学習通信040927
◎「その結論だけを法則として知っただけでは」……。

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 社会の生きた現実と切り結ぶ

 科学的社会主義の経済学を勉強しようという人のために、いろいろな教科書や手引き書が発行されています。こういう手引き書は、経済学の全体の姿を手取り早くつかんで、本格的な勉強にとりつきやすくするとか、いろいろ役にたつ点はたくさんあるのですが、だいたいそこに書かれているのは、資本主義社会にはたらいている法則を一般的な形でまとめた法則集です。

商品交換を支配している価値法則はこういう内容のものだ、資本の搾取のしくみはこういう内容で、資本の運動をつらぬいている法則はこうだとか、そういうことが、簡潔にまとめられているのが普通です。こうした法則は、たいてい、『資本論』のなかでマルクスが明らかにしたり、基礎づけたりしたものばかりですが、その結論だけを法則として知っただけでは、経済学を本当に勉強したことにはならないし、ましてや経済学を、私たちが生きている今日の社会を分析する理論的な武器として活用することはできません。

 さきほど引用したエンゲルスの手紙にもあるように、マルクスは、利潤論にしても、地代論にしても、そういう一般的な法則としてだけなら、『資本論』第一部を出版する前にすべて発見し、経済学の変革をなしとげていたわけで、彼がそれで満足したのだったら、それから二十年も苦労と研究をかさねる必要はなかったでしょう。

 ところが、マルクスは資本主義社会の運動法則を明らかにするこの仕事において、法則を一般的な形でつきとめただけでは満足しなかったのです。マルクスは、その法則を頭のなかで考えだしたわけではなく、まさに彼が生活していた資本主義社会全体の徹底的な研究、事実にもとづく全面的な研究にもとづいて、明らかにしました。

ですから、彼は、それを著作のなかで展開するときにも、ただ一般的な法則として読者に提供するのでは満足せず、それらの法則が資本主義社会の現実にどのようにあらわれ、社会を動かしているか、その生きた過程を綿密に追求し、読者の眼前にえがきあげてみせたのです。

 『資本論』第一部は、「資本の生産過程」という表題で、資本主義的生産の現場である工場のなかで、資本による労働者の搾取がどのような法則にもとづいておこなわれ、それがどんな社会的結果をひきおこすか、という問題を、第一の研究課題とした部分ですが、この第一部を書くときに、マルクスは、その当時世界で資本主義的にもっとも先進的な発展をとげていた国、産業革命をもっとも早く経験した国──イギリスを、なによりの研究の舞台としました。

『資本論』第一部のなかでは、イギリスの資本主義の歴史──封建社会の胎内で資本主義が発生し成長しはじめる十五世紀から、マルクスが活動していた十九世紀にいたるまで、四、五百年にわたるイギリス資本主義の歴史が、生き生きとえがきだされ、理論的な解明と展開の一歩一歩が、いつも、イギリス資本主義の現実的分析と結びついてすすめられてゆきます。

『資本論』では、いろいろな「法則」や「概念」がひとり歩きしているわけではなく、どこの章をとっても、そこには資本主義社会を構成しているいろいろな階級が、生きいきと登場してきて、これらの「法則」や「概念」が、社会の現実の働き、諸階級の生活や闘争のなかにどのように具体的にあらわれ、作用しているかを、読者はたいへん具体的につかみとることができるのです。

 これは、あとの章で少し詳しく話したいと思っていることですが、マルクスは、剰余価値の法則を論じた「労働日」(第八章)や「機械と大工業」(第一三章)などの章を書くときに、イギリス議会に提出された「工場監督官報告書」、「児童労働調査委員会報告書」、「公衆衛生報告書」などを徹底的に研究し、それを活用しました。「最後の仕上げをしているあいだに、青書〔議会報告書──不破〕が次々にとびこんできた。そして、僕の理論的な諸結論が事実によって完全に確証されているのを見て、有頂点になった」(マルクスからエンゲルスヘ ー八六七年八月二十四日、全集40巻二七三ページ)。

これらの報告書は、ぼう大な記録で、図書館にはおさめられていても、マルクスが活用するまでは、経済学者でこれをまじめに読んだ人はおそらくだれもいなかったでしょう。マルクスはこのように、「一般的科学的な展開」と、官庁資料による労働者階級の状態の具体的な叙述とが結びついていることを、『資本論』の重要な特徴とみなしていました。

 マルクスは、第三部の地代論についても、こういう態度で研究をすすめました。資本主義的地代の本質の法則的な解明という点では、基本的な仕事はもう一八六〇年代のはじめに終わっていましたが、マルクスは、ひきつづき世界各国の歴史や現状について広範な研究をおこない、とくに、「土地所有の形態も農耕生産者の搾取の形態も多様だった」ロシアに注目し、わざわざロシア語まで勉強して、ロシアの農業問題、土地所有問題について徹底した研究をおこないました。

エンゲルスによれば、地代論では「第一部の工業賃労働のところでイギリスが演じたのと同じ役割をロシアが演ずるはずだった」(『資本論』第三部序文、全集二五巻a一二ページ)のです。

 またマルクスは、アメリカの農業問題の資料も取り寄せましたが、第三部の信用論のために、アメリカの信用制度についての資料もひろく集めました。それは、アメリカが「資本主義的集中による変革が、そこほど恥しらずな形で──それほど急速に──おこなわれたところはない」(マルクスからゾルゲヘ ー八八〇年十一月五日、全集二四巻三九五ページ)ような、資本主義の発達の一つの典型だったからです。

 このように、資本主義の現実を全面的にとらえ、その具体的な発展と第一線で切り結びながら、生きた地代論、生きた信用論を展開しようというのが、第一部から第三部まで全巻に共通する、マルクスの基本的な態度でした。そこに教科書や手引き書では感得しえない『資本論』の底深い値うちがあります。

 いうまでもなく、マルクスは、『資本論』のために準備した研究のすべてをこれに書き込めたわけではありません。マルクスが、第三部のために準備したロシアやアメリカの土地制度や信用制度についてのぼう大な研究は、研究の途中でのマルクスの死によって、結局『資本論』には利用されないまま終わりました。エンゲルスは、マルクスの死後、ロシアやアメリカについてのぼう大な準備資料を発見したとき、その研究成果が生かされないままになったことを惜しんで、つぎのような嘆息をもらしています。

 「もしアメリカやロシアの大量の資料(ロシアの統計資料だけでも二立方メートルを越える)がなかったら、第二巻はもうとっくに印刷されていたことだろう。こうした細目研究が何年も彼を引きとめていたのだ。いつものように、今日にいたるまでの資料が完璧に揃っていなければならなかったのだ。だが、今となっては彼の抜き書のほかはなんの役にも立たない。この抜き書だが、彼の習慣から判断して、おそらく第二巻の注解に利用できる多くの批判的傍注が含まれていることだろう」(ゾルゲヘ ー八八三年六月二十九日、全集三六巻四一ページ)

 しかし、資本主義社会の現実と徹底的にとりくみながら、この社会の運動法則を明らかにするという彼の精神は、『資本論』の全巻をつらぬき、すべての章でその真価を発揮しています。

 こうして、『資本論』のためにマルクスが研究したのは、イギリス資本主義だけではありません。実際、『資本論』のなかに登場する国は、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北アメリカ、さらに大洋州と、五大陸四十数ヵ国にものぼっています。

日本は、マルクスが『資本論』を書いたころは、幕末から明治への変革の過程にあって、ヨーロッパには、幕末の日本の状態がいろいろな「旅行記」や断片的な報道で伝えられていた程度だったと思いますが、マルクスがそういうものも図書館でちゃんと読んで、日本の封建制について実にみごとな分析をしていることは、前に「マルクスと日本」(本書所収)で紹介したとおりです。『資本論』でマルクスが日本の封建制や農民経営についてのべた文章は、戦前の日本資本主義論争のなかで、野呂栄太郎や服部之総などの理論家によって、指針として大いに援用されたものでした。

 社会の現実にとりくむ『資本論』でのマルクスの視野は、近代社会──資本主義社会だけにはとどまりません。

マルクスは、『資本論』のなかで、資本主義社会の特質を明らかにするためには、太古の原始共産制や奴隷制、封建制など資本主義以前の歴史社会をとりあげ、これと資本主義社会との対比を広範におこなっていますが、そのさいにも、彼は、一般的、抽象的な規定ですますことはせず、古代エジプトやギリシャ、ローマの社会、中世ヨーロッパ、あるいはヨーロッパ人に破壊された南米のインカ人社会などについて、当時として可能なかぎりの具体的な研究をおこない、それを基礎にふまえて議論をすすめています。

だから、エンゲルスは、資本主義以前の社会に関する経済学についても、マルクスが第一人者だということを、十分な確信をもってのべることができたのです。

 「ブルジョア経済にたいするこの批判を完全におこなうためには、資本主義的な生産、交換、分配の形態を知っているだけでは不十分であった。この形態に先行した諸形態や、発展の遅れている国々にいまなお資本主義的な形態とならんで存在している諸形態をも同様に、せめておおまかにでも研究し、比較しなければならなかった。このような研究と比較を全体としておこなったのは、いままでのところマルクスだけであり、したがって、ブルジョア期以前の理論経済学についてこれまでに確かめられたことは、これまたほとんどまったくマルクスの研究に負っているのである」(エンゲルス『反デューリング論』、全集二〇巻一五六ページ)

 私が希望したいのは、みなさんがこれから『資本論』を読むとき、それが、経済の諸法則を一般的、理論的に展開しただけの書物ではなく、マルクスが生き、そしていま私たちが生きている資本主義社会とその歴史の具体的な分析の書であり、そこにそのつきない魅力の大きな源泉があるのだということを、よく頭に入れて、『資本論』を読みすすめていってもらいたい、ということです。
(不破哲三著「「資本論」と今日の時代」新日本出版社 p66-72)

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学習通信040925 のつづきです。

入門書学習では力にならない……。

資本論は「資本主義社会とその歴史の具体的な分析の書」、命がけで挑戦しても値打ち物です。……「一生に一度は「資本論」を読んでみたい」という本の出版の値打ちもわかる気がします。

学習通信040701 にも引用しました吉井先生の「一生に一度は「資本論」を読んでみたい」には次の文章があります。

「受講生自身が学生募集の担い手になる意欲をもつかどうかが、講義の適切さの最高の証人です。マルクスが精魂を傾けたようなエネルギーと分析力に学ぶ、労働者状態の絶えざる吸収、その講師団での系統的な交流・検討なしには、十分には成立たない活動です。「資本論」の全体像を動員する思考が求められると痛感することしきりです。」

学びごたえ主義≠フ京都中央労働学校の運営活動、募集活動を進める上で重要な指摘だとあらためて確信します。言うまでもなく講師団への指摘にとどまりません。運営委員すべてに求められているものです。募集の停滞の本質問題がここにあります。