学習通信040930
◎「おお、なんと賢明な主観主義……であろう!」……。

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マルクスはマルクス主義者に非ず

 実際にマルクスの書いた本を読んでみると、どういうことがわかるでしょうか。たとえば、次のようなことがわかると、私は思います。

 第一に、マルクスという人は、多くのマルクス主義者とどれほど遠くへだたっていたか、第二に、マルクスをふくめてすべての偉大な思想家は、どれほどおたがいに似かよっていたか、第三に、マルクス主義は唯物論であるというけれども、その唯物論がマルクスの本のなかでは、どれほど深く、「人間の人間としての価値」の感覚と結びついていたか、第四に、いわゆるマルクス主義についての通俗的解説のどれほど多くが、どれほど表面的で、ほんとうのマルクスからへだたっているか──少なくとも、そういったようなことがおのずから、はっきりとわかってくるでしょう。

 宗旨を変えてマルクス主義者になることは、おそらく多くの読者にとってむずかしいだろうと私は思います。なぜなら、マルクスの生きていたときから、いまではおよそ百年ばかり立ち、孔子の生きていたときと比べれば、はるかに近い距離に違いないけれども、人間の一生、また近頃の世界のはやい変わり方から見れば、百年でもかなり遠い距離であるだろうからです。マルクスの住んでいた世界とはすっかり変わってしまったいまの世界に、彼の言ったことをそのまますっかりあてはめて考えることは、むずかしいだろうと思われます。

それは、どれほど論語に感心していても、いまの私たちにとって、孔子廟にお詣りすることまでは不可能なのと同じです。ということは、もちろん論語が私たちを啓発しないということではありません。同じように、『資本論』やレーニンの『帝国主義論』が、私たちを啓発しないということではありません。
(加藤周一著「読書術」岩波文庫 p56-57)

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 しかし、なによりも奇妙なことは、ミハイローフスキイ氏が、マルクスは「歴史的過程に関するあらゆる世に知られた理論を再検討(原文のまま!)」しなかったと言って、マルクスを非難していることである。これはもうまったく滑稽なことである。

いったい、これらの理論は、十分の九までなにから成り立っていたか? それは、社会とはなにか、進歩とはなにか、等々ということについての、純粋に先験的な、独断にもとづいた、抽象的な構成から成り立っていた。(私はわざわざ、ミハイローフスキイ氏の頭脳と心情に縁の近い例をとっている。)これらの理論は、それらが存在しているということからしてすでに無用ではないか。それらの基本的な方法の点で、また、そのまったく前途に希望のない形而上学的性質の点で無用ではないか。

社会とはなにかとか、進歩とはなにかというような諸問題から始めることは、終わりから始めることを意味するのではないか。とくにただ一つの社会構成体をもまだ研究しきっておらず、社会構成体という概念を確定することさえせず、まじめな事実的研究に、どのような社会諸関係であれ、それの客観的分析に近づくことさえできないで、社会および進歩一般の概念をどこから取ってこようというのか? これこそ、あらゆる科学の出発点となっていた形而上学の、一目瞭然たる特徴である。事実の研究にとりかかることができなかったあいだは、つねにa priori 〔先験的に〕一般的諸理論が編み出されていたのであり、そういう一般的諸理論はつねに成果のないままであった。

形而上学的化学者は、化学的過程を事実にもとづいて研究することができないのに、化学的親和力とはなにかについて理論を編み出していた。形而上学的生物学者は、生命や生命力とはなにかを説いていた。形而上学的心理学者は、心とはなにかについて論じていた。この場合、方法自体がすでにばかげていた。特別に精神的諸過程を説明しきらずに、心について論ずることはできない。この場合、進歩は、心とはなにかという一般的諸理論や哲学的諸体系を打ち捨て、なんらかの心理的諸過程を特徴づけているさまざまな事実の研究を科学的基盤の上に置くことができるまさにそのことのなかにあるはずである。

したがって、ミハイローフスキイ氏の非難は、一生、心とはなにかという問題について「もろもろの研究」を書いてきた(ただ一つの心理現象、そのもっとも単純な現象さえも正確な説明を知らないのに)形而上学的な心理学者が、科学的心理学者を、心に関するあらゆる世に知られた諸理論を再検討しなかったと言って非難しにかかるのと、まったく同じようなものである。この科学的心理学者は、心についての哲学的諸理論を投げ捨て、直接、心理的諸現象の物質的実体──神経的諸過程──の研究にとりかかって、たとえば、あれこれの心理的諸過程の分析と説明を与えた。ところが、わが形而上学的心理学者はこの労作を読んで賞賛する──諸過程はよく描かれており、事実もよく研究されている、と──が、満足はしない。

この学者によってまったく新しい心理学の解釈がなされたことや、科学的心理学の特別の方法やについて、周囲で人々が論ずるのを聞くと、失礼だが、と彼はいらだって言う。失礼だが、とこの哲学者は怒って叫ぶ──いったいどの著作で、その方法が叙述されているのか? この労作のなかにあるのは「ただ事実だけ」ではないか? そのなかには「心に関するあらゆる世に知られた哲学的諸理論」の再検討の影さえないではないか? これはまったく要求に相応しない労作だ!

 これとちょうど同じように、『資本論』は、形而上学的社会学者にとっても、もちろん要求に相応しない労作である。この社会学者は、社会とはなにか、というような先験的な議論が無益であることに気づかず、そのような方法が、社会の概念のもとに、研究と説明を与えるものではなく、イギリスの小商人のブルジョア的思想か、ロシアの民主主義者の小市民的な社会主義的理想をあてはめるにすぎないこと──そして、それ以上のなにものでもないことを、理解していないのである。

それだからこそ、これらの歴史哲学的理論はすべて、シャボン玉のように、発生しては破裂してしまったのであって、せいぜいのところ、その当時の社会的諸思想や社会諸関係の徴候にすぎず、個別的なものにしてもなにか現実的な(「人間的な本性には」相応するものではなくとも)社会諸関係にたいする人間の理解を、髪の毛一筋ほども前進させることはなかったのである。この点でマルクスがなしとげた巨大な一歩前進は、彼が、社会とか進歩一般に関するこれらの議論をすべて捨て去り、そのかわりに一つの社会、一つの進歩の──資本主義社会と資本主義的進歩の──科学的な分析を与えたところにあった。

そして、ミハイローフスキイ氏は、マルクスが終わりからでなく初めから始め、最後の結論からではなく事実の分析から始め、また、これらの社会諸関係一般がなにからなりたっているかについての一般的理論からでなく、歴史的に特定の、個別の社会諸関係の研究から始めたというので、マルクスを非難しているのである! そして、彼はたずねる──「これに相応する労作はいったいどこにあるのか?」、と。おお、なんと賢明な主観主義社会学者であろう!
(レーニン著「「人民の友」とはなにか」新日本出版社 p27-30)

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 しかし、もし学生諸君が第一の道、入学試験準備の勉強とは別の勉強をやってみようという決心をするとすれば、当面の目的を達成するためにも、読むべき本は、過去・現在に数かぎりなくあるということになります。速読の必要はそこにあるのです。

マルクスを一度も読んでいなくて、社会学の話はできません。デカルト(フランスの哲学者、一五九六−一六五〇)を一度も読んでいなくては、哲学の話はできません。いくらか筋道を立てて文学の話をするには、どうしても「万葉」「源氏」「平家」「西鶴」「近松」「鴎外」「漱石」が必要でしょう。いや、そればかりではなくて、世界文学全集の少なくとも一部分が必要だということになるかもしれません。

また歴史について、音楽や美術について、およそ、そういう事柄については、ものを考えるうえに、必要な本というものがあり、そういうことについて他人の言っていることを理解するためにも、読んでおかなければならない本というものがあります。
(加藤周一著「読書術」岩波文庫 p89-90)

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◎「資本論」を読みこなしていくことの意味をとらえよう。レーニンの文章ゆっくりと節をわけて読むと、解けてきます。

◎学習通信040920 040925 と重ねて下さい。