学習通信041007
◎「肝心なことは、恋愛問題における階級関係の客観的論理」……。
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青年というと古い社会のしきたりを破って新しいなにかを作りだすものと相場がきまっているようです。その意味では古いものを破壊するのが青年の役割です。それまで絶対とされてきた大人のしきたりや常識を疑い、否定するのです。自分を拘束するすべての過去を脱ぎ捨てようとします。大人にたてついてみます。束縛をきらうのが若者の本性です。建設よりは破壊を好みます。大人からみると危なっかしい行動も多くあります。けれども、そうした破壊が変革の道につながることもあります。
それは自らを古い因習のなかに閉じ込めて生きなければならない支配階級の若者でも同じようです。古い話ですが、日本の昔に花山天皇(安和元〔九六八〕年〜寛弘五〔一〇〇八〕年)という天皇がいました。冷泉天皇の皇子でしたが、その在位は九八四年から九八六年までのわずか三年間でした。というのは、かれの最愛の恋人が即位直前に死んでしまったので、悲しくて出家したいと言い出したからです。
それを利用した藤原兼平は天皇を元慶寺に連れ出して出家させ、外孫つまり円融天皇に嫁していた兼平の娘が生んだ子を一条天皇として即位させてしまったのです。花山天皇が兼平の策謀に気づいた時は後の祭りであったといわれています。恋に生きた天皇はいかにも人間らしく、殺伐たる天皇家の歴史のなかで、数少ない人間味のある逸話です。この話は、たとえ天皇家という身分に生まれても、青年期には恋の情熱によって人間になることを示しています。青年の恋は階級をこえるのです。こうした多感さや情熱性は青年の特性です。
近代のヨーロッパの疾風怒濤時代といわれた芸術運動もまさに青年の情熱と行動性をしめすものです。レジスタンス文学の旗手ルイ・アラゴンの多数の小説の題材は、中産階級や地方ブルジョア出身の青年が、その若い純真さのゆえに、また恋ゆえに出身階級の呪縛をこえてレジスタンスや労働運動へと変身してゆく人間の発展を描くことでした。
『レ・コミュニスト』のなかの主人公の一人セシールもその一人です。銀行屋の娘であり大富豪の御曹司の若妻であった彼女は、その純な若い心のゆえに次第にブルジョア社会の醜さにめざめ、年下の恋人ジャンヘの愛に導かれて、レジスタンスに味方するようになるのです。それは小説ですが、それだけに、フランスの現代の真実をみごとに表現しているのです。このように、青年期は、その情熱の坩堝(るつぼ)のなかから、その純粋で柔軟な魂の形成のなかで、階級や、過去のしがらみや時代の閉塞をのりこえて未来への新しい歩みを模索する季節なのです。
もちろん、アラゴンが『オーレリアン』で描いているように、ちょっとした恋のつまずきが、中産階級出身の若者をふたたび出身階級の腐敗のなかに引きずり込んでしまうこともあります。それだけに、恋も青年にとっては大切な試練なのです。青年たちは、自らの恋についても天国への階段をのぼるのには、モーツアルトの『魔笛』の主人公たちのように、火の試練や水の試練を経なければならないのです。恋をいかに美しく恋するか。失恋にせよ、結婚にせよ、その煩悶と悩みを生き抜く中で青年は美しくなってゆくのです。
(井ヶ田良治著「総論─青年が歴史をつくる」 講座「青年」第一巻 青年の発見 清風堂書店 p15-17)
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レーニンから
イネッサ・アルマンドヘ
Dear friend ! 小冊子のプランをもっとくわしく書くよう切におすすめします。そうでないと、かなり多くの点がはっきりしていないのです。
一つの意見だけは、いまでも言っておかなければなりません。
第三節──「恋愛の自由という要求(婦人の)」は、全文削除するようおすすめします。
これは、実際には、プロレタリア的な要求ではなく、ブルジョア的な要求ということになります。
実際、この言葉を、どう解釈していられるのですか? この言葉を、どう解釈することができるでしょうか?
一、恋愛問題のうえでの物質的(経済的)勘定からの自由か?
二、物質上のわずらわしさからの自由か?
三、宗教的偏見からの自由か?
四、ローマ法皇などの禁止からの自由か?
五、「社会」の偏見からの自由か?
六、狭い生活環境(農民あるいは小市民あるいはブルジョア・インテリゲンツィアの)からの自由か?
七、法律、裁判所、警察からの自由か?
八、恋愛にむきになることからの自由か?
九、子どもを生むことからの自由か?
一〇、姦通の自由か? 等々。
たくさん(もちろん、全部ではないが)のニュアンスを列挙してみました。もちろん、あなたが解釈しているのは、第八-第一〇ではなく、第一-第七か、でなければ第一-第七ふうなものでしょう。
だが、第一-第七のためには、別の表現をえらぶべきです。なぜなら、恋愛の自由は、この考えを正確に表現してはいないからです。
ところで、公衆、つまり小冊子の読者は、かならず「恋愛の自由」一般を第八-第一〇のようなものの意味にとるでしょう。──たとえあなたの意志には反しても。
近代社会では、もっとも饒舌で、さわがしい、「目にたつ」階級が、「恋愛の自由」を第八-第一〇に解釈しているからこそ、これはプロレタリア的な要求ではなくて、ブルジョア的な要求なのです。
プロレタリアートにとってもっとも重要なのは、第一-第二であり、ついで第一-第七ですが、これは、元来 「恋愛の自由」ではありません。
あなたがこの言葉を主観的にどう「解釈したいとおもっている」かは、問題ではありません。肝心なことは、恋愛問題における階級関係の客観的論理です。
1915年1月17日
レーニンから
イネッサ・アルマンドヘ
親愛な友よ! 返事がおくれたことをおゆるしください。きのう返事を書こうとおもったのですが、さしつかえができて、手紙を書くため机にむかう暇がなかったのです。
あなたの小冊子のプランについては、「恋愛の自由の要求」ははっきりしていませんし、あなたの意志や願いにはかかわりなく(私はこの点を強調して、客観的な階級関係が問題なのであって、あなたの主観的な願望が問題なのではない、と言いました)──、こんにちの社会環境のもとではブルジョア的な要求となり、プロレタリア的な要求とはならないだろうと、考えました。
あなたはこれに同意していません。
よろしい。もう一度この開題を考察してみましょう。
はっきりしない点をはっきりさせるために、私は、ありうべき(そして階級的不和の環境のもとでは避けられない)さまざまな解釈を一〇ほど列挙しました。そして第一-第七の解釈は、私の考えでは、プロレタリアにとって典型的または特徴的であるが、第八-第一〇はブルジョアにとって典型的または特徴的である、と指摘しました。
これを反駁するには、(一)これらの解釈が正しくないこと(そうだとすれば、他の解釈に代えるか、または正しくない解釈を指摘すべきです)、または、(二)不完全なこと(そうだとすれば、足りない点を補足すべきです)をしめすか、あるいは、(三)そういうふうにプロレタリア的な解釈とブルジョア的な解釈とにわかれないことをしめさなければなりません。
あなたは、このいずれもやってはいません。
あなたは、第一-第七項には全然触れていません。つまり、それらを(だいたいに)正しいとみとめておられる? (プロレタリア婦人の売淫と、彼女たちの従属性──「いやと言えないこと」──についてお書きになっていることは、第一-第七項に完全にはいります。ここでは、あなたと私のあいだにどの点でも相違を見いだすことはできません。)
これがプロレタリア的な解釈だということにも、あなたは異議をとなえていません。
あとのこっているのは、第八-第一〇項です。
これらの項をあなたは、「あまり理解できず」、「反対しておられる」。「どうして恋愛の自由と」第一〇項「とを同一視する(?)ことができるのか(そう書いてあります!)、私には理解できない」……と。
私が「同一視している」ことになり、あなたは私をしかりつけ、やっつけようとおもわれたことになりますね? どうしてそういうことになるのですか? いったいこれはどういうことですか?
ブルジョア婦人は恋愛の自由ということを第八-第一〇項と解釈する、──これが私の命題です。
この命題を反駁するのですか? ブルジョア夫人がなにを恋愛の自由と解釈しているか、言ってください。
あなたはそれを述べてはいません。ブルジョア婦人がこの言葉をまさにどのように解釈しているかは、文学や生活が証明してはいないでしょうか? 十分に証明しています! あなたは暗黙のうちにそのことをみとめています。
だが、そうだとすれば、ここでは問題は彼らの階級的地位にあるのです。彼らを反駁することはまず不可能であり、ほとんど子供じみているでしょう。
彼女らから、プロレタリア的見地を、はっきりと区別し、それを彼らに対置すべきです。そうしないなら、彼らはあなたの小冊子から適当な個所を抜きだして、自分流儀に解釈し、あなたの小冊子から我田引水し、労働者にあなたの思想をゆがめてしめし、労働者を「困惑させる」(あなたが労働者のあいだに縁もゆかりもない思想を持ちこむのではないかという懸念の種を労働者のあいだにまいて)だろうという客観的な事実を考慮しなければなりません。それに、彼らはおびただしい新聞、等々をその手ににぎっているのです。
ところが、あなたは、客観的・階級的な見地をすっかりわすれてしまい、あたかも私が恋愛の自由を第八-第一〇項と「同一視している」かのように言って、私を「攻撃」することに移っているのです。……奇妙です、まことに奇妙です。……
「かりそめの情熱や交わりでさえ」、(月並みの、ひどく月並みの)夫婦の「愛情のない接吻」よりは「詩的で、清潔である」。こうお書きになっています。小冊子にもそう書くおつもりです。けっこうです。
このように対置することは論理的でしょうか? 月並みの夫婦の愛情のない接吻は不潔である、と。よろしい。これには、……なにを……対置すべきでしょうか? ……愛情をともなった接吻、でしょう? ところが、あなたは、「かりそめの」(なぜ、かりそめの、なのでしょうか?)「情熱」(なぜ、愛情ではないのでしょうか?)を対置するのです。論理からいけば、愛情のない(かりそめの)接吻に、愛情のない夫婦間の接吻が対置されていることになります。奇妙なことです。
通俗的な小冊子としては、プロレタリア的な自由恋愛結婚に、小市民=インテリゲンツィア=農民の(たぶん、私のあげた項目の第六か第五)愛情のない、月並みで不潔な結婚を対置するほうがよくはないでしょうか(たってのお希望とあれぼ、付けくわえて申しますが、かりそめの交わり=情熱にも、不潔なものもあれば、清潔なものもあります)。あなたのプランでは、対置されているのはさまざまな階級型ではなく、ある「特殊なばあい」です。もちろん、そういう特殊なばあいもありえます。
だが、いったい特殊なばあいが問題なのでしょうか? もし、特殊なばあい、結婚における不潔な接吻や、かりそめの交わりにおける清潔な接吻の個々のばあいをテーマとするならば、そういうテーマは小説で追究しなければなりません(なぜなら、そのばあいには、すべての眼目は個別的な状況にあり、特定の型の性格や心理の分析にあるからです)。だが、小冊子ではどうでしょうか?
「恋愛における教授」の役割を演じるのは「愚かしい」ことだ、とあなたが言っているのは、ケイの引用が不適切だという私の考えを非常によく理解したものです。まさにそのとおりです。ところで、かりそめの、うんぬんにおける教授の役割を演じることは、どうなのですか?
実際、まったく論争したくありません。喜んでこの私の手紙を投げだし、こんどお会いするときまで問題をのばしたいものです。だが私がのぞんでいることは、小冊子がよいものとなり、だれも、あなたにとって不愉快な文句をそれから引きだすことができず(ときには、ただ一つの文句でも、玉にきずとなるのに十分です)、あなたを曲解できないようにすることです。私は、あなたがここでも、「意志にそむいて」書いたものと確信しています。そして、この手紙をお送りするのは、話合いによるよりも、手紙によるほうが、たぶんあなたは、くわしくプランを検討できるでしょうし、プランは非常に重要なものだからにほかなりません。
フランスの婦人の社会主義者に知人はいませんか? 私の第一-第一〇項と、「かりそめの」うんぬんについてのあなたの意見とを(英語本からの翻訳だと言って)彼女に翻訳して聞かせ、彼女を観察し、彼女の言うことを注意ぶかく聞いてごらんなさい。これは、局外者がなにを言うか、彼らの印象はどういうものか、彼らが小冊子になにを期待しているかを知るためのささやかな実験です。
さようなら。なるたけあなたの頭痛がおこらないよう、すこしも早く回復することをねがいます。
1915年1月24日
(「レーニンからイネッサ・アルマンドヘの手紙」レーニン全集第35巻 大月書店 p182-187)
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◎「青年期は、その情熱の坩堝(るつぼ)のなかから、その純粋で柔軟な魂の形成のなかで、階級や、過去のしがらみや時代の閉塞をのりこえて未来への新しい歩みを模索する季節なのです。」と。