学習通信041015
◎学習通信041014……つづき
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■集団自殺を考える
挫折があったら休んで
第四十一代日本ウ工ルター級チャンピオン小林秀一さんの話
今回も、孤立した人間が起こした自殺ではないでしょうか。ようやく得た仲間が自殺仲間というのはさみしい限りです。きっとつらいことがあったのでしょう。そして将来に展望が持てなくなり、生きている意味を感じなくなってしまったのでしよう。
彼らには、友達はいなかったのでしょうか。自分とばかり向き合っていたら、悪い方へいってしまうこともあります。普段からいろいろな友達と会っていれば、少なくとも死のうという考えは、起こらないと思います。
私がいまいえることは、どんなにつらいことがあっても死んではいけない、ということです。とにかく生きよう。もちろん生きていてもいいことなんて、たまにしかないかもしれません。
むしろ、つらいことの方が多いでしょう。でも、それが普通なのではないでしょうか。失敗や挫折があったら、しばらく休んでまた頑張ればいいんです。そのとき支えてくれる友達がいたら、きっと立ち直れます。
私自身も、いつ何かあるかわかりません。でも、私には自分を支えてくれる友達がたくさんいます。そして、友達に何かあったときに、自分が支えになってあげられるようにいつも心がけています。
(2004.10.15「しんぶん赤旗」)
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若者仲間の存在
菅浦のような惣村では中世後期、年寄衆・若衆の連署という互いに自立した年齢集団の共同という形で、惣村全体の意思が確認されたことについて藤木久志氏は、未開以来の年齢組体系による自然的秩序そのものというよりは、「むしろ一五世紀以降に惣村や惣町や一揆がその自検断の能力や機能を高めていく過程で生じた(中略)内部矛盾の帰結であり、政治的な表現であった」と述べ、若衆集団の台頭をその要因に上げています(『戦国の作法』)。
またここに登場する若衆は、「元服」から「大人成り」までの青年とした上で、彼らはほとんどが村の「座」に帰属する家格をもった家に生まれ、若衆から中老を経て老者(おとな)への階梯を約束された青年であったにちがいないと述べ、村の年齢組織としての若者仲間の存在を示唆しています。
おそらくそうだっただろうと思われますが、村の政治的意思が優先されている状況では、年齢組織としての若者仲間の姿は後景に退き、確かめることが出来ません。そして年齢組織としての若者仲間が、本格的に姿を現わすのは江戸時代の中・後期で、しかもその姿はかつてのように「村の戦士」としてでもなく、また村の政治的意思を年寄衆とともに担う存在とも異ったものになっています。またその分布も、近畿だけでなく全国的に存在していました。
白土三平が『カムイ伝』で描き、また柳田国男以来日本の民俗学が発掘・調査してきたのも、このような若者たちです。
それでは村の年齢組織としての若者仲間は、どのような意味をもち、また歴史的にどのような役割を果たしたのでしょうか。
若者仲間の意味を考える上で、長年、その調査に携わってきた瀬川清子氏のつぎの一文は、思い起されていいでしょう。「公家武家の成年式は家の行事として披露されたが、村の庶民の場合は、常に仲間入りの形態で行なわれた」(『若者と娘をめぐる民俗』)。若者仲間に加入することが、村人としての成年式であり、同時に一人前の村人足として認められることでもありました。
また若者や娘の宿仲間に入ることを意味し、結婚への第一歩を踏みだすことでもあったのです。その年齢は一五歳が多く、以後、若者仲間の厳しい規則・訓練にもまれながら、一人前の村人として成長していくのです。そして脱退は、結婚を契機にするものと、二五歳や三〇歳前後、さらに四二歳という具体的な年齢を境とするものとがあります。必ずしも未婚者だけでなかった、というのは注意しておいていいでしょう。
また家との関係では、近江菅浦のような宮座のメンバーに属する家の青年だけが仲間入りしたり、家の長男だけが加入資格をもつ形態もありますが、本来的には家格や長男・次男の差別なく、一定年齢で加入するものであっただろうと思われます。
つぎにその役割ですが、柳田国男の言葉を借りればそれは、「村の祭礼でも盆踊りでも休日の遊び方でも、乃至は男女関係其他に就いての道徳上の制裁でも、常に一邑一郷の中堅を以て自身も任じ他も認めて居た」(「青年団の自覚を望む」『定本柳田国男集』二九巻)ということです。また全く観点が違いますが、文政一一年(一八二八)幕府が関東村々に布達した「若者仲間廃絶令」によると、彼らの役割は大きく、@祭礼行事に関すること、A婚姻に関すること、B遊びに関すること、C若者仲間への制裁となっていて(多仁照広『若者仲間の歴史』)、柳田の指摘と重なりを見いだすことが出来ます。
しかし何よりも若者仲間の役割として最初に上げるべきは、共同労働の人足としての役割です。
近世の村には家一戸に一人という人足基準に並んで、一五歳から六〇歳の男子は全員という中世以来の人足賦課の体系があり、瀬川氏は前者を家本位制、後者を年齢という個人に属するものを基準にするから人頭制とよんでいます。道普請、井戸掘り、消火・警防、難船救助、雨乞い・虫送りなどの共同労働は、これらの人足によって行なわれたのですが、人頭制をとる場合その労働は、それぞれの年齢組織によって担われていたことでしょう。
百姓一揆にもこのような村人足の延長としての側面があるのですが、弘化三年(一八四六)の浜松藩一揆を記録した「破地上等■」は、誠に珍しいことに、この一揆には若者、年寄、壮年、少年といった年齢集団に応じた役割分担があったと記しています(『日本庶民生活史料集成』一三)。
それは打ちこわしのシーンで、「早り雄(たけ)ノ若者」が我先にと家の中に駆け込もうとした時、老人がこれを制止して、壮年は屋上や高い処の働き、年寄は畳・建具類にかかれ、少年は手ごろな道具で取りかかれと打ちこわしの采配を揮っているのです。「早り雄ノ若者」には、かつての「村の戦士」としての血が流れているようです。
このような打ちこわしにおける若者の躍動的な姿は、他にも見ることが出来るのですが、その姿に祭礼の神輿や梵天を担いで神殿に押し寄せる若者の姿を重ねて安丸良夫氏は、「豪家などへの打ちこわしには祭りのみこしなどと共通する、集団の威力によるこらしめという意味がこめられていた」と指摘しています(『日本ナショナリズムの前夜』)。
(藪田貫著「中男から若衆」講座「青年」第一巻 青年の発見 清風堂書店 p70-74)
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◎「若者仲間に加入することが、村人としての成年式であり、同時に一人前の村人足として認められる」……関係をもつこと、社会性を身につけることが大人になる契機としてあった。
労働学校での仲間づくりの活動の大切さを痛感します。