学習通信041017
◎「これにかけてはなんといってもあの人」と仲間から目される……。
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イケイケ野球は一過性のものでしかないことを証明してみせなくてはなりません。はずみと調子だけの野球は草野球の発想レベルであり、真のプロ野球のレベルははるかに深みがあり、それが野球のほんとうの面白さ、楽しさであることを示さなくてはなりません。
横浜ベイスターズの戦力は充実しています。ピッチング・スタッフも打線も人材が揃っています。だが、いかに技術的能力が高い人材を揃えても、底の浅い野球をやっていてはだめになることを明らかにしなくてはなりません。
それを証明するために、阪神タイガース監督のポストは、私にその機会を与えてくれたのです。
確かに、やるのは選手、やらせるのは監督という関係があるのは事実です。そして、野球のような団体競技では、やらせる側がより重要である、と私は考えているのです。
いま監督業にある人も選手時代は上からの命令、指示で動いていたはずなのに、立場が変わって監督になると、「監督って暇だねえ」とか、「やるのは選手だから……」といった発言が飛び出す始末です。
監督業は「見つける」「育てる」「活かす」ことが根底にありますから、仕事は無数にあります。そのために、コーチ陣という、監督の手足となるスタッフが必要になるのです。そして、何よりも大切なことは、プロ野球の将来、選手の未来に監督は大きく関わっているという認識です。
さらに付言しますと、いまは楽しければいい、わかりやすければいい、面白ければいい、という時代です。「明るい」とか「暗い」とか、そういう言葉だけが問題になる時代です。こういうことで若者たちが進んでいったとき、将来の日本はどうなるんだという思いが、私にはあるんです。
われわれは親戚や隣近所のおじさん、おばさんに小さい時分から、「男の子は立派な人間になれや」とか「偉い人になるんやで」といわれて育ってきました。しかし、いまは「明るい」とか「楽しい」とか、そういうのがもてはやされる。
そういう生き方をして、十年後、二十年後になって、何か残るのか、ということです。虚しさしか残らないでしょう。
プロの原点とは何か。私は羞恥心だと思います。そんなレベルでプロとして恥ずかしくないか、人間として恥ずかしくないか、という思い。そういう自覚を養成し、人間形成をしていくのも、監督の務めと思っています。
(野村・米長著「一流になる人 二流でおわる人」報知出版 p40-42)
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プロとアマ
人間の先祖は……
人間の先祖となった生物には、一貫してアマチュアリズム(アマチュア主義・アマチュア精神)の血が流れていたのではないか、と私は思う。
遠い遠い大昔、私たちの先祖が原始的な魚に進化したころから、すでにそうだったらしい。
仲間の魚たちは魚としてのプロヘの道にすすみ、サメやチョウザメ、サケ、コイ、タイなどになっていった。それは魚としての進化の極致を示すものだが、同時にそれは進化の袋小路でもあった。私たちの先祖が魚のプロの道にすすまず、原始的な魚のアマチュアリズムをつらぬいたということは、こうした進化の袋小路に入りこむことなく、質的にいっそう高度で複雑な生命形態への進化の大道に立ちえたということを意味した。
というわけで、私たちの先祖はそのつぎに、空気呼吸のできる魚となったが、ここでも「空気呼吸のできる魚」としてのプロになるという誘惑におぼれることなく、アマチュアリズムをつらぬくことによって、さらに両生類への変身を実現した。
ここでもまた私たちの先祖は、いちはやくカエルやイモリのような両生類としてのプロヘの道をあゆんだ仲間たちとわかれて、頑固にそのアマチュアリズムをつらぬいたらしい。
こうしてハチュウ類の登場となったわけだが、プロフェッショナリズムとアマチュアリズムとの分岐はここでも生じた。プロの道をすすんだもののなかからは、あの大恐竜類なんかも出て、わがもの顔に地上をのし歩いた。
が、私たちの先祖は、ハチュウ類の原型の素朴なアマチュアリズムを堅持することにより、大恐竜類の全盛期(じつはその急速度な没落にむかおうとする時期)のさなかに、ひっそりと哺乳類の原型への変身をとげたのだった。
それからあとのみちのりについても、同様のことがいえるだろう。一貫してアマチュアリズムをつらぬいたからこそ、私たちの先祖はゾウやラクダやクジラなどへの道にすすまず、またニホンザルやテナガザルになることもなく、ほかでもない人間になってきたのだと思う。
シロウト万歳
牛飼いが歌よむときに世の中の新しき歌おおいにおこる
私はこの伊藤左千夫の歌が大好きだ。「牛飼い」とは、搾乳を業とした左千夫自身のことをいっているのだが、同時にそれはアマチュアの代名詞でもあるだろう。
私はこの左千夫の主張を真理だと思う。そして、私も一人の「歌よむ牛飼い」でありつづけたいと思う。
夏目漱石が「シロウトとクロウト」という随筆のなかで、創造的な仕事はシロウトによってのみなしとげられる、ということを強調していた。
「あるものを観察する場合に、まず第一にわが眼に入るのは、そのりんかくである。つぎにはその局部である。つぎには局部のまた局部である。観察や研究の時間がながければながいほど、だんだん細かいところが目に入ってくる。ますます小さい点に気がついていく」と漱石は書いている。
これが認識のすすむ一般的なみちのりであって「いわゆるクロウトというものは、この道をシロウトより先へとおりこしたもの」である。そこに「かれらの自負」もあるらしいのだが、それだけでは「たんに大から小に移りつつ進んだ」だけであって、「浅いところから深いところに達しつつあるのでもなければ、上部から内部に(立体的に)突き込んでいきつつあるのでもない」
そこのところをカン違いしてはならない、と漱石はいうのだ。ところがそこをカン違いして「ただ細かく細かくと切り込んでいく。それで自分はりっぱに進歩したものと考える」とすれば、じつは「これは進歩でなくって堕落である」──
漱石のこれらのことばはまるで、極度に細分化し専門化した今日の学問のあり方にむかって発せられたものであるかのようだ。そうした状況のなかでいまなによりも大量に必要な専門家、それは「シロウトであることの専門家」ではあるまいか。
もちろん、シロウトであることがすばらしいのは、それが、ものごとの全体的なりんかくを「ひと目に握る力」をもっているからだ。だから「局部もりんかくもメチャメチャでわからない」ような「つまらないシロウト」の場合は、この限りではない。同様に、「局部に明らかなと同時にりんかくも順に入れているはず」の「えらいクロウト」の場合も、その限りではない。そう漱石もことわっているということは、やはりことわっておかなくてはならないと思う。
大いなるかな孔子
「達巷党の人いわく、大いなるかな孔子。博く学びて名を成す所なし」(『論語』)
「達巷は党の名。五百戸で一党を成す」と古注にある。達巷という村の人が孔子をほめて「博く学びて名を成す所なし」といったというのだ。
「なんでも知ってて、なに屋でもない」と魚返善雄氏はこれを訳していた(学生社新書『「論語」新訳』)。
わが意を得たりと私は思い、これが自覚的な牛飼いのめざすべきところ、とひそかに考えていた。
ところで『論語』のあのくだりには、まだ先があって、それを聞いた孔子が弟子たちにむかって「私はなにを専門にしようか。御者がいいかな、それとも弓矢かな。御者をやることにしようかな」といった、とある。
ふつうこれは、孔子が謙遜していったことばと解されている。たとえば朱子の注には、「御者や弓も六芸の一つであるが、御者は人につかえるもので、専門としてはもっともいやしい。専門といえばその御者くらいのものかというのは、達巷の人のほめことばにたいする謙遜のことばである」とある。
なんだかヘンだな、と私は思う。これだとどうも私には謙遜をよそおったやにさがりのことばのようにきこえる。
貝塚茂樹氏の訳注(申央公論社「世界の名著」3)をしらべてみた。すると、これはよい理解者をえて嬉しさのあまり発した軽口、ユーモアだ、と説明されていた。
なるほど、軽口、ユーモアか。それにしては下手な、下心の見えすくようなことをいったもんだと、やはり私は思った。
これらにくらべると、伊藤仁斎の『論語古義』での解釈のほうが、まだすじがとおっているように私としては思う。
「最低とされる御を専門にしようというのは反語であって、道は一つの専門にわかれておこなうべきものではないことを表わしたのである」というのだ(中央公論社「日本の名著」13)。
これだったら、私は孔子に反感を感じなくともすむのだが。もっとも、あまりにムキになりすぎてるみたいで、そのために「大いなるかな」という感じはだいぶん薄らいでくるけれど。
孔子の「自己批判」
が、その後私は、合山究氏の『論語発掘』(明治書院)に接して、問題のくだりのまったくちがった新しい理解に目をひらかれた。そして、そこにこそ、より深い真理があると感じた。
すなわち、合山氏によれば、達巷党の人のほめことばを、孔子は自分への批判としてうけとったのだという。幅ひろい教養を身につけているというだけで、これにかけてはあの人はプロ、という周囲の評価がないということは、弱点のあらわれなのだ、というふうに。
そこで、孔子が弟子たちにむかっていったということばは、つぎのように通訳される──。
「いや、私もなにか一つの事にうちこまねばなるまい。御にしようか、射にしようか。御にでもしようか。博いだけでは十分でないからな」
そうだ。自覚的な牛飼いたちもそのようであるべきだ。
アマチュアリズムをつらぬくということは、自分の無知にアゲラをかくことでないのはもちろん、たんなる「なんでも屋」にあまんじるということでもない。
「万能選手」は下手をすると「無能選手」になりかねない。万能選手であることにアグラをかくならば、時とともに必然的にそうなる。
だから、私たちは「これにかけてはなんといってもあの人」と仲間から目されるような、そんな「専門」をやはりもつことが必要なのだと思う。それが機関紙の編集であれ、ガリ切りであれ、その他なんであれ、そういうものをもつことが。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p112-118)
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われわれが自然あるいは人間の歴史あるいはわれわれの精神活動を考察すると、まずわれわれの前にあらわれるのは、連関と相互作用が無限にからみ合った姿であり、この無限のからみ合いのなかでは、どんなものも、もとのままのもの、もとのままのところ、もとのままの状態にとどまっているものはなく、すべてのものは運動し、変化し、生成し、消滅している。
したがってわれわれはまず全体の姿を見るのであって、そのなかでは個々の事物は多かれ少なかれ後方にしりぞいている。われわれは、運動し、移行し、連関しているものよりも、運動、移行、連関により多く注意をむける。この原始的な、素朴な、しかし事柄の本質上正しい世界観……
(エンゲルス著「空想から科学へ」新日本出版社p48)
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◎「われわれはまず全体の姿を見るのであって、そのなかでは個々の事物は多かれ少なかれ後方にしりぞいている。われわれは、運動し、移行し、連関しているものよりも、運動、移行、連関により多く注意をむける。この原始的な、素朴な、しかし事柄の本質上正しい世界観」と。もの≠謔閧熈こと≠ノ……。