学習通信041001
◎「人間の利益にさえなれば、他がどうなろうと知ったことではない」……。

■━━━━━

科学技術と人類の叡知を

 地球を守ろうとする本義は人間のためです。人間を守ることが地球を守ることになると、正面切って言えるようになるべきです。「人間は地球のご主人ではない、地球に生かしてもらっているのだ」といった論は言葉としては成り立ちますが、真実ではありません。いま地球上に存在している生命体のなかで、地球を守ろうとするもの、地球を守れるものは、人間を除いてはないと断言していいでしょう。だからこそ、人間だけが生きていけばいいといった利己的なことを考えてはならないということになるのです。

 「人間は、自分のためではなく、地球のために働くのだ」ということになれば、やがては「地球なんかどうなってもいいや」という意識が生まれることにつながっていってしまいます。親方日の丸主義の国家公務員が働かず、責任も持たないということが長い間言われてきたのは、この意識の表れだったと言ってよいでしょう。

 そのよい例が、国鉄から民間のJRになってみたら、会社は黒字になり、サービスもよくなったことでしょう。責任があるということは、かえって人間に重大なおもしとなります。人はやる気を出せばやってやれないことはないということの証だと思います。

 最近「科学技術は人類を幸せにしたか」といったテーマのシンポジウムに出ました。そのとき進歩的かつ文化人的なパネリストが、「科学技術の進歩は人類を不幸にした。原子爆弾をはじめ、よいことはない。電気だって、自動車だってみな人類を苦しめ、地球環境を悪化させているではないか」というような趣旨を論じられました。

 確かに、言葉を聞いているとなるほどという感じですが、それでは科学技術は、原子爆弾と電気と自動車しか生み出さなかったのか、ということになると、この大上段に振り上げた論が急に小さくなってしまいます。

 一方で、「科学技術を甘くみるなよ。今世紀発明された科学技術だけだって何十万をはるかに超えるものがある。そのうち人類に実害をもたらし、どうにも改善の余地のないのが、原子爆弾ではないか。それに原子力だって、その原理を使って地球温暖化を一時的にしのぐエネルギー作りの理論に一役買っているのだ」という意見もあります。

 不幸にも、原子爆弾はいままで二回使われました。その二回ともが日本で使われたというのはとても残念なことですが、その恐ろしさに、それ以降は戦争の抑止力としてしか使われていないということも事実として忘れてはならないのです。

 私は原子爆弾を使うとか使わないということより、戦争そのものをやめるべきだという考えなので、このことをさらに追及するのは差し控えますが、ともかく科学技術はごく一部を除いて人類の幸せのためにつくられ、使われていると言ってよいのです。

 ただし、それが行きすぎて、結果的に地球環境を悪化させてしまっているものもあることは事実です。しかし、そうであれば、それを改善するために新たな科学技術を開発して是正すればよいわけです。火力発電で石油を生焚きし、大気を汚染して大気中にCO2をまきちらし、地球温暖化を増進させているというなら、火力発電を抑えていけばよいのです。そして、現実的にもその方向に向かっています。

 しかし一方、石油で儲けている会社もあり、火力発電が皆無になれば死活問題になります。何とか存続しようとあがくわけです。いっとき、石油はあと二〇年で枯渇するだとか、新しい油田はもう見つからないなどというデマを流したり、代替エネルギーにケチをつけたりしたのもそのあがきと考えてよいでしょう。

 これこそが人類の敵、地球の災いであることを私たちは知るべきです。第二石油はいまでこそエネルギー資源と考えられていますが、化学を少しでも学んだ人なら知っているように、材料資源としても私たち人間にかけがえのないものなのです。そんなに大切なものを、しかも新しくつくるとなれば億年単位の時間がかかるものを、ぼんぼん燃やしてよいものでしょうか。しかも、生焚きしている理由が、極端にいうと水を沸かしているだけのものですからいっそう腹立たしくなってきます。

 地球の歴史の中で「海進」と呼ばれた時期、すなわち海の水位が高くなり、海岸線が陸地の奥にまで入り込む時期はこれまで何度もありました。その例として、エジプトのアスワンという内陸の町の周辺からは貝の化石が出土します。アスワンは地中海からアフリカ大陸の南ヘ一二〇〇キロも行ったところにあるのですが、標高差が一〇〇メートルほどしかないため、海進の時期には海岸だったのです。

 日本だって海進になればかなりの平野が水浸しになるはずです。飛行機に乗って下を見ると、いかにも日本列島は山ばかりで平野が少なく、その平野が海に接しているのがわかります。もし地球温暖化がこれ以上進んで、両極の氷や氷山が溶けたら、二〇メートルや三〇メートルの水位の上昇はすぐに起きてしまうでしょう。町々は消滅してしまうと考えると恐ろしいものがあります。他の国のこともさることながら、日本列島のことを考えたら、一日も早く石油の生焚きをなくさなければならないと思います。

 自動車に関しては私は悲観していません。なぜなら、次世代の自動車エンジンが急速に開発されているからで、近い将来いまのガソリンエンジンやディーゼルエンジンはなくなるだろうと思われるからです。自動車メーカーは電力会社のように一地域一社というようなことはないので、競争原理が働きその改良に腐心するでしょう。しかも電力会社に比べ自動車の吐き出す排気ガスの有毒性は圧倒的に高いため、社会からの風当たりも強く、改良せざるを得ないからです。

 そのほか、二一世紀には、社会は科学技術によっていろいろの面でさらに変化していくと思いますが、二〇世紀のように人間にとって生活が快適になるとか、便利になるということだけを目的とした技術革新から、人間と自然の共存を目的とした技術の変革が中心になるでしょうから、科学技術は社会をよくしていくことによりいっそう役立っていくはずです。
(吉村作治著「ひとのちから」麗澤大学出版会 p201-206)

■━━━━━

現代における技術の問題とヒューマニズム

 もっとも、だからといって「技術の力は万能、万能の技術の力、万歳」と単純にいってすますことのできない深刻な問題が今日あらわになってきている、という事実があります。たとえば、人間が技術の力によって「思いのままに大地をつくりかえ」た結果、自然の生態系が破壊され、それによって逆に人間の生存そのものがおびやかされる、というように。

 そういうところから、科学・技術による進歩ということに、さらには科学・技術そのものに根本的な不信を表明する──それが人間の幸福につながることを否定する──考えが登場し、一部の人びとの心をとらえる、といったことも今日おきています。そして、そのなかからは、近代科学がそれと結びついていたヒューマニズムの思想そのものにも疑問を表明し、これを否定して、何らかのかたちでの「信仰の立場」を復活させることが必要だ、と説く傾向もあらわれています。

 たとえば、それはつぎのように主張されます。──人間の力、理性のカヘの過信、人間中心主義、そこにまちがいのもとがあった。人間は自然の一部にすぎないのに、その人間が全自然の中心であり、全自然の主人公になりうるかのように妄想したところにまちがいがあった。それは神を恐れない人間の傲慢(ごうまん)であり、その傲慢のむくいをいま人間はうけつつあるのだ。人間よ、ヘりくだることを学べ。自然の大いなる力の前に自らを低くして、自然との調和を回復せよ。「科学信仰」にかえてあらたな宗教的感情にめざめること。それだけが人間を破滅から救うだろう……。

 こうした主張にたいして私たちは、どのように考えたらいいでしょうか?

 ヒューマニズムが「人間中心主義」だというのは、そのとおりです。ルネサンス期のヒューマニズムが、中世の「神中心主義」に対立するものとして、その意味で「人間中心主義」をモットーとしてスタートしたものであったことは、これまでにくりかえし述べてきたところです。

 しかし「人間中心主義」ということは、「人間の利益にさえなれば、他がどうなろうと知ったことではない」ということと必ずしも同じではありません。それはちょうど、本来の「個人主義」すなわち「個人の価値・尊厳を主張し、これを大切にする態度」が、「自分さえよければ他人がどうなろうとかまわない」という「利己主義」と必ずしも同じではないようなものです。

 「必ずしも」といったのは、この場合、近代の個人主義がしばしば利己主義をともないがちな特徴をもっていた、という事実があるからで、それは近代社会が資本主義と結びついていたことによるものですが、同様の傾向が近代の「人間中心主義」の場合にもしばしばともなっていたことは確かです。だからそこでも「必ずしも」ということばを使っておいたのですが。

 しかし、それではかえって人間のためにならない──人類の生存の条件それ自体の崩壊にさえつながる、ということがはっきりしてきたわけです。これは「人間中心主義」がまちがっていたということではありません。人間が、人間を中心にすえて物事を考えるのはあたりまえです。問題はそこにあるのではありません。中心にすえる「人間」のとらえ方、問題はそこから出てきます。

その「人間」のとらえ方がせまく一面的であれば、人間の利益のためにやったことが、結果として人間の利益にならない、ということがいくらもおきるでしょう。人間を他の自然から切りはなし、これとの対立関係においてだけとらえる、というのは人間についてのこのような、せまい、一面的な見方です。

 このような一面的な見方は資本主義のしくみと結びついて生まれてくるもので、それについては後にいろいろな角度から問題にする機会があるでしょうが、さしあたりここで確認しておきたいこと、確認できることは、いま切実な問題として浮かびあがってきているのは、人間についてのとらえ方を、より深く、よりゆたかに、より全面的なものとしなければならない、ということであって──「人間中心主義」の脱却などではない、ということです。いいかえれば、「人間中心主義」のより深い、よりゆたかな発展、それが現代の課題だ、ということです。それが、現代ヒューマニズムの課題そのものでもあるのです。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友 p56-60)

■━━━━━

 しかしわれわれは、われわれ人間が自然にたいしてかちえた勝利にあまり得意になりすぎることはやめよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐する。なるほど、どの勝利もはじめはわれわれの予期したとおりの結果をもたらしはする。

しかし二次的、三次的には、それはまったく違った、予想もしなかった作用を生じ、それらは往々にして最初の結果そのものをも帳消しにしてしまうことさえある。メソポタミア、ギリシア、小アジアその他の国々で耕地を得るために森林を根こそぎ引き抜いてしまった人々は、そうすることで水分の集中し貯えられる場所をも森林といっしょにそこから奪いさることによって、それらの国々の今日の荒廃の土台を自分たちが築いていたのだとは夢想もしなかった。

アルプス地方のイタリア人たちは、北側の山腹ではあれほどたいせつに保護されていたモミの森林を南側の山腹で伐りつくしてしまったとき、それによって自分たちの地域でのアルペン牧牛業を根だやしにしてしまったことには気づかなかった。またそれによって一年の大半をつうじて自分たちの山の泉が涸れ、雨期にはそれだけ猛威をました洪水が平地に氾濫するようになろうとは、なおさら気がつかなかった。

ヨーロッパにジャガイモをひろめた人々は、この澱粉質の塊茎と同時に臆病をも自分たちがひろめているのだとは知らなかった。こうしてわれわれは、一歩すすむたびごとに次のことを思いしらされるのである。

すなわち、われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあるものが自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、──そうではなくてわれわれは肉と血と脳髄ごとことごとく自然のものであり、自然のただなかにあるのだということ、そして自然にたいするわれわれの支配はすべて、他のあらゆる被造物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだ、ということである。
(エンゲルス著「猿が人間になるにあたっての労働の役割」大月書店 マルクス・エンゲルス8巻選集 第5巻 p305-306)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「われわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだ」と。

◎京都議定書をめぐって……。