学習通信041010
◎「若者は決してむくれたりはしません」……。

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 青年は歴史にであう

 けれども、青年は時代に負けるだけではありません。時代の閉塞を打ち破って新しい時代を切り開くのも青年です。そして、その青年たちをそだてるのも大人たちです。

 多くのすぐれた先輩たちの青年時代をみると、その多くがすぐれた先達と出会っていたことを思いしらされます。

 青年がそのゆたかな可能性を開花させるのは、真空のなかではありません。青年たちは、良かれ悪しかれ、時代のなかでその多感な体験を肥料として成長するのです。しかし、それぞれの時代は一般的に青年の眼前に姿をあらわすのではありません。時代は個別的な人の姿をとって具体的に語りかけます。暗い谷間の軍国主義時代にもそれと必死になってたたかっているひと、誠実に人間として生きようとしているひと、そうした先達との出会いのなかで、青年は美しさや正義や真実に感激し、自らの人生を織りだしてゆくのです。

小説でいえば、ジャン・クリストフはその少年から青年時代にかけて、叔父のゴットフリートを先達として持っていました。放浪の旅をつづける貧しく影の薄い貧相なその姿のなかに、自然を愛し魂の清らかさを守り続ける聖者の面影をみることができます。魂の清らかさをもとめたジャン・クリストフの人生は、このゴットフリートの遺産に他ならないのです。

 一一七三年生まれの親鸞が法然と出会ったのはこ一二〇一年ですから、二九歳の青年僧だったのです。時に法然は六九歳、彼は一二一二年に亡くなりますから、まさに法然の晩年にあたります。若い植本枝盛は福沢諭吉に感激し、「猿人政府諭」を書いて投獄されるや獄中の反骨のジャーナリストたちと出会い、穏健な民主主義者から急進的な自由主義者に変身してゆきました。何時の時代にも、若い魂は成年・老年の先達たちに出会うことによって飛躍的に成長し、過去から未来へと人類の文明や幸福への歴史を紡いできました。

 現代でも同じです。アメリカ合衆国の偉大な裁判官オリヴァー・ウェンデル・ホームズ(一八四一−一九三五)とイギリスの政治学者ハロルド・ラスキ(一八九三−一九五〇)の出会いなどはその素晴しい一例です。彼らの往復書簡(その晩年の書簡の一部は『ホームズーラスキ往復書簡集』岩波現代叢書として翻訳されています)は、実に一九一六年から一九三五年の永きにわたり、殆ど毎週のようにとりかわされた手紙で、二巻、一六〇〇頁をこえる膨大さです。二人がたまたまボストンで出会った時、ラスキは二三歳、かたやホームズは七五歳で、親子どころか祖父と孫程の年の違いでした。

その最初の手紙で、ラスキはホームズにあてて「あなたは、私たちの世代のものに、人生とはどういうものであるかを教えて下さいました」と書き、ホームズはその返事のなかで、「君たちのような男の子は、老人よりも、はるかに俊敏で、はるかに多くのことを疑問の余地がないと思っているので、君と話していると誰でも若返ってしまう」と記しています。ホームズはアメリカ自由主義のもっとも傑出した連邦最高裁判所判事として、つねに判事ホームズと呼ばれており、一方のラスキはイギリス労働党の左派の理論家としてナチズムを厳しく批判し、スターリン主義のソ連社会主義に鋭い警告をあたえつづけたひとでした。

このようにその経歴も年齢もまったく異なる二人の感動的な出会い、そして、そのお互いに信頼し、尊敬と親愛にあふれる知性ゆたかな書簡は、私たちに青年の老人との出会いの尊さを教えてくれます。その書簡の写真をみると、見事な筆跡で書かれた老判事ホームズの手紙に対し、ラスキの手紙は左端がまがって行が段々短くなっていたり、やや丸文字的で、いかにも若い筆跡であるのがほほえましくおもわれます。ホームズがラスキの政治学にどのような影響を与えたのかは簡単にはいえませんが、練達が若い青年に与える衝撃の強さとその重さは計り知れないものがあったのではないでしょうか。老人から受け継いだ人類史の知を、青年たちは発展させ、新しい歴史を紡いでゆくのです。

未来は青年のもの

 世智にたけた大人たちが、「このごろの青年は三無主義だ」とか、「軟弱だ」とか、「新人類だ」とかいかに嘆いても、古き世代は遠からず青年たちにその活動の舞台をゆずらなければなりません。もし、大人たちが、みずからの存在を後の世の歴史に刻印したいというのならば、青年たちの心に大切な思い出として、または受け継ぐべき人類史の宝として、もっとも大切なものをゆずってゆかなければなりません。

かりに現在が嘆かわしい閉塞の時代であっても、また、頽廃した世紀末の様相をもった憂うべき時代であっても、ホームズがあたえたような強烈な衝撃を現代の最良の青年たちに与える大人になることこそが、すでに青春を終えた大人たちの務めではないでしょうか。そして、今の世を良い社会に造りかえる努力によって、青年たちにより良い社会環境をつくっておかなければなりません。青年たちに期待できるかどうかは、どうやら、今の大人たちの社会正義と世界平和と人間性の勝利にむけてのたたかい如何にかかっているようです。なぜならば、未来の歴史をつくる青年たちは大人たちのたたかう背中をみて成長してゆくものだからです。
(井ヶ田良治著「総論─青年が歴史をつくる」 講座「青年」第一巻 青年の発見 清風堂書店 27-32)

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若年無業者52万人
政府に「ニート」と呼ばれて
意欲の問題ではすまされない

 その数、ざっと五十二万人。「ニート」とよばれる、働かず求職も通学もしていない「若年無業者」を厚生労働省の「労働経済白書」が初めてとりあげ、波紋を広げています。フリーターでもなく、働く意欲そのものを失ったようにいわれ、つかみどころのない「無業者」の数を、どうやってはじきだしたのか。政府の関心は何か。担当者にあたってみました。(坂井希記者)

 厚労省の統計は、総務省統計局の「労働力調査(詳細集計)」がもとになっています。労働力としてカウントされるのは、調査期間中に仕事をしていた「従業者」、仕事を休んでいた「休業者」、仕事を探していた「完全失業者」です。これ以外が「非労働力人口」です(図参照)。

 厚労省はここに的をしぼり、年齢は十五―三十四歳、卒業者かつ未婚であり、かつ通学や家事を行っていない者を集計しました。

 「労働経済白書」は今回で四回目。「若年無業者数」を発表したのは、今回が初めてです。就職活動そのものをしていないために、失業者にもカウントされない。アルバイトもしていないので、フリーターでもない。これまでは統計上にもあらわれてこなかった若者たちに、なぜいま政府が注目したのでしょうか。

毎年増えている
 統計を担当した厚労省の労働政策担当参事官室は、「若年の無業者対策は、厚労省の今後の重点施策の一つ。今回の計算もその一環です。今までは就職活動をしている人対象の施策が中心だったが、日本の労働、経済の今後を考えると、求職活動をしていない人を対象にした支援も必要になっている」といいます。他の部署も含めてきいてみると、次のような言葉が返ってきました。

 「学卒で進学も就職もしない無業者が毎年増えている。それが積み重なってどのくらいになったのかを調べたら五十二万人だった。今後、若者の労働力人口は減っていくわけで、こういう人たちを放置しておくわけにはいかない」(職業安定局若年者雇用対策室)

 「フリーターの増加に加え、去年あたりからフリーターにもなれない『ニート』とよばれる若者が増えているということが、各方面から聞こえてきた。この五年で倍になったといっている人もいる。そこで厚労省としても調べてみたら、〇二年は四十八万人、〇三年は五十二万人と増加傾向にあることがつかめた」(職業能力開発局育成支援課キャリア形成支援室)

少子化にも影響
 厚労省でいくつもの部署にまたがって、若年者雇用の問題が検討されていることがわかります。この間、若者の高失業率やフリーターの増加をはじめ、若者の雇用問題が社会問題としても大きくとりあげられるようになってきました。

 内閣府「国民生活白書」(〇三年版)は「若年の職業能力が高まらなければ、日本経済の成長の制約要因になる」「社会を不安定化させる」「未婚化、晩婚化、少子化などを深刻化させる」と警鐘を鳴らしました。青年や国民各層からは、「国をあげた対策を」との声がひろくあがりました。厚労省の姿勢には、そうした世論の反映があるともいえるでしょう。

 しかし、ニートを生みだす問題には踏み込まず、若者の雇用対策を、働く意欲の不足など若者の意識の問題に解消してすませようというねらいなら、政府の責任を棚上げにすることになりかねません。

 求職活動にも踏み出せない理由には、さまざまなケースがあります。企業の求人が、新規採用で時間をかけて育成することを放棄し、「即戦力志向」になるなど様変わりしている問題はそのひとつです。そのため、入り込めず立ちすくんでしまっているケースは、本人の意欲だけでは解決できません。また、サービス残業や長時間労働のためいったん就職したが心身ともに疲れ果ててしまったケースもあります。「ニート」の増加を放置せず、今後は、若者の実態や思いをよくふまえた、きめ細かい対策が必要です。

 ニート(NEET) Not in Education,Employment or Trainingの頭文字をとった造語。直訳すれば「在学中でも雇われ中でも訓練中でもない」。もとはイギリスで、就学も就労もせず、職業訓練も受けていない若者を指して使われ始めました。

原因は大企業の求人しぼりこみ
 労働総研(労働運動総合研究所)常任理事・小林宏康さんの話
 ヨーロッパでは、「社会的排除」という言葉で青年の無業者を含む若年失業問題をとらえ、社会から孤立し、排除されていく人たちへの公的支援を強化しています。日本では、どうしても個人の問題としてとらえられがちなのが一番問題です。統計のとり方にもよるので数が正確かはわかりませんが、五十二万人のなかには、いわゆるひきこもりの若者たちも含まれるでしょう。これも社会問題です。「ニート」はある推計ではこの十年で一・六倍といわれます。とくに大企業の新規学卒求人のしぼりこみが影響しているのは明らかです。「働く意欲のない若者も、どこかに押し込んでしまおう」などということではなく、雇用の創出、教育訓練や福祉の充実など、総合的なとりくみが必要です。ヨーロッパに学ぶとすれば、「ニート」という言葉の引用でなく、雇用や福祉を大切にする政治の姿勢こそ学ぶべきです。
(2004年9月27日(月)「しんぶん赤旗」)

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青年の可能性への信頼とは   吉井清文

 編集部からの注文は「青年の心をつかむ」というようなことでどうかということでしたので、それをうけてのべることにしました。

 たしかにいまわたしのタッチしている労働運動の分野では、青年の消極性がたえず問題にされています。「労働組合の活動に受身である」「役員のなり手がない」「なにをやっても途中でくずれてしまう」「ねばりがない」などというのがそれです。

 しかし一歩つっこんで考えてみると、こうした傾向は、なにも今日の青年労働者に生来のことではなくて、すべてかれらの育ってきた環境からくることであり、それにたいするかれらの敏感な反応のあらわれといわなくてはならないものです。いいかえるとかれらはむしろ環境にたいしてするどく反応することのできる敏感さを十分にそなえていると判断させる材料が、ここにあるといえるわけです。

 そして現にいまかれらは、その敏感さをいろいろなかたちですでにしめしつつあります。なかでも反核平和の運動にはつよく反応して積極的な態度をしめしていることと、賃金の抑制、可処分所得の後退、賃金体系の改悪などに反発してつよい関心をしめし、行動に参加してきていることの二つは、労働組合運動の分野でとくにめだっていることです。

 これらは今日の資本主義そのものがその窮状からうちだした方向の根本にすえられていることへの反発であり、また青年の利害をふかくおかすものへの反応でもあります。つまり以上の反応は今日の青年が今日の資本主義とたたかう能力をそなえていることを端的にしめすものであると確言できるわけです。

 そうなると問題は一方では今日の資本主義がなおこれからの時期にどのような方向へむかっていくのか、そこから青年男女の利害にたいしてどのような侵害がもたらされるのか──一言でいえば情勢の変化がもたらす作用に、他方ではそれをうけて運動とその方向をつくりだす指導的な組織──政党やナショナル・センター──とその影響力の如何にかかってくるということになります。

つまり青年の可能性にどこまで信頼するか、それをどこまでひきだすかということは、資本主義のもつ矛盾とその展開の必然性、法則性の分析如何ということと、青年に働きかける側の組織能力の如何という問題にしぼられてくることになるというわけです。青年の反応のにぶさをボヤイテいる暇があったら、青年の情勢への反応の特徴、その思考内容の特徴や一般傾向などを具体的に分析し、それにかみあった働きかけ方を研究しなくてはなりません。

 その際に決定的に大切なことは、青年の思考の内容やその特徴に、こちらの働きかけの中味を「あわせる」とか、こちらがかれらの水準のところまで「おりていく」とか、こちらの働きかけがうけ入れられるように中味を「うすめる」とか、あるいは「きつい言葉をさける」とか、運動に加わってくれるように相手をたてて「たのんでみる」というようなことはすべてあやまっており、絶対にやってはならないことであるということをつかんでおくことです。

 必要なことは相手の思考の特徴を知って、それにかみあうように問題をだすこと、「おりていく」のではなくて「引きあげること」、「うすめる」のではなくて「原理原則」をはっきりとうちだすこと、「たのむ」のではなくて「みずからの要求でみずからがたちあがれるようによびかけることです。よく知りもしないのに運動をなめているような場合には断固として「しかりとばす」ことが必要です。

この若者たちが「民族の息子であり娘である」とおもうならば、運動こそが「若者自身の利益」であることを断固としてつたえなくてはなりません。「自分のためにおこってくれている」とうけとめられれば、若者は決してむくれたりはしません。むしろコンタクトをつよめてくるというのが、わたしの確信です。青年の心をつかみ、その可能性をひきだす──自分のカでひきだしてもらうために必要なこととして私の考えているのは、以上のようなことです。
(「わたしの選択 あなたの未来」労働旬報社 p356-358)

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◎「青年たちは、良かれ悪しかれ、時代のなかでその多感な体験を肥料として成長するのです。」と。