは,人類史の分析を基礎にして,人間の本質を「ものをつくり出す」という点にみた.彼らは,「ホモ・サピエンス」に対して「ホモ・ファーベル」(つくり出すもの,の意)という語を造語した.人間の精神的活動に対置されるものとして技術的実践をおき,人間を人間たらしめたものは,「考えること」よりもまず「つくること」であったとするのである.「はじめにことばありき」ではなく,「はじめに道具ありき」なのであった.
これはしばしば生産的労働という語によってもおきかえられて表現される.たとえばエンゲルスはいう.《労働は富の源泉であると経済学者はいう.……しかし労働は無限にそれ以上のものである.……ある意味では労働が人間そのものをつくり出したといわなければならない……》彼はこの考えを,その社会への分析の基礎においた.
人間そのものの形成史におけるこのような技術的実践の役割は,科学の成立過程においてはさらに重要な地位を占める.人間が「考えるもの」であると同時に,あるいはそれ以前に「つくるもの」であったという事実が,まさに科学を誕生させたものだったからである.
もちろん今日の時代,科学と技術の関連を改めて強調するまでもないようにも思われるが,人類の歴史の上では,少なくとも見かけの上では,科学と技術とはそれほど緊密なものではなかった.実際,人間文明の初期には,技術は存在しても科学は不在であった.多くの経験の蓄積を通じてさまざまの「ものをつくり出すわざ」が一応の形を整えたあとに,分析と思考を通じて科学が芽生えていったのである.しかも,こうして芽生えた科学は必ずしも技術と密着してはいなかった.
たとえばギリシアの哲人たちが自然界に思索の目を向けたとき,その科学的思考は技術とはかなりに距離を置いたものであった.哲人たちにとっては,自然は思惟の対象であり,実践の場ではなかったのである.思惟によって創造された多くのものも,技術的実践とは直結せず,その応用が生産面に生かされることなどは考えられなかった.科学は思惟に,技術は実践にと,まったく分離されていたのである.
(藤村・肱岡・江上・兵藤著「科学その歩み」東京教学社 p1-2)
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◎「科学は思惟に,技術は実践にと,まったく分離されていた」と。