学習通信040929
◎040903 ◎地獄の沙汰も金次第……A

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「吁《ああ》、宮《みい》さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処《どこ》でこの月を見るのだか! 再来年《さらいねん》の今月今夜……十年後《のち》の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」

──略──

「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財《かね》なのだね。如何《いか》に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相《あいそう》は尽きないかい。

 好《い》い出世をして、さぞ栄耀《えよう》も出来て、お前はそれで可からうけれど、財《かね》に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂《い》はうか、口惜《くちをし》いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺《さしころ》して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。

それを怺《こら》へてお前を人に奪《とら》れるのを手出しも為《せ》ずに見てゐる僕の心地《こころもち》は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他《ひと》はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候《ゐさふらふ》でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾《をとこめかけ》になつた覚《おぼえ》は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物《なぐさみもの》にしたのだね。

平生《へいぜい》お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意《つもり》で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽《たのしみ》も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。

 それは無論金力の点では、僕と富山とは比較《くらべもの》にはならない。彼方《あつち》は屈指の財産家、僕は固《もと》より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財《かね》で買へるものぢやないよ。

幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。

 己《おのれ》の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有《も》つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧《むし》ろ害になり易《やす》い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。

 然し財《かね》といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝《すぐ》れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚《ひど》い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然《ふつと》気の変つたのも、或《あるひ》は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎《とが》めない、但《ただ》もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂《い》ふことを。

 雀《すずめ》が米を食ふのは僅《わづ》か十粒《とつぶ》か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒《ひもじ》い思を為せるやうな、そんな意気地《いくぢ》の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」

 貫一は雫《しづく》する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁《ゆ》く、それは立派な生活をして、栄耀《えよう》も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招《よば》れて行く人もあれば、自分の妻子《つまこ》を車に載せて、それを自分が挽《ひ》いて花見に出掛ける車夫もある。

富山へ嫁《ゆ》けば、家内も多ければ人出入《ひとでいり》も、劇《はげ》しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷《いた》めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽《たのしみ》に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費《つか》へるかい。

雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼《よ》るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財《かね》が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。

 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外《おもて》に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似《まね》をして、妻は些《ほん》の床の置物にされて、謂《い》はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦《くるしみ》ばかりで楽《たのしみ》は無いと謂つて可い。

お前の嫁《ゆ》く唯継だつて、固《もと》より所望《のぞみ》でお前を迎《もら》ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財《かね》が有るから好きな真似も出来る、他《ほか》の楽《たのしみ》に気が移つて、直《ぢき》にお前の恋は冷《さま》されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地《こころもち》を考へて御覧、あの富山の財産がその苦《くるしみ》を拯《すく》ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽《たのしみ》かい、満足かい。

 僕が人にお前を奪《と》られる無念は謂《い》ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変《こころがはり》をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀《かあい》さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。

 僕に飽きて富山に惚《ほ》れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過《あやま》つてゐる、それは実に過《あやま》つてゐる、愛情の無い結婚は究竟《つまり》自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別《ふんべつ》一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便《ふびん》だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直《しなお》してくれないか。

 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨《うらやまし》いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛《かはゆ》くは思はんのかい」(尾崎紅葉「金色夜叉」新潮文庫 p69-76)

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 つけ加えさせてもらいたい、私のこれはというすきなことは、どれもこれも、全て買えないもののなかにはいるということを。私に必要なのは、純粋の享楽でしかない。金銭はすべての享楽を毒する。私の好むのは、たとえば、会食のたのしみだ。ただし、上流の集まりの窮屈さも、キャバレ〔安宿、居酒屋〕の下品なあそびも、私にはたえられない。

せいぜい一人の友人とむかいあって、はじめてそのたのしみを味わうことができる、といった程度である。自分ひとりではできない。一人であると、想像がほかのことに走って、たべるたのしみはお留守になるからである。ときに血がもえあがって、女を要求することがあっても、私の感動した心は、それ以上に愛のほうを要求する。金で買うことのできる女は、いくら魅力があっても、ないにひとしい。そんな魅力をどう利用したらいいのかわからない。手のとどく範囲の享楽は、すべてがこのとおりで、無償でなかったら、なんのおもしろさも感じない。ほんとうに味わうことのできる人にしか得られない幸福だけを、私は愛するのだ。

 金銭が人の考えているほど貴いものだとはどうしても思えなかった。そればかりか、たいして便利なものとさえも思われなかった。そのままではなんの役にもたたない。何かに変えなければ、もっていてもたのしみはない。物を買ったり、値切ったり、しばしばだまされたり、ぼられたり、つかまされたりしなくてはならない。

いい品物を買いたいと思う。自分でお金をだしながら、しかもきまって、わるいものしか手にはいらない。高いお金をはらって買うあたらしい卵、それがきっと古い。見事な果物、熟していない。ういういしい娘、すれっからしだ。いいぶどう酒がほしい、だがどこで手にいれる? 酒屋で? どう気をつけたって、毒のようなものを盛られる。是が非でもいい食事をだしてもらって生活したいと私が思えば? なんという気苦労、なんというめんどうなことだ! 知人を、照会先をつくる。やれ、ことづて、やれ手紙、行く、くる、待つ。そして、とどのつまりは、やっぱりだまされる。自分のお金で、なんという苦労! いい酒がほしいよりも、この苦労がいやだ。

 徒弟時代にも、それからのちにも、あまいものなどを買うつもりで、何回となく、でかけた。菓子屋の店に近づくと、勘定台に女たちの姿がちらつく。そうすると、この食いしんぼうの小僧に対する彼女らどうしの嘲笑を見るような気がする。果物屋のまえを通る。見事な梨を横目でちらと見る。たまらない匂い。そのすぐそばで、二、三の若者が、私をじろじろ見ている。私を知っている男がその店さきにでている。遠くから娘が一人やってくるのが見える。

家の女中ではないかしら? 近眼の私には無数の錯覚が起こる。通行人が全部知りあいの人間のように思われる。いたるところで気おくれがし、何かしらじゃま物にひっかかる。はずかしさとともにほしさが増す。そうして結局、欲望に身をやきながら、ばかのようになってかえってくる。ポケットには欲望をみたすだけのものをもちながら、何一つ思いきって買えない。

 自分からにせよ、人にたのんでにせよ、お金を使うときに、いつも経験したあらゆる種類の当惑、羞恥、嫌悪、不便、不快をいちいち述べたてたら、じつにくだらないこまごとに立ちいることになろう。伝記がすすん
で、だんだん私の気質がわかってくるようになれぼ、くどくど述べなくても、読者はすべてを察してくださるだろう。

 それがわかれば、いわゆる私の自己撞着の一つ、すなわち、このうえもなく金銭を軽蔑しながら、ほとんど貪欲にも近い物おしみをするという気持が、容易にわかるだろう。金銭は私にとっては非常に不便な道具だから、もっていなければべつにほしいとは思わないし、もっていても、すき勝手に使う方法を知らないから、そのまま長くしまっておく。だが、ふといい機会に出あって、都合もよく、気にもいれば、たちまち消費して、知らないあいだに財布がからになる。

といっても、みえで金をつかう守銭奴の常套癖を私の心にせんさくしてもらってはこまる。全く反対に、かげでこっそりと、自分のたのしみのために使うのだ。見せびらかして使うどころか、かくれて使うのだ。金は私に用のないもの、ほとんどもつのもはずかしいくらいで、それを役だてるなどは、もってのほかだという気さえする。

 もしも楽にくらせるだけじゅうぶんの収人があったら、物おしみをするようにはなっていないだろう。それははっきりとそういえる。自分の収入を全部消費して、それをふやそうなどとは思わないだろう。だが、不安定な地位は、私をいつも心配でおどおどさせている。私は何よりも自由を愛し、拘束、苦労、隷属をにくむ。財布の金がつづくあいだは、私の独立が保証される。ほかにもうける策略をしなくてもすむ。金につまることを思うと、いつもぞっとした。

ただ、金がつきるときのおそろしさで、それを大事にするまでなのだ。所有する金は、自由を得るための手段となる。追い求める金は、身を奴隷におとしいれる。そういうわけで、私は金をしっかりとしまいこみ、そしてべつに何もほしがらないのである。
 私の無欲は、だから、怠惰にほかならない。もっているたのしみは、得ようとする苦痛とはくらべものにならない。私の浪費も、やはり怠惰にほかならない。たのしく使える機会にあえば、いくらでも使ってしまう。物よりも金にひかれないのは、金とほしい物を手にいれることとのあいだには、いつも何か介在するものがあるのにひきかえて、物とその物を享楽することとのあいだには、何一つ介在するものがないからである。

物を見る、ひかれる。しかしそれを手に入れる手順しか見ない場合は、ひかれない。だから私はいたずらぬすびとだったのだ。そしていまでも、つまらない物にひかれると、たのんで人からもらうよりも失敬したほうがめんどうくさくないと思うと、それをやることがある。

だが、小さいときも、大きくなってからも、決して人から一銭のお金をぬすんだおぼえもない。ただ一度だけはべつで、いまから十五年ほどまえに、七リーヴルと十スーぬすんだこと、があった。この事件は物語る価値がある。それこそあつかましさとおろかしさとの見事な一致で、それが私以外の人のやったことなら、とても信じられないほどのことなのだ。
(ルソー著「告白録」河出書房 p36-38)

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 金、すなわち価値の尺度として、また流通手段として役だつ独特な商品は、社会のそれ以上の助けがなくても貨幣となる。銀が価値の尺度でもなく支配的な流通手段でもないイギリスで、銀が貨幣にならないのは、オランダで金が価値尺度としての地位を奪われるとたちまち貨幣でなくなったのと、まったく同様である。だからある商品は、まず価値尺度と流通手段との統一として貨幣となる。言いかえるならば、価値尺度と流通手段との統一が貨幣である。

だが、そのような統一としては、金はさらに、これらの二つの機能におけるその定在とは異なった独立の実在をもつ。価値の尺度としては、金はただ観念的な貨幣であり、観念的な金であるにすぎない。たんなる流通手段としては、金は象徴的な貨幣であり、象徴的な金である。しかしその単純な金属の現身では金は貨幣である。言いかえれば、貨幣は現実の金である。

 さてしばらくのあいだ、われわれは、貨幣である休止している商品の金を、他の諸商品との関係で考察しよう。すべての商品は、その価格では一定額の金を代表しており、したがってただ表象された金ないし表象された貨幣にすぎず、金の代理者にすぎない。それは逆に価値章標では、貨幣が商品価格のたんなる代理者として現われたのと同様である。このようにすべての商品はただ表象された貨幣にすぎないから、貨幣が唯一の現実的な商品である。

交換価値、一般的社会的労働、抽象的富の独立の定在をただ代表しているにすぎない諸商品とは反対に、金は抽象的富の物質的定在である。使用価値の面から言えば、どの商品も特殊な欲望にたいするその関係をつうじてただ素材的富の一契機を表現するにすぎず、富のただ個別化された一面だけを表現するにすぎない。しかし貨幣は、どんな欲望の対象にも直接に転化されうるかぎりで、どんな欲望をもみたす。貨幣自身の使用価値は、その等価物をなす諸使用価値の無限の系列のうちに実現されている。貨幣はそのまじりけのない金属性のなかに、商品世界でくりひろげられているいっさいの素材的富を未展開のままふくんでいる。

だから諸商品がそれらの価格で一般的等価物、つまり抽象的富、金を代表しているとすれば、金はその使用価値ですべての商品の使用価値を代表しているのである。金は、したがって素材的富の物質的代理者である。それは「すべてのものの要約」 (ボアギユベール)であり、社会的富の概括である。それは、形態から言えば一般的労働の直接的化身であると同時に、内容から言えばすべての現実的労働の総体である。それは個体としての一般的富である。

流通の媒介者としてのその姿では、金はありとあらゆる冷遇をこうむり、けずりとられて、あげくのはてにはただの象徴的な紙切れにまで薄くされた。だが貨幣としては、金にはその金色の栄光が返上される。それは奴僕から主人になる。それはただの手伝いから諸商品の神となる。
(マルクス著「経済学批判」国民文庫 p160-161)

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◎「所有する金は、自由を得るための手段となる。追い求める金は、身を奴隷におとしいれる。」と。

金≠ェ何故力をもっているの経済学的にとらえよう。学習通信040903と重ねて。