学習通信041006
◎「そのすべてを……生命力を少しも犠牲にすることなく行うことである。」と。

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看護覚え書き
本当の看護とそうでない看護

 まず次のことを一般原則として認めることから始めようか──すべての病気はその経過のいずれかの時点においては概して回復作用であり,必ずしも苦しみを伴わない。それは,何週間,何カ月,時によっては何年も前に起きていながら気づかれないでいた病毒あるいは衰弱の作用を修復しようとする自然の努力であり,その病気の終結は,それまでの作用が進行していたそのころにすでに決められている。

 私たちがこのことを一般原則として認めると,その反対を証明する逸話や事例がすぐさま持ち出されるだろう。もし私たちが一つの原則を示すとする一地球上のすべての地域は人の努力によって居住可能になるよう予定されている──すぐさま反論が呈されるだろう──モンブランの頂上もいったい人が住めるようにできるのですか? それには私たちはこう答えるだろう。私たちが地上を健康によい場所にしていくとして,モンブランの麓に着くのは何千年も先のことだろう。頂上についての議論は麓に着くまで持ってほしい。

 経験を積んだ観察者が個人の家庭および公共の病院で病気を注意深く見ているときに強く感じるのは,その病気に避けられないよくあることと一般に考えられている症状あるいは苦しみは,その病気の症状などではなく,全く別の何かによるものである一新鮮な空気の,光の,暖かさの,静かさの,あるいは清潔さの不足,あるいは不規則な食事時間あるいは世話の不足,そのいずれか,あるいはそのすべての不足によるものである。そしてこれは病院看護と同じように家庭看護においてもそうである。

 造物主によって始められた,私たちが病気と呼んでいるこの回復作用は,ここにあげた事柄のうちの一つあるいはそのすべてについて知識あるいは気配りがどこか不足することによって妨げられてきたのであり,そこで痛みや苦しみ,あるいは作用全体の中断が起きる。もし患者が冷えている,熱がある,ぐったりしている,何か食べたあと具合が悪い,獅盾がある,とすれば,それは大体において病気のせいではなく,看護のせいである。

 私はほかによい言葉がないために看護という言葉を使う。看護はせいぜい,薬を与え湿布をするくらいの意味にしか使われてこなかった。しかし看護が意味すべきことは,新鮮な空気,光,暖かさ,清潔さ,静かさの適切な活用,食物の適切な選択と供給──そのすべてを患者の生命力を少しも犠牲にすることなく行うことである。

 女性は誰でもよい看護婦になるということが繰り返し言われ書かれてきた。別な見地から,私は看護を構成するこの要素自体が全く理解されていないと考える。

 私は看護婦に常にその責任があるとは言わない。衛生の悪さ,建築の悪さ,管理上の手はずの悪さが,看護することをしばしば不可能にする。しかし看護の技は,私が看護という言葉で理解していることを可能にするような手はずをこそ含んでいるべきである。

 現在行われている看護の技は,病気を神が意図されたこと,つまり回復作用にさせないようにわざと仕組まれているように思われる。

 最初の反論に戻ろう。このような病気も回復作用ですか?
あるいはこのような病気が苦しみを伴わないことがありえますか? ケアによって例えばこんな患者がこんな苦しみをしないようにできるのですか? と問われたとする。私は謙虚にわからないと答える。しかし,すべての痛みや苦しみが患者の病気の症状ではなく,造物主の意図された回復作用の成功に必要な上述の要素の一つあるいはすべてが欠けていたことによる症状であるとして,あなたがたがその痛みや苦しみのすべてを取り除いてはじめて,何がその病気の症状であり,何が病気から切り離すことのできない苦しみであるかが私たちにわかるだろう。

 すぐ返されるもう一つのよくある抗議はこうだ──それではあなたはコレラや熱病その他のときも何もしないのですか? 薬を与えることが何かをしていることあるいはすべてをすることであり,空気,暖かさ,清潔さその他を与えることは何もしないことだ,という確信があまりにも深く根を下ろし行きわたっている。この抗議に対する答えはこうである。これらの,そして同様な他の多くの病気においては,特定の治療法および手当の仕方の正確な価値は全く確かめられていないが,病気の結果を決めるに当たって細心の看護が非常に重要であることを多くの人が経験している。

U.よい看護を構成する真の要素は,病人についてと同様に健康人についても少しも理解されていない。健康についてのあるいは看護についての同じ法則,これらは現実に同じものなのだが,それは病人と等しく健康人にもあてはまる。その法則を破った場合,健康人に現れる結果の方が病人ほど激しくないだけである──それも時としてそうなのであっていつもではない。

 常にこうも反論される──「でも私がどうしてこの医学的な知識を得ることができるのでしょうか? 私は医者ではありません。ここは医者にお任せしなければなりません」。

 おお,家庭の母親たちよ! そう言うあなたがたは,この文明の地英国で,乳児7人のうち1人は1歳にならないうちに死んでいくことをご存知か。そしてロンドンでは,5人のうち2人は5歳前に死亡し,英国の他の大都市ではそれが2人に1人にものぼるということを。いとけない赤ん坊の生命の長さ=i分析化学者に転身したサターンという人が言うように)は,衛生状態の最も敏感なバロメーターである=Bこのあまりにも幼い者たちのこのすべての苦しみと死は避けられないものであろうか。あるいは造物主は,母親たちには常に医師が付き添うよう意図されたのであろうか。それとも,子孫を守ることに役立つ法則を学ぶよりもピアノを習うほうがよいというのか。

 マコーレイがどこかで言っている。私たちから遠く離れた天体の動きの法則は完全によく理解されているのに,一日中そして毎日私たちの観察下にある人の心の法則の理解が,2000年前に比べて少しも進んでいないというのは尋常なことではない,と。

 しかしそれにもまして尋常でないのは,私たちが気取っているとでも言いたい教育のもとでは──天文学の原理は今ではすべての女子学生に教えられているのに,私たちの身体と神がその身体を置かれた世界との関係について神が定められた法則については,どの階級の家庭の母親にも,どの階級の女教師にも,あるいは育児婦や病院看護婦にも全く教えられていないことである。

言い換えれば,神が私たちの心を容れられたこれらの身体を,その心の容れ物として健康あるいは不健康なものにする法則はまったく学習されていない。これらの法則──生命の法則──は少しも理解されていないばかりでなく,母親たちさえも,それらを学ぶこと──自分の子どもたちに健康な生活を与えるにはどうしたらよいかについて学ぶこと──は,自分にとって価値のないことだと考えている。彼らはこれを医者だけにふさわしい医学あるいは生理学の知識と呼んでいる。

 また別の反論がある。
 私たちはよくこう言われる。「しかし子どもたちの健康を左右する環境は,私たちにはどうにもできないものです。私たちが風をどうできるというのでしょうか。東風が吹いています。風が東から吹いているかどうか,ほとんどの人は朝起きる前にもうわかっています」。

 この反論に対してはこれまでの反論に対するよりもっと確信をもって答えることができる。風が東から吹いているのがわかるのは誰か。いつも東風にさらされているスコットランド高地の牧童ではもちろんない。それは,新鮮な空気や日光などにあたることが少なくて疲れきっている若い女性である。彼女を牧童と同じように衛生的な環境に置いてみなさい。そうすれば彼女も風が東から吹いてもそれに気づかないだろう。
(ナイティンゲール著「看護覚え書き」日本看護協会出版会 p8-14)

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 植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。かりに人間が大きく力づよく生まれたとしても、その体と力をもちいることを学ぶまでは、それは人間にとってなんの役にもたつまい。かえってそれは有害なものとなる。
 
ほかの人がかれを助けようとは思わなくなるからだ。そして、ほうりだされたままのその人間は、自分になにが必要かを知るまえに、必要なものが欠乏して死んでしまうだろう。
 
人は子どもの状態をあわれむ。人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅びてしまったにちがいない、ということがわからないのだ。

 わたしたちは弱い者として生まれる。わたしたちには力が必要だ。わたしたちはなにももたずに生まれる。わたしたちには助けが必要だ。わたしたちは分別をもたずに生まれる。わたしたちには判断力が必要だ。生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。
 
 この教育は、自然か人間か事物によってあたえられる。わたしたちの能力と器官の内部的発展は自然の教育である。この発展をいかに利用すべきかを教えるのは人間の教育である。わたしたちを刺激する事物についてわたしたち自身の経験が獲得するのは事物の教育である。
 
 だからわたしたちはみな、三種類の先生によって教育される。これらの先生のそれぞれの教えがたがいに矛盾しているばあいには、弟子は悪い教育をうける。そして、けっして調和のとれた人になれない。それらの教えが一致して同じ目的にむかっているばあいにだけ、弟子はその目標どおりに教育され、一貫した人生を送ることができる。こういう人だけがよい教育をうけたことになる。
 
 ところで、この三とおりの教育のなかで、自然の教育はわたしたちの力ではどうすることもできない。事物の教育はある点においてだけわたしたちの自由になる。人間の教育だけがほんとうにわたしたちの手ににぎられているのだが、それも、ある仮定のうえに立ってのことだ。子どものまわりにいるすべての人のことばや行動を完全に指導することをだれに期待できよう。
 
 だから、教育はひとつの技術であるとしても、その成功はほとんど望みないと言っていい。そのために必要な協力はだれの自由にもならないからだ。慎重に考えてやってみてようやくできることは、いくらかでも目標に近づくことだ。目標に到達するには幸運に恵まれなければならない。
 
 この目標とはなにか。それは自然の目標そのものだ。これはすでに証明ずみのことだ。完全な教育には三つの教育の一致が必要なのだから、わたしたちの力でどうすることもできないものにほかの二つを一致させなければならない。しかしおそらく、この自然ということばの意味はあまりにも漠然としている。ここでそれをはっきりさせる必要がある。
 
 自然とは習性にほかならない、という人がある。これはなにを意味するか。強制によってでなければ得られない習性で、自然を圧し殺すことにならない習性があるではないか。
 
たとえば、鉛直方向に伸びようとする傾向をさまたげられている植物の習性がそれだ。その植物は、自由にされても強制された方向に伸びつづける。しかし、樹液はそのために未来の方向を変えるようなことはしない。そこで、植物がさらに伸びていくと、その伸びかたはふたたび鉛直になる。
 
人間の傾向も同じことだ。同じ状態にあるかぎり、習性から生じた傾向をもちつづける。しかもわたしたちにとってこのうえなく不自然な傾向をもちつづけることもある。しかし、状況が変わるとすぐに、そういう習性はやみ、ふたたび自然の傾向があらわれる。
 
教育はたしかにひとつの習慣にほかならない。ところで、教育されたことを忘れたり、失ったりする人があり、またそれをもちつづけている人もあるのではないか。このちがいはどこから生じるのか。自然という名称を自然にふさわしい習性にかぎらなければならないというなら、右のようなわけのわからないことを言わなくてもいい。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p24-26)

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 〔……〕社会民主主義者の政治活動は、ロシアにおける労働運動の発展と組織化を助け、この運動を、指導的思想をもたない、ばらばらの抗議、「一揆」、ストライキの試みにすぎない現状から脱却させて、ブルジョア制度に反対し、収奪者の収奪をめざし、勤労者の抑圧に基礎をおく社会制度の廃絶をめざす、ロシアの労働者階級全体の、組織的闘争にそれを転化するのを助けることにある。

この活動の基礎となるものは、ロシアの労働者は全ロシアの勤労被搾取住民の唯一の自然的な代表者であるという、マルクス主義者の共通の確信である。

 自然的な代表者であるというのは、農奴制経済の死滅しつつある残存物をべつとして考えれば、ロシアにおける勤労者の搾取は、どこでもその本質上資本主義的なものであるからである。ただ、生産者大衆の搾取は小規模におこなわれ、分散的で、未発達であるが、他方、工場プロレタリアートの搾取は大規模で、社会化され、集積されている。

前者の場合には、この搾取に、さらに中世的な諸形態が、政治上、法律上、日常生活上の種々の付加物や、術策や脆計がからみついていて、それらのものが勤労者とその思想的代表者とに、勤労者を圧迫している制度の本質を理解すること、それからの出路がどこにあるか、また、どうしたら脱出できるかを理解することを、さまたげている。これに反して、後者の場合には、搾取はすでに完全に発達していて、問題を混乱させるような細部事情をまったくともなわない、純粋な形態で現われている。

労働者は、自分を抑圧しているものが資本であること、ブルジョアジーの階級にたいして闘争しなければならないことを、もはや見ないわけにいかない。そして、当面の経済的必要の充足のため、自己の物質的状態の改善のための労働者のこの闘争は、不可避的に労働者に組織を必要とし、また、不知避的に、個人にたいするたたかいではなくて、階級にたいする、すなわち、ひとり工場内だけでなく、いたるところ、あらゆるところで勤労者を抑圧し、圧迫しているその階級にたいするたたかいになっていく。これこそ、工場労働者がまさしく全被搾取住民の先進的代表者にほかならない理由である。

そして、工場労働者がその代表者としての責務を、組織的な持久的な闘争を通じて実現するためには、なんらかの「見通し」によって彼らを熱中させる必要は、まったくない。そのために必要なのは、ただ工場労働者にむかって、彼ら自身の地位を明らかにし、彼らを抑圧している制度の政治経済的構造を明らかにし、この制度のもとでは階級敵対が必然的、また不可避的であることを、明らかにすることだけである。

資本主義的関係の一般的制度のなかでの工場労働者のこのような地位は、彼らを、労働者階級の解放のための唯一の戦士にする。なぜなら、資本主義的発展の最高の段階である大規模機械制工業だけが、このような闘争のために必要な物質的条件と社会的勢力とをつくりだすからである。それ以外のあらゆるところ、資本主義的発展のより低い形態のもとでは、こういう物質的条件は存在しない。

すなわち、生産は幾千の零細経営(それは、共同体的土地所有の最も均分的な諸形態のもとでも、やはり分散した経営的であることにかわりはない)に分散しており、被搾取者は大部分まだ微小な経営を保有していて、こうして自分が反対して闘争しなければならない当のブルジョア制度にしばりつけられている。

このことは、資本主義を打倒する能力をもつ社会的勢力の発達をおくらせ、困難にする。分散した、個別的な、小規模な搾取は、勤労者をその居場所にしばりつけ、彼らをたがいに分離させ、彼らが自分たちの階級的連帯性を把握することを不可能にし、自分たちの抑圧の原因があれこれの個人にはなく、全体としての経済制度にあることを理解して団結することを不可能にする。

これに反して大規模資本主義は、不可避的に、古い社会や特定の場所や特定の搾取者との、労働者のいっさいの結びつきを断ちきり、彼らを団結させ、彼らにものを考えさせ、組織的闘争を開始できるような条件のもとに彼らをおく。社会民主主義者は、この労働者階級にたいしてこそ、その全注意と全活動とを集中する。

労働者階級の先進的代表者たちが科学的社会主義の諸思想、ロシアの労働者の歴史的役割についての思想をわがものにするとき、また、これらの思想がひろく普及して、労働者のあいだに、現在のばらばらな労働者の経済闘争を意識的な階級闘争に転化する恒久的な諸組織がつくりだされるとき、──そのとき、ロシアの労働者は、いっさいの民主主義的分子の先頭に立ちあがって、絶対主義を打ちたおし、ロシアのプロレタリアートを(万国のプロレタリアートと手をたずさえて)公然たる政治闘争のまっすぐな道にそい、勝利的な共産主義革命へみちびくであろう。
  一八九四年
(「「人民の友」とはなにか」レーニン全集第一巻大月書店 p316-318)
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◎私たちの持つべき根本思想……これこそ戦術確立にとって不可欠なものではないか。労働者は力≠もっているのだから。