学習通信041013
◎「人間の生命をロウソクに比べるのは決して詩的の意味においてばかりではない」と。

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換気と加湿

 看護の第一の根本原則,看護婦が注意を向けるべき最初で最後の事柄,患者にとって第一の不可欠の要素であって,それがなければあなたが患者のためにできる他のあらゆることの価値が無に等しくなるようなこと,それがあればそれ以外のすべてのことは放っておいてもよいとまで私がかつて言ったこと,それはこうである。

患者を寒さでぞくっとさせることなく,患者が呼吸する空気を屋外の空気と同じように清浄に保つこと。しかしこれほどなおざりにされていることが他にあるだろうか。このことが少しでも考えられている場合でさえも,途方もない誤った考えが支配している。患者の部屋あるいは病棟に空気を入れ換えるときでさえ,その空気がどこから入ってくるかを考える人はほとんどいない。

それは他の病室と空気が通い合っている廊下から来るかもしれないし,風が通ることのないホールの,ガスや料理の臭いやあらゆる種類のかびくささがたちこめているところから来るかもしれない。あるいは,それは地下の調理場,洗い場,洗濯室,水洗便所とか,私自身悲しい経験をしたことのあるように,汚物でいっぱいになっている蓋のない下水溝から上がってくる空気であるかもしれない。これによって患者の部屋や病棟の空気が入れ換えられていると言われている──それはむしろ空気を毒しているというべきである。

空気はいつも屋外から,それも,最も新鮮な空気の入る窓から取り入れなさい。建物に囲まれた中庭からは,特に風がそこを通り抜けていないときは,ホールや廊下から入る空気と同じようなよどんだ空気が入ってくるだろう。

 さらに,私が個人の家でも病院でもよく見てきたことがある。人が住んでいなかった部屋があり,暖炉はぴったりと板で閉ざされ,窓は開けられたことがなく,よろい戸もたぶん閉められたまま,そしてそこはおそらく物置がわりに使われていて,新鮮な風がそよぐことも一すじの陽の光が入ることもない。空気はよどんでかびくさく,この上もなく汚れている。そこは,天然痘,猩紅熱,ジフテリア,その他ありとあらゆる病気を育てるのにおあつらえむきである。

 ところが,その部屋に隣接している育児室,病棟あるいは病室は,その部屋に通じるドアを開けておくことによって,疑いなくそこと空気を入れ換え(?)られることになろう。あるいは,前もって準備をしていないその部屋に子どもたちを入れて寝かすこともあろう。

 しばらく前のことだが,クイーン街にある店の裏手の厨房の下仕事場にある男が入って来て,炉端にすわっていた気の毒な肺結核の男の喉を切った。殺人者はこの行為を否認しなかったが,ただ,「これでよし」と言った。もちろん彼は狂っていたのである。

 しかし私たちの場合どこが異常かというと,被害者が「これでよし」と言い,私たちが狂ってはいないことである。しかも私たちは,かびくさく空気が通わず光も入らない部屋のなかの殺人者たち,ドアのうしろの猩紅熱,あるいは病棟の混み合ったベッドの間に蔓延している熱病や病院壊疸,それらを嗅ぎつけて≠「ながら「これでよし」と言う。

 窓が適切に設けられてあり,暖炉に燃料が適度にくべられていれば,ベッドのなかにいる患者に新鮮な空気を確保することは比較的容易である。そのときは窓を開けるのをこわがらなくてよい。ベッドに入っていて風邪をひく人はいない。これはよく勘違いされるところである。適切な掛けものと必要に応じて湯たんぽを使えば,患者をベッドのなかでいつも暖かくさせると同時に患者に新鮮な空気を与えることができる。

 しかしうかつな看護婦は,その身分や教育がどうであれ,患者がベッドのなかにいるのにあらゆる隙間をふさいで室内を温室のように暖かくしようとする──そして患者が起き上がるときにはあまり保護しないでおく。人が風邪をひく(風邪には鼻風邪のほかにもいろいろなひき方がある)のは,着替えという行為に加えて,それまで何時間あるいはおそらく何日間もベッドのなかにいて弛緩した皮膚が反応できなくなっている,この極度の消耗のあとで初めて起き上がるときである。その場合,ベッドのなかにいる患者にとって快い室温が,ベッドから起き上がったばかりの患者の具合を悪くすることがある。

空気の清浄が不可欠の要素であると同時に,患者をぞくっとさせない温度を保たなければならないことも常識であろう。そうしなかった結果が,発熱反応ですめばなによりである。

 屋内の空気を屋外の空気と同じように清浄にすることは,屋内を外と同じに寒くすることだと考えられがちだが,その必要はない。

──略──

 病人に自分が吐いた熱く湿っぽい腐敗した空気をくり返し吸わせ,その犠牲によって病棟を暖かく保とうとすることは,回復を遅らせる,あるいは生命を消滅させる確実な方法である。

 どんな階級のどんな人たちの寝室でもよい,そして病人でもよい健康人でもよい,1人,2人あるいは20人もがそのなかにいるときに,夜間あるいは朝まだ窓を開ける前にあなたはその部屋に入って,その空気がこの上もなく息苦しく汚れていることに気づいたことがあるだろうか。いったいなぜそうなっているのだろうか,そしてそうであってはならないということがどれほど重要なことか。

人の身体は健康なときでさえも,眠っている間は,起きている間よりも汚れた空気の影響でひどく害される。それならばあなたがたはなぜ,自分が眠る部屋の空気を夜の間もずっと屋外の空気と同じくらい清浄に保つことができないのか。しかしそのためには,あなたがたは自分自身がつくり出す汚れた空気のための十分な出口と,外からの清浄な空気が入ってくるための十分な入口を用意していなければならない。

開いた煙突,開いた窓あるいは通風口がなければならない。ベッドのまわりにぴったり閉じるカーテンはいらない。窓のよろい戸やカーテン,あなた自身の健康を害したり,病気の回復の見込みをなくさせてしまうようなそのほかのどんな細工もいらない。

 注意深い看護婦は,自分の患者,特に衰弱し病気が長びき気力も喪失している患者については目を離さずに見守り,生命を維持するのに必要な熱を患者自身が失ってきたときにはその影響から彼を保護する。病気の状態によっては,健康時より体熱の発生がずっと低下する場合がある。そして生命力は,体熱を維持することに費やされて次第に減退し,ついには終息へという傾斜をたどる。こういうことが起こる場合は,最大の注意をはらって1時間毎,いや1分毎にでも調べるべきである。

足と脚は時々手で触ってみて,冷えていく傾向が見られたならばいつでも,体温が回復するまでは湯たんぽ,暖めたレンガ,あるいは暖めた綿毛布を使い,それに暖かい飲み物を与えるべきである。必要に応じて火を十分にたいておく。病気の末期になると,このような簡単な用心がなされなかったために患者が命を失うことがたびたびある。看護婦は患者の食べ物,薬,あるいは患者に与えるよう指示されている気付け薬の頓服で安心しているのであろうが,その間にも患者は,外側からの加湿が少しばかり足りないために衰弱していく。

このような例はよくあることで,真夏にさえも起こり得る。命にかかわるこの身体の冷えは,24時間のうちで気温が最も下がる早朝にかけて,前日の食物から得た力が消耗されてしまったときに最も起こりやすい。

 一般的に言って,弱っている患者は夕方よりも朝のほうを寒がると考えてよいだろう。朝は生命力がずっと低下している。彼らは,夜間は手足が燃えるように熱く熱があっても,朝にはほとんど必ず冷えて震えているだろう。ところが看護婦は足温器を夜に温めて,忙しい朝には放っておくのが好きなようだ。私はこれを逆にしたい。

 これらのことはすべて良識と気配りを必要とする。しかしすべての階級のなかで,看護ほど常識が見受けられないものはたぶん他にない。

 よく教育された人たちの頭のなかにある,寒さと換気についてのこの途方もない混乱はこれである。部屋を冷やすことが必ずしも換気にはならない。また,部屋を換気するためにそこを冷やす必要もまったくない。それにもかかわらず,看護婦は部屋がむっとしていると思うと,暖炉の火を消してその結果部屋をいっそうむっとさせるか,あるいは換気をよくしようとして,火の気のないあるいは窓が開いていない寒い部屋へのドアを開ける。

患者にとってなによりも安全な環境は,寒さがよほど厳しいときでなければ,火がほどよく燃えていて窓が開いていることである(ところがこのことを看護婦にどうしても理解させることができない)。小さな部屋を風を吹き抜けさせずに換気するときには,大きな部屋を換気するときよりもっと注意が必要なのはもちろんである。

 もう一つの途方もなく誤った考えは,夜気を恐がることである。夜,私たちは夜気以外にどんな空気を吸うことができるだろうか。屋外からの清浄な夜気と屋内からの汚れた夜気のどちらを選ぶかである。ほとんどの人は後者をとる。納得できない選択である。私たちが罹る病気の半数は,窓を閉めて眠る人たちに起きることが真実として証明されたならば,彼らはなんと言うだろうか。窓はほとんど一年中,夜の間開けておいても誰にとっても害にならない。

これは,光が回復に不必要だという意味ではない。

都会では,夜気は24時間の間で得られる最も清浄なよい空気であることが多い。都市部では,病人のためには窓を夜間閉めるよりも昼間閉めるほうが理にかなっていると私は思う。夜間は煙もなくて静かだから,患者の部屋に空気を入れるには一番よいときである。肺結核と気候という問題についてわが国で最も権威ある医学者の一人は,ロンドンの空気は夜の10時以降がいちばんよいと私に話してくれた。

 そこで,部屋にはできればいつも外からの空気を入れなさい。窓は開けるためにあり,ドアは,閉めるためにある──これは非常に理解しにくいように思える一つの真実である。ある注意深い看護婦が自分の患者の部屋の換気をするのにドアを開けているのを私は見たことがあるが,そのドアの近くには,2基のガス燈(1基で約11人の男性が消費する空気を使う),調理場,廊下があった。

そこの空気は,ガスや塗料の臭いや悪臭に満ち汚れていて,入れ換えられたこともないし,置き場所の悪い流しから上がる下水の臭いもまじり,それがちょうどそこにある階段を伝い絶えず昇ってきて,患者の部屋に流れ込む。その部屋を換気するためには,部屋の窓さえ開けられていればそれでよかったのだ。どの部屋も屋外から空気を取り入れなければならない──どの通路もそうすべきである。ただし病院には通路は少ないほうがよい。

 もし私たちが屋内の空気を屋外と同じに清浄にしておこうとするならば,煙突が煙を出してはならないのは言うまでもない。煙が出ている煙突のほとんどすべては直すことができる──それは基部からであって,頭部からではない。だいたいの場合,火に空気を補給するための空気の入口を設けるだけでよく,この取入口がないために,火が煙突から空気を取り,煙が出ることになる。

他方,無頓着な看護婦は,火力がおとろえるまで放っておき,それから石炭を山のようにくべる。これは彼女が骨惜しみしているためではなく(なぜならば,病人に不親切な人はまずいないのだから),彼女が自分がしていることについてよく考えないためであることを私たちは心から信じる。

 看護婦の第一の目的は患者が吸う空気を屋外の空気と同じに清浄に保つことでなければならないという原則を定めるにあたっては,部屋のなかで悪臭を出し得るものは,患者は別として,そのすべてが患者が呼吸する空気に蒸気を発散している,ということを忘れてはならない。 したがって部屋には,悪い空気や湿気を放出し得るものは,患者は別として,何も置いてはいけない。部屋の中で乾いていく湿ったタオルそのほかすべてのものから出た湿気は,もちろん患者が呼吸する空気に混じる。

ところがこのもちろん≠フことが,あたかも時代遅れの作り話ででもあるかのように少しも考慮されていないようだ。患者の部屋ではどんなものも乾かしてはならないこと,そして患者の部屋の暖炉ではどんなものも煮炊きしてはならないことを認識して励行している看護婦がなんと少ないことか。とはいえ,その場の状況がこの決まりを守るのを不可能にしている場合も確かに多い。

 看護婦が非常に気が利く人であると,患者が部屋から出なくてもベッドから離れていれば,彼のベッドを空気にさらすために,シーツをはねて上掛けを裾のほうに寄せるだろう。そして濡れたタオルやフランネルは乾かすためにタオル掛けに入念に広げるだろう。ところで,このようにしたベッドの上掛けにしてもタオルにしても,じつは乾かされてもいなければ空気にさらされてもいないのであって,それらは患者が呼吸する空気にその湿気を放出して乾かしていることになるのだ。そしてこの湿気や臭気が,患者が呼吸する空気のなかにあるときとベッドのなかにあるときとではどちらが患者に多く害を及ぼすか,それはあなたがたの判断に任せよう。私には判断できないのだから。

 人は健康なときでさえ,自分たちが暮らしている空間の空気をくり返し呼吸していて無事でいられるわけはない。なぜならばそこの空気は,肺や皮膚から出る健康に害のある物質で満たされているからである。身体から出されるすべてのものが非常に有害で危険である病気の場合は,臭気を追い出すために十分に換気しなければならないだけでなく,患者が排泄するものすべては病人からの発散物よりも有毒なので,すぐ持ち出されなければならない。

 排泄物からの臭気の有害な影響については,それがこれほどいつも無視されていなかったならばここで言及する必要はなかっただろう。家庭看護においては,便器をベッドのまわりの垂れ縁のなかに隠しさえすれば,安全のために必要な予防策を講じたと考えられているようだ。だが,ベッドの下の空気がどんなものか,そしてマットレスの裏が生暖かい蒸気でじっとりしていることをちょっとでも考えたならば,あなたははっとしてぎょっとするだろう。

 蓋のない室内用便器の使用は,病人の間でも健康人の間でもいっさい廃止されるべきである。この絶対的決まりの必要性は,蓋のある便器を持ってきてその蓋の裏側を調べればたやすく確信できよう。便器が空でなければ,蓋の裏側にはいつでも有害な湿気が水滴となって付着しているのがわかるだろう。もし蓋がなければ,その湿気はどこへ行くだろうか?

 病人用の便器に適している材質は,陶器,あるいは木材であればよく磨いてワニスを塗ったものだけである。周囲を閉じたスツール式の,古くさい不快きわまりない便器のあの蓋こそは,まるで疾病を発生させるためにあるようなものだ。蓋には悪い物質が浸み込むので,それを取り除くためにはごしごし洗うよりほかない。陶器の蓋のほうが常により清潔だから私はこのほうを好む。しかし今は新しい様式のものがいろいろある。

 汚水桶は病室に決して持ち込まれてはならない。便器は水洗便所に直接持っていって空にし,そこで洗ってから持ち帰る,というのが当然の原則であり,個人の家ではほかの場所よりも特にこれが重要である。水洗便所には水洗いができるように水道栓をつけておくべきである。しかしたとえ水道栓がなくても,便所に水を運んでそこで便器を洗わなくてはならない。

個人の家の病室で,便器の内容物を足洗い用の金だらいにあけ,便器を洗い流しもせずにベッドの下に戻すところを私は実際見たことがある。そうするのと便器を病室のなかですすぐのとでは,どちらを言語道断と言うべきか私は知らない。非常によい病院では,汚水桶を病室に決して持ち込まないこと,そして便器はしかるべき場所にそのまま持っていき,そこで空にして水で洗うということが今では決まりとなっている。個人の家でもそうあってほしいと私は思う。

 空気を清浄にするために,燻蒸剤,消毒剤=Cその他類似のものに依存する人があってはならない。除去されるべきは不快な物質であってその臭いではない。高名な医師がある日講演でこう切り出した。「諸君,燻蒸剤とはこの上もなく重要なものであります。けだし,これらは不快きわまりない臭いを発しますので,否が応でも諸君に窓を開けさせるからであります」。私は発明されたすべての消毒剤がこのような不快きわまりない臭い≠発して,新鮮な空気を入れさせるものであればよかったと思う。それはそれで有益な発明だろう。
(ナイティンゲール著「看護覚え書き」日本看護協会出版会 p15-28)

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 一八六三年六月の最後の週、ロンドンのすべての日刊新聞は「単なる過度労働からの死」という「センセーショナル」な見出しをつけた一文を掲載した。話題になったのは、非常に声望のある宮廷用婦入服仕立所で仕事をしていて、エリーズという感じのよい名前の婦人に搾取されていたメアリー・アン・ウォークリーという二〇歳の婦入服仕立女工の死亡のことであった。

しばしば語られた古い物語が、いままた新たに発見されたのであって、これらの娘たちは平均して一六時間半、しかし社交季節にはしばしば三〇時間も休みなしに労働し「労働力」が思うように動かなくなると、ときおりシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えて動くようにしておくというのである。ところで、時はまさに社交季節の最中であった。

新たに輸入されたイギリス皇太子妃〔のちのエドヮード七世に一八六三年三月に嫁いだデンマーク王女アレクサンドラ〕の祝賀舞踏会用の貴婦入たちの豪華なドレスをあっと言う間に仕上げるという魔法が必要であった。メアリー・アン・ウォークリーは、他の六〇人の娘たちと一緒に、必要な空気容積のほとんど1/3もない一室で三〇人ずつとなって、二六時間半も休みなく労働し、他方、夜は、一つの寝室をさまざまな板の仕切りで仕切った息詰まる穴の一つのなかで、一つのベッドに二人ずつで寝た。しかもこれは、ロンドンの婦人服仕立屋のなかでは比較的よい方であった。

 メアリー・アン・ウォークリーは金曜日に病気になり、エリーズ夫人のおどろいたことには、そのまえに縫いかけの婦入服の最後の仕上げさえもせずに、日曜日に死んだ。あまりにも遅く死の床に呼ばれた医師キーズ氏は、「検屍官審問陪審=vで、率直に証言した──

「メアリー・アン・ウォークリーは過密な作業室における長時間労働と、狭すぎる換気不良の寝室とのために死んだ」と。これにたいして、「検屍官審問陪審=vは、この医師に礼儀作法について教えをたれるために、〔評決のなかで〕次のように言明した──

「死亡者は脳卒中で死んだのであるが、彼女の死が過密な作業場における過度労働などによって早められたものと懸念される理由がある」と。

 わが「白人奴隷は」と自由貿易主義者諸公コブデンおよびブライトの機関紙『モーニング・スター』は叫んだ、「わが白人奴隷は墓場に入りゆくまで苦役させられ、音もなくなえ果てて死にゆく」と。

〔著者注69〕衛生局≠ノ勤務している医師レサビー氏は、当時次のように言明している──「成人にとっての最小限の空気は、寝室で三〇〇立方フィート、居室で五〇〇立方フィートでなければならない」と。ロンドンのある病院の医長リチャードスン博士は次のように述べている──「あらゆる種類の裁縫女工、すなわち婦人服仕立女工、衣服仕立女工、および普通の針子は、三重の不幸に悩まされている──過度労働、空気欠乏、栄養不足または消化不良に。

概してこの種の労働はどんな事情のもとでも男子よりは女子に適している。しかし、この事業の弊害は、とくに首都では、それが二六人ほどの資本家によって独占され、彼らが資本から生ずる権力手段を使って労働から節約をしぼり取ること」(彼の言う意味は、労働力の浪費によって出費を節約するということ)「である。彼らの権力は、この女工たちの階級全体にわたって感じられている。

ある衣服仕立女工がわずかな数の顧客の人たちでも獲得できれば、彼女は、競争上、自宅で死ぬほど働いて顧客たちを維持せざるをえないのであり、さらにこの同じ過度労働を、自分の助手たちにもどうしてもやらせなければならなくなる。彼女が事業に失敗するか、または独立して身を立てることができなければ、彼女は、労働は少なくなりはしないが支払いは確実となる店にたのみ込む。そういう立場に身をおけば、彼女はまったくの女奴隷になり、社会の波浪によってほんろうされる。

あるときは自宅の小さな一室で飢えに苦しめられるか、またはそれに近い状態にあり、次にはふたたび、一日二四時間のうち一五、一八時間、それどころか一八時間も、ほとんどがまんしきれない空気のなかで、しかも新鮮な空気がないために質のよいものでも消化されえない食物をとりながら仕事をする。肺結核とは、これらの犠牲者を食って生きているものであって、それは〔不良〕空気の病気以外のなにものでもない」(リチャードスン博士「労働と過度労働」。所収、『社会科学評論』、一八六三年七月一八日号)。

(マルクス著「資本論A」新日本新書 p435-437)

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 今度はわれわれの題目のすこぶる興味ある部分へまいりました──すなわちロウソクの燃焼と生きているものの燃焼、つまりわれわれの肉体の内部においておこなわれる燃焼の関係です。われわれの内部においても生きものの燃焼の現象がおこなわれています。これはロウソクの燃焼となんら異るものではありません。

私はこれを諸君にはっきり説明してみようと思います、そうして人間の生命をロウソクに比べるのは決して詩的の意味においてばかりではないということをおわかり願いたいのです。

このために私は或る小さな装着をくふういたしました、今これを組立ててみます。ここにみぞをほった板があります、このみぞの上へ小さな板をかぶせて暗渠ができますがその両端はあなをあけてここへそれぞれガラス管を立てます、そこでこのみぞは自由に空気が通り抜けます。一方のガラス管の中へロウソク──今はロウソクという言葉をかなり大胆に使ってさしつかえありません、すでにその意味を知っているからです。──をともします。すると非常によく燃焼が起ります。炎を継続させるところの空気は他方のガラス管から下へおりて、それから水平なみぞを通り抜け、ロウソクのある管を上昇して行きます。空気がはいって行く方のガラス管の口をふさぎますと、ごらんのとおり燃焼が阻止されます。空気の供給が絶たれるのでロウソクは消えるのです。

以前の実験で燃えているロウソクから出てくる空気をも一つのロウソクの炎にあてるとどんな事が起るかお目にかけました。別のロウソクから出てくる空気を特殊の装置によってこのガラス管の中へ導くならば、それは燃えている火を消すに相違ありません。

私の息もまたロウソクを消してしまいますと述べましたなら諸君は何とおっしゃるでしょうか。ロウソクを吹き消すのではありません。私のはいた息にはロウソクの燃焼をさまたげる性質があるために火が消えるのです。いま私は自分のロをこのガラス管の口に当ててみます、それから炎を吹き消さないように、私の口から出る空気だけしか管の中へ入れないようにいたします。その結果はごらんください。私はロウソクを吹き消したのではありません、私はロからはいた空気だけをみぞの中へ送りました、そうして向側の管の中の火が消えたのは、単に十分な酸素が存在しなかったという理由に基くのです。

どこかにおいて──私の肺です──空気中の酸素が取られてしまって、そのためにロウソクの燃焼を継続させるだけの酸素がもうないのです。私がこちら側からみぞの中へはき出した悪い空気は或る時間たてば向側のロウソクに達することは明らかです、始めのうちはまだ燃えておりますがはき出した空気が達するや否やそのためにロウソクは消えます。

われわれの研究のうち特に重要なこの部分をできるだけくわしく説明するためにもう一つの実験をお目にかけます。ここに空気のはいっているガラス鐘があります、これが新鮮な空気であることはロウソクあるいはガス燈をこの中へ入れると静かに燃えるのでわかります。このガラス鐘を閉じ、木せんを通してさし入れてあるガラス管に口を当てて中の空気が吸いこめるようにします。

ここに見られるようにガラス鐘を水の上に置きますと、息を吸えば中の空気を吸いこむことができ(木せんは気密になっているものとします)、この空気は私の肺に達します、これを再びこのガラス鐘の中へはき出すことができます。私は空気をはじめ吸ってそれからはいたことは、鐘内の水がはじめのぼってそれからくだるのを見ればわかります。さてどういう結果になったかしらべてみましょう。燃えているロウソクをこのはき出した空気の中へ入れます、炎が消えることによってこの空気が何になっているのか知ることができます。ただ一回の呼吸で空気はこのように変質してしまいましたから、もう一度吸うことは無益です。

それゆえ人家が密集しているのは、特に貧困者の町のごときは住居として全く不適当であることがおわかりでしょう、そういうところでは十分な換気法がおこなわれていませんから新鮮な空気が少しも供給されず、したがって一度使った空気をざらに何度も何度も呼吸しているのです。たった一度の呼吸で空気がどんなに悪くなるかということはたった今ごらんのとおりです、ですから新鮮な空気がわれわれの健康にとっていかに大切であるかは容易に想像のできることです。
(ファラデー著「ロウソクの科学」岩波文庫 p107-110)

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◎「病人に自分が吐いた熱く湿っぽい腐敗した空気をくり返し吸わせ,その犠牲によって病棟を暖かく保とうとすることは,回復を遅らせる,あるいは生命を消滅させる確実な方法である。」と。

◎「たった一度の呼吸で空気がどんなに悪くなるかということはたった今ごらんのとおりです、ですから新鮮な空気がわれわれの健康にとっていかに大切であるかは容易に想像のできることです。」

◎学習通信041006 と重ねて学んで下さい。