学習通信041004
◎「……それがどの時代でも青年たちの特質でした。」

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青年は時代の中で生きる

 手塚さんと同じ世代の人々はだれもが戦争の体験をひきずって生きていました。戦中派とよばれた彼らは、みな『戦没学生の手記──聞けわだつみの声』に戦死していった友人たちへの哀惜の涙を流し、かれらを殺した戦争への怒りを新たにしました。

ナチスにもおとらない侵略戦争と非人道的な残虐行為を生み出した軍国主義日本と訣別しようと、クロード・モルガンの『人間のしるし』やルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』等のフランスのレジスタンス文学を読みふけったものでした。天皇制国家の侵略戦争に最後まで死を賭して反対した共産党員の英雄的戦いに感動した若者は、発禁を解かれたばかりのマルクスやレーニンの著作や『日本資本主義発達史講座』をむさぼるように読みました。

時代を共有する青年たちのそうした共通体験というのはこの戦後にかぎったことではないでしょう。明治時代の末期に『時代閉塞の現状』を書いた石川啄木にしても、たしかに時代を先取りしていた先駆ではありましたが、けっしてひとりぼっちで孤立していたわけではありません。かれの『一握の砂』や『悲しき玩具』などの短歌や詩は、『みだれ髪』以来の歌集で生きた青春のロマンを官能的にうたいあげることにより、女性と人間の解放のノロシをあげた与謝野晶子ら明治のローマン主義の一翼につらなるものでした。

同時に啄木は、一九一〇(明治四三)年の幸徳秋水らの大逆事件で社会主義へと近づいていった当時の数多くの青年たちの一人にほかならなかったのです。

啄木は書いています。「我々青年を囲暁する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行亘っている。……かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、遂にその『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。我々は一斉に起ってまずその時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。……盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察──我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである」(「時代閉塞の現状」一九一〇年)。

こうして、当時の若者の多くが軍人の支配と軍国主義天皇制のニッポンを憎むようになっていったからこそ、明治大帝の死とともにあっという間に護憲運動の大衆行動がもえあがったのでした。

未来を信じた明治初年の青年たち

 もっとさかのぼると、明治前期の青年たちも時代を共有していました。折角の御一新が藩閥官僚の支配についえさろうとした明治初年に、若い人々があるいは自由にあこがれ、あるものは薩摩軍に身を投じ、あるものは弁護士へとそれぞれことなった道を歩みました。その後に歩む道こそ違え、その原点は青年たちが鋭敏に感じとった共通の時代認識でした。

文学的完成度はともかくとして、私たちに明治の青年の息吹を感じさせる徳富蘆花の『思い出の記』の主人公、慎太郎もその一人でしょう。戦後の一時期によく大学演劇の演し物になった木下順二の戯曲『風浪』に描かれた九州出身の青年たちもその姿を写したものです。こうした過去の青年の共有した時代のことを考えてみますと、時代が良いから青年が成長するのではないようです。

また、時代が悪いから青年がいじけたのでもないようです。むしろ、時代がどんなに悪かろうと、いな、悪ければ、悪いだけに、青年はその悪と戦い、強くたくましくなっていったのです。たしかに何人もの青年が未来への戦いの最中に殺されたり挫折したりしました。しかし、その沢山の犠牲のなかで、未来が切り開かれてきたのです。

 大人たちと違って、青年は純粋であり、悪を憎み、美しいものに感動します。醜いものを嫌います。一にも二にも金、金、金の日本になると、尾崎紅葉の描いた青年間(はざま)貫一は金色夜叉になりましたが、それは金力の前に愛を奪われたことへの復讐でありました。主人公貫一は克服の道をあやまったとしても、その作者が訴えたかったのは、金権がいかに非人間的であるか、金はいかに人間を駄目にするかということでした。

夏目漱石の『我輩は猫である』のなかでも、主人公苦沙弥先生の一番嫌いなのは、金力であり、軍人でした。人間の心を大切にし、外見よりも内面を、形式よりも内容を、そして精神の自由をもとめる。それがどの時代でも青年たちの特質でした。

 こうして青年たちはいつの時代でも時代を批判して未来に生き、歴史を切り開いてきたのです。
(井ヶ田良治著「総論─青年が歴史をつくる」 講座「青年」第一巻 青年の発見 清風堂書店 p12-15)

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 かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積《うつせき》してきたその自身の力を独りで持余《もてあま》しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌《ないこう》的、自滅的傾向は、この理想喪失《そうしつ》の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞《じだいへいそく》」の結果なのである。

 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。

もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口《ほうしよくぐち》の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。

前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享《う》ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次《ぜんじ》その数を増しつつある。今やどんな僻村《へきそん》へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 我々青年を囲繞(い‐じょう=(「じょう」は「繞」の漢音)まわりをとりかこむこと。いにょう。)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普《あまねく》く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々《すみずみ》まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥《けつかん》の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉《ききん》とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。

財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦《ばいいんふ》との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦《わがくに》において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁《こうきん》する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪《た》えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買《じよろうがい》、淫売買、ないし野合《やごう》、姦通《かんつう》の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。

 そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧《かいこ》がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇《そうぐう》した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾《いかん》なくその美しさを発揮しているかを。

 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞《へいそく》の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷《や》めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注《けいちゆう》しなければならぬのである。
(石川啄木著「時代閉塞の現状」現代文学全集 講談社 P106-107)

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どこが悪いか考えなくては

 「今の若者たちは、おとなが作ったさまざまな仕組みのなかで、のたうちまわるようにして生きている。それでいて無責任とか、遊んでばかりいるとか、文句だけは言われる。キレそうな思いを抱えながらがまんして生きていると思いますよ。この国は彼らの着地点を用意しないんですから。自分の個性に合わせた仕事を選べるシステムというものをつくらなきゃいけないのに。

 年配者だって、粗大ゴミみたいに扱われてしまう。この国は、国をあげてどこが悪いのか一生懸命考えなきやいけないんじゃないか。そんなことを時々思いますね」
(「藤沢作品に挑んだ本格時代劇第二作 映画監督 山田洋二さん」しんぶん赤旗 2004.10.04 )

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◎「時代を共有する青年たちのそうした共通体験」……いまに生きる青年もおんなじです。