学習通信041002
◎「科学の技術化までの時間が非常に短く」……。

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科学・技術・社会の関係

 二〇世紀は「科学の世紀」と呼ばれるくらい、科学研究が大きく進歩した時代ですが、同時に、科学で発見された法則や原理の技術化を通じて機械や道具が作られ、私たちの生活に入り込み、社会を大きく変えてきた時代でもありました。典型的なものは、今世紀前半の電気・自動車、後半の原子力利用・石油化学工業・エレクトロニクスでしょう(飛行機やレーザーなどもありますが、社会に大きな影響を与えたのは、先のようなものだと思います)。そして今後は、遺伝子操作を通じた生物(人間も含む?)の改変ではないでしょうか。

 このように、科学が、技術を通じて社会と強く結びつくようになったのが、二〇世紀の大きな特徴であり、今後さらに強まってゆくと思われます。そのような時代に生きる私たちは、科学・技術・社会の間の関係をしっかりと把握しておく必要があるでしょう。

後戻りできない科学の技術化

 まず、科学の技術化までの時間が非常に短くなり、社会にどのような効果を及ぼすかを考えるひまがないまま、どんどん科学の成果が生活に入り込んできているという問題があります。その典型は原子力で、原子核の中の力や構造が明らかにされてから一〇年も経たないうちに、原子爆弾が開発されました。

マンハッタン計画という、政府や軍が組織したはじめてのビッグ・プロジェクトによって進められたためでしたが、一般の人々が原理や威力を知らない間に、核の時代がもたらされたのです。さらに、水爆の開発・原子力発電と、原子力エネルギーの利用は加速され、私たちがそれを選んだわけでもないのに、核と向き合ってくらさざるを得ないわけです。遺伝子操作についても、同じ道をたどりそうな気配です。

 いったん技術化されると、その目的はもはや問われることなく、よりいっそうの精密化・効率化が進められ、後戻りできなくなってゆくのです。この問題で、特に原子力や遺伝子操作を取り上げるのは、それらが長い時間後世に影響を与え続けるからです。原子力発電の核廃棄物は、一万年にもわたって監視し続けねばなりません。

遺伝子操作で新しいタイプの生物が作られた場合、未来の生物世界を変えてしまうかもしれません。私たちは豊かな消費生活を送れても、子孫たちはその「つけ」を払わされることになるでしょう。科学の技術化にあたっては、このような長い時間にわたっての予測をして、それを採用するかどうかを決めねばならないはずです。ところが、それを考える間もなく、どんどん技術化が進められているのです。私たちは、いちど立ち止まって、現在の科学と技術の関係を考え直さねばならないのではないでしょうか。

技術の方法は多様

 もう一つの問題は、科学の原理や法則は一つであっても、技術化の方法は複数あるということです。原子力発電でも、ジェット機でも、パソコンでも、ワープロでも、それぞれの機種に応じて複数の方式がとられています。最後には、どれか一つだけが残るのか、平行で競争するのかはわかりませんが、さて、その選択はどのような理由で行われるのでしょうか。

ある技術が最後まで生き残った理由は、エネルギーや資源の節約型だから、最も使いやすいから、安全性にすぐれているから、市場の競争で勝ったから、製造会社が強かったから、政府が援助したからなど、いろいろあるでしょう。つまり、技術は、その科学的な合理性だけでなく、社会との関係の中で選ばれますから、社会の変化に応じて技術の内容も変化するはずです。しかし、それが長い目で見て正しいのかどうか考える必要があるでしょう。

 例えば、かつては「丈夫で長持ち」型の製品が作られました。時計でもラジオでも、何十年も使ったものです。資源節約という目標が優先されたのです。現在は、「使い捨て」型の製品が主流になっています。数年で壊れると修理せずに買い替えるという、より大量に消費することが優先されているからです。私たちは、経済の論理で技術化の方式が決まっている場合があることをしっかり押さえておく必要があると思います。環境破壊に、私たちにも責任があるからです。

 その典型は、現在の日本がクルマ優先社会となっていることです。狭い上地に高速道路をはりめぐらせ、六千万台ものクルマがあふれ、ゆっくり道を歩くこともできません。子どもや老人・体の不自由な人にとっては、実に危険な都市の構造になってしまいました。国の政策として、電車やバスなどの公共の交通機関より、トラック輸送とマイカーが優先されたためなのです。

そして自動車会社は、意味のないモデルチェンジで、どんどんクルマを買い替えさせて資源の無駄使いをしています。このような状態を、私たちは当たり前として、異常さに気づかなくなっています。技術がいかに使われるべきかを、望ましい社会のあり方と関連づけて考えねばならないと思います。
(池内了著「科学の考え方・学び方」岩波ジュニア新書 p158-161)

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科学と思想

 それはまた、現代における科学・技術のあり方をめぐる問題でもあるわけですが、そのことについての理解を深めるために、科学と思想との関連について、多少立ち入って考えてみましょう。

 科学は、実証を武器とする理性のいとなみ。というふうに定義することができます。論理のすじがとおっているということと、実証の裏づけを求めるということ──これが科学の基本的な条件です。

 「実証の裏づけを求める」ということはつねに実証されおわっている、ということと同じではありません。まだ実証されていない事柄について仮説を立ててすすんでいく、ということも科学のうちです。というよりは、それこそが生きた科学のいとなみそのものです。そのようにして足をふみだしながら、その仮説に実証の裏づけを求めて努力する──「すすんでいく」とはそういうことです。

 そのようにしてすすんでいくなかでは、従来の論理の枠ぐみを越えた、いっそう高次の論理が必要になってくることもあります。「論理のすじがとおっている」ということはそういうことをもふくんでいます。

 このように見てくると、生きた科学のいとなみにおいて、思想というものがはたす役割がおのずから浮かびあがってくるでしょう。ここで「思想」というのは、直観やひらめき、空想のたぐいから、人を仕事にむかってはげます理想や情熱、その仕事の意義づけ、等々にいたるまで、要するにせまい意味での論理や実証とは相対的に区別される人間の心のはたらきすべてをさしています。仮説を立てるにあたっても、新しい論理を生みだすにあたっても、大きな役割を果たすのは、こうした意味での思想です。

 科学が「実証を武器とする理性のいとなみ」であるということから、科学を思想と無縁なもののように考えるのは、科学が到達した結果だけを──実証されおわったその結論だけを──科学とみなすもので、生きた姿における科学の理解とはいえないでしょう。

 先に「科学的精神」と呼んだものは、まさにこうした「思想」とかかわっています。ヒューマニズムもまた、科学とのかかわりにおいて、このような「思想」の重要な要素としての意義をになうものです。すなわち、何のための科学・技術か、何にむかっての科学・技術か、という自覚、問題意識、反省をあらわすものとしての。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友 p61-62)

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◎「何のための科学・技術か、何にむかっての科学・技術か、という自覚、問題意識、反省をあらわす」と。

学習通信041001 のつづき。