学習通信041005
◎人間が育つということJ……「他者への関心や愛着や信頼感」。
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子供たちを悪に一歩ふみださせるのは、ほとんどつねに、善良な感情を誤った方向にみちびくからである。たえまのない不自由と誘惑とに苦しめられながら、私は一年以上も、親方の家で、何一つ、たべものさえも、失敬する気持になれないで、こらえてきたのだった。そうした私の最初のぬすみは、親切心からの出来事であった。しかしそれがきっかけで、全く感心できない他の目的をもったぬすみの糸口をひきだすようになった。
親方の家にヴェラと呼ばれる職人がいた。彼の家は親方の家の近所にあり、自分の家の少しはなれたところに菜園があって、とても見事なアスパラガスができていた。お金のとぼしかったヴェラに、このアスパラガスの初物を彼の母親からぬすんで、それを売って何かおいしいものでも食おうという欲望が起こった。
自分でやりたくはなし、それに、さしてすばしこい人間ではなかったので、彼はこの仕事を私にやらせることにした。あらかじめ私を甘言で籠絡し、そんな魂胆があろうとは知らない私をまんまと釣りこんでから、その場でうかんだ思いつきのように、そのことを私にもちだした。私はあくまで争ったが、どうしてもきかない。あまい言葉には勝てないたちで、私は承諾した。
私は毎朝いちばんよくできたアスパラガスをとりに行った。それをモラールの市場へもって行くと、どこかのばあさんが、ぬすんできたものとにらみ、安く手にいれようとして、どうもそれくさいという。おじけづいた私は、ばあさんの言い値でわたし、そのお金をにぎって、ヴェラにとどけた。それはすみやかにごちそうに変わったが、その賄い方は私で、わけまえにあずかったのはべつの職人であった。とにかく私は、少しののこり物をもらって大よろこびで、彼らの酒に手をつけることさえしなかったのである。
こうしたちんぴらの手管は数日つづいたが、泥棒のうわまえをはねようとか、ヴェラからアスパラガスのあがりの幾分をかすめようとかいう気持は起こりもしなかった。私はこのうえもない正直さで、自分に命じられたこそ泥をやっていた。理由はただ、それをやって相手をよろこばせるということであった。
けれども、私がつかまったら、どんなになぐられ、どんなにののしられ、どんなにひどい目にあわされたことか。それにひきかえて、あの卑劣漢は、彼が職人であり、私が徒弟にすぎないという理由で、私に罪をなすりつけても、その言葉には信用が置かれるのに、私の場合は、よくも図々しく人に罪をきせたといって二重に罰せられたことであろう。こういうわけで、いつの場合にも、罪のある強者が、罪のない弱者をふみつけて、自分はまぬがれるのである。
(ルソー著「告白録」河出書房 p32-33)
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十代の少年たちが犯罪を犯しているだけでなく、二十代、三十代のすでに子の親になっている大人たちが、わが子に暴力を振るい攻撃を加えているこうした現状をどうみるか。われわれが丹念に考察しなければならないのは、そこに共通してみられる「何か」なのである。そのとき、景気の悪化が続き、社会の先行きが不透明な状態が続いているこの時期に、こうした他者への攻撃が増加していることを見逃してはならない。
日々をやり過ごす若者たち
こう整理してくれば、われわれが問題にすべき対象が、何も一三歳や一四歳の中学生や一七歳の高校生だけに限定すべきではないことが了解されるはずである。ここであと一つ注意を喚起しておきたいことがある。それは、青少年の人間形成上の問題点を考察しようとするとき、新聞やテレビで大々的に報道されるような大きな事件を起こす青少年だけに目を向けるべきではないということである。むしろ、彼らが日常的に行っている行動には、旧世代とは異なるさまざまな現象がみられるのである。そうしたいくつかの例をあげると次のようなものになる。
まず、学校に行けずに不登校を続ける多くの小学生や中学生がいる。また、高校に入学した後に、さまざまな理由で高校を退学する高校生も少なくない。そして、その多くが、自分の部屋にこもりっきりになっていると言われているが、なぜ、彼らがそうなるのか。そのことにもわれわれはきっちり目を向けなければならないはずである。
その一方で、いまなお続くいじめ現象があり、他の子をいじめる子どもたちがいる。そして、授業中に自分の席に座っていられず、教室を抜け出し教師をてこずらせる子どもたちがいる。こうして、学校では、学級崩壊という現象も増えつつある。
また、タレントやミュージシャンの追っかけに熱中する少女たちや、テレクラや援助交際でお金を稼ぎ、派手に遊び回る中学生や高校生も少なくない。あるいは、ヤマもなく、オチもなく、イミ(意味)もない、いわゆるやおい小説≠竍やおい漫画≠フ制作に多くの時間とエネルギーを費やしている若者と、そうした小説や漫画を大量に購入し読んでいる同世代も少なくない。
あるいは、特に何をするわけでもなく、コンビニやコンビニ周辺に集まり、そこにたむろし時間をやり過ごす青少年がいる。さらには、覚醒剤やマリファナなどの薬物を手に入れ常用する若者が増え、新興宗教に入信する若者が後を絶たず、テレビゲームやネットサーフィンに膨大な時間を費やしたり、自分だけの趣味に没頭するオタク人間が増えている、というのが現状なのである。
若者たちが、なぜ、いま、こうした無為な行為に膨大な時間とエネルギーを注ぎ込むのか。彼らをして、そうした行動に走らせる共通した何かがあるのか。それは彼ら個人の特性なのか、それとも社会の側の問題なのか。あるいは、相互の相乗り的な現象というべきなのか。われわれがなさねばならないのは、むしろ、若い世代全般にみられるこうした日常的な現象や行動について丹念に調査し、考察し、そのワケを明らかにし、そうした作業を踏まえつつ、具体的な是正策を提案することであるはずである。
キレる子ども、さ迷う若者の背景にあるもの
では、近年の少年たちの非行や犯罪、若い世代にみられる新奇でかつ特異な現象、それに若い親たちのわが子への虐待などに共通する何かとはどんなことなのか。私は、これを、三〇年ほど前から、「他者の喪失」として説明し、そして最近は「社会力の衰弱」として、また「非社会化の進行」として警告を発してきた。具体的には、拙著『子供と若者の〈異界〉』(東洋館出版社)、『子どもの社会力』(岩波新書)などで私見を展開している。
そのような言葉を造語し用いながら言わんとしてきたことを端的に言えば、高度経済成長期以降に生まれた若い世代には、幼少時から他者との交わりが極度に少なかったがゆえに、他者への関心や愛着や信頼感が乏しくなり、それゆえに他者のことが分からず、他者が分からないゆえに他の人の立場に立ってものごとを考えることができず、他の人の心情に共感することもできなくなっている、ということである。
近年の若者の行動特性として例外なく言われることは、@自己中心的であるとか、幼児的であるとか、A人間関係が下手であるとか、他人との付き合いを嫌がるとか、B我慢強くない、すぐキレる、自分をコントロールできない、といったことである。こうした説明はすべて現象面を記述しただけのことで、なぜ、若者や子どもたちがそうした行動をするのかを説明してはいない。
しかし、少し考えてみれば、こうした現象はすべて「他者の喪失」や「他者の取り込み不全」から生ずる現象であることに気づくはずである。「他者」の存在や、「他者」の取り込みが不全になっている人間が、他人のことを慮(おもんばか)って行動するなどということはありえず、他者のことが分からない人間が他人といい関係を保つことなどできるはずもなく、他者とのいい関係を持続しようと考えない人間が、他者の気持や都合を考え自分の感情や行動をコントロールできようはずはないのである。
関連して、あと一つ重要なことを付け加えておこう。若い世代にみられる「果てしない自分探し現象」ないしは「自己肯定観の欠如」についてである。神戸市の酒鬼薔薇少年は自己を語るに「透明な存在であるボク」という名言を吐いた。自分が何者かまったく分からずにいる少年の偽らざる心情を吐露した言葉である。本当の自分はどんな人間なのか、本当の自分はどうしたらみつけられるのか。こうした問いにつき動かされ、都市の盛り場をあちこちさ迷い歩く若者が少なからずいる。
こうした問いにつき動かされて、精神的な悩みをかかえ自分の部屋に閉じこもったり、自己啓発セミナーに参加したり、こうした問いにつき動かされて、マリファナに手を出したり、新興宗教の門を叩いたりする若者が後を絶たず、こうした問いにつき動かされて、外国に出かけ放浪する若者も少なからずいる。
このような若者たちが気づかなければならないのも、喪失してしまった「他者」の取り込みである。そのための、他者との出会いであり、交流であり、相互承認なのである。われわれ人間は他者を鏡とすることで、他者に映った自分を他者に告げてもらうことではじめて自分が何者であるかを知り確認することができるのである。
ところが、若い世代は、テレビの普及や個室化の進展などで、生まれた直後から他人との直接的な交流がほとんどないばかりか、逆に、事あるごとに、親や教師に言われてきたことは、「他人に迷惑をかけるな!」「自分のことは自分でしなさい!」「自分をみつめろ!」「自主的であれ!」「早く自立せよ!」といったことばかり。彼らが、他者とかかわることなしに、また、他者との相互行為なしに自分を確立し自立できると錯覚することになったのは、自然の成り行きであったといえる。
「透明な存在であるボク」「本当のワタシがどんな人間か知りたくて」「事件を起こせば注目されると思った」「何も考えていません。考えても分からないので」「どうやって、反省すればいいのか分かりません」「人を殴って初めて生きがいを感じました」「恐喝を続けたのは活躍する場がほしかったから」……。
事件後に語ったこうした少年たちの言質は、何か彼らをして犯行に駆り立てたかを示唆するものである。また、こうした言辞は、同時に、子どもたちを健全に育てるために、われわれ大人が何をしなければならないかを教えてくれてもいる。
(門脇厚司著「親と子の社会力」朝日新聞社 p24-28)
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したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となる。
言い換えれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡(18)となる。商品Aが価値体としての、人間的労働の物質化としての、商品Bに関連することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。
商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。
(18)見方によっては、人間も商品と同じである。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。
人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関連を通してはじめて人間としての自分自身に関連する。だが、それとともに、ペーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用する。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p89-91)
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◎「彼らが、他者とかかわることなしに、また、他者との相互行為なしに自分を確立し自立できると錯覚することになったのは、自然の成り行きであったといえる。」と。