学習通信041018
◎「鶏の「イデア」をもつこともできない」……。
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ソフィーは手紙を封筒に入れる前に、三回、読みなおした。少なくともこないだの手紙よりはかたくるしくなかった。こっそり角砂糖を取りにキッチンに行く前に、あらためて課題の紙を手に取った。
最初はなんだっけ──「鶏と『鶏』というイデアと、どっちが先か?」この問いは、鶏と卵とどっちが先か、というあのおなじみの問いと同じくらいむずかしい。卵がなければ鶏はいない。でも鶏がいなければ、やっぱり卵はない。あれ、でもこの鶏と鶏の「イデア」とどっちが先かっていう問いは、そんなにむずかしいのかな? プラトンが言ったことははっきりしている。プラトンはこう言った。
感覚世界に鶏が存在するずっと前から、「鶏」のイデアはイデア界にあったのだって。プラトンによるなら、魂は体に降りてくる前に、イデアの「鶏」を見たことがあるってことになる。けれども、わたしはここのところで、プラトンはまちがっていたかもしれないって考えたのではなかった? 生きた鶏や鶏の絵を見たことがない人は、鶏の「イデア」をもつこともできない、とね。そう考えて、ソフィーはつぎの問いに進んだ。
「人間は生まれながらにイデアをもっているか?」これは大いにあやしい、とソフィーは考えた。生まれたばかりの赤ちゃんがとりわけどっさりイデアをもっているなんて、想像できない。もちろん、子どもはことばを知らないということが、子どもの頭のなかにイデアがないということだとは言いきれない。でも、わたしたちはこの世界のものについて何かを知る前に、まずはそれを見なければならないんじゃない?
「植物と動物と人間の違いは?」とっさにソフィーは、この違いはわりとはっきりとしている、と考えた。たとえば、植物が特別こみいった心の生活をしているなんて、考えられない。恋に悩むつりがね草の花なんて、聞いたことある? 植物はぐんぐん伸びる。養分を吸いあげて、小さな種をつくって殖える。植物のあり方なんて、これでほとんど言ってしまったようなものだ。
けれどもソフィーは、今植物について言ったことは、なにからなにまで動物と人間にもあてはまる、と思った。でも、動物にはそのほかの特徴もある。たとえば動物は自分で動ける。(薔薇の花が六〇メートル走にエントリーしたことある?)でも、動物と人間の違いを言うのはちょっとむずかしい。人間は考えることができる。でも、動物だってできるんじゃないの? うちの猫のシェレカンを見ていると、そう思いたくなる。シェレカンのふるまいはいつだってみごとに決まっている。
でも、哲学について考えることはできるのかな? 猫は、植物と動物と人間の違いを考えることができるのかな? ううん、ぜんぜんよ! たしかに猫は、よろこんだり悲しんだりはできる。でも、神はいるかとか、自分は不死の魂をもっているかとか、考えることができるだろうか? それは、とてもじゃないけどあやしいものだわ。けれどももちろん、赤ちゃんが生まれつきイデアをもっているかについてだって、これと同じことが言える。イデアについて話をするのは、猫にとっても、生まれたばかりの赤ちゃんにとってもむずかしい。
「なぜ雨は降るのか?」ソフィーは肩をすくめた。雨が降るのは、海の水が蒸発して、雲が濃くなって雨になるからに決まっている。とっくに小学校で習わなかった? もちろん、雨は動物や植物が育つために降るという言い方もできる。でも、これってあってる? だとしたら、雨は意志をもっているわけ?
最後の問いは意志と関係がありそうだ。「いい人生を生きるために必要なものは何?」哲学の先生は、この講座の初めのほうでこんなことを書いていた。すべての人間には食べ物と暖かさと愛と気配りが必要なんだって。それから、こんなことも言っていた。すべての人間はこのほかにも哲学の問いの答えを必要としているって。自分に向いた仕事をもつというのも、けっこう大切だ。もしもたとえば車が嫌いな人は、タクシーの運転手になったらちっとも幸せではない。それから、宿題の嫌いな人が先生になるというのは、かしこい仕事の選び方ではない。ソフィーは生き物が好きだった。
(ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」NHK出版 p136-137)
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プラトン哲学のなかで重要な位置をしめているのが「イデア論」といわれるものです。イデアとは、もともと、見られたものの姿、かたちのことですが、プラトンでは、事物の本質、原理であり、模範・基準であり、のちに理念とか観念とか理想とかの意味で使われるようになりました。彼はとくに、「美のイデア」「善のイデア」について論じました。
プラトンのいう「美のイデア」とはなんでしょうか。彼がいうには、世の中には美しいものがたくさんある。花が美しい、あの景色が美しい、あの絵が美しい、などいろいろある。そのようなさまざまなものが、同じ
「美しい」ということばでとらえられるのはなぜか。それは、美の基準となるもの、「美そのもの」といえるようなものがあるからだと彼は考えました。それを、「美のイデア」と名づけました。
あるいは、私たちが、正三角形とか直角三角形とかを描こうとします。定規やコンパスを使って努力しても、いくらかの誤差がでます。現実のものは、厳密には正三角形でも直角三角形でもありません。しかし、私たちはその図をもとにして幾何学の原理を組み立てることができます。それは、現実のものの、いわば背後にあるイデアとしての三角形についての理論だからだというのです。
●「普遍的なもの」を認める重要性
プラトンはこのように考えました。つまり彼は、一つひとつの具体的・個別的なものを認めるだけでなく、それらに共通する「普遍的なもの」を認めることの重要性を意識していたのです。この共通のものこそ、「美」の基準であり、「善」の基準であり、「正義」の基準であるというのです。彼はこのようにして、ものごとの普遍的な基準があると主張して、先に述べたソフィストたちの理論的混乱を克服しようとしたのでした。
これはとても重要なことであり、哲学の発展にたいする一面での貢献でした。しかしプラトンは、観念論をおしすすめるかたちでこれをやりました。彼は、当時の唯物論を明らかに意識しており、新しい観念論を生み出して唯物論に対抗しようとしていたといえます。
まず彼の貢献の面から見ておきましょう。彼の主張したように、直接に感覚できる具体的・個別的なものだけでなく、直接には感覚できない普遍的なもの(たとえば、力とか法則とか本質とか実体など)を認識するということは、哲学にとって重要であるだけでなく、すべての科学にとって重要なことです。いわば科学的精神の中心に位置するものです。
人間の思考力には、このように直接には感覚できないものでも、思考力で分析してとりだすことのできる能力があるということであり、これは哲学だけでなく、自然科学にとっても、社会科学にとっても、その基礎をなすものです。物理学における万有引力の法則とか、経済学における価値法則とかいったものは、その種のものです。
●しかしプラトンは観念論へ!
ところがプラトンは、このように重要なことを解明しましたが、きわめてまちがった観念論的方向へすすみました。すなわち、右の普遍的なもの(イデア)を、具体的な個々の事物とまったく切り離して、観念論的に、いわば超越的に考えました。個々の個物は仮の姿であるとか、イデアこそ真の実在だとか主張しました。そこに問題が生じました。このプラトンの道は観念論の道であり、こうして新しい哲学的観念論が生まれました。
●イデアは個別的なもののなかにある──アリストテレスの批判
このようなプラトンのイデア論を批判して、唯物論的なかたちで異論をとなえたのがアリストテレスでした。彼は、プラトンの考え方にたいして、イデア(普遍)は個物と離れて超越的にあるものではなく、個別的なもののなかにある(内在)と考えました。個別的で具体的なものこそ実在で、それら個別的なもののなかの共通の要素を取り出したものがイデアだと考えました。個々の美しいものが実在し、それらのものの共通の要素を取り出して、人は「美のイデア」と呼んでいるのだというわけです。
アリストテレスのこの考え方は、個別的で具体的なもの、したがって感覚でとらえることのできるものを真の実在と考え、イデアは人間の思考の産物だと考える点において、唯物論的な考え方であり、プラトンの観念論とは明らかに異なるものでした。
古代ギリシャのプラトン的なイデアの考え方が、その後のヨーロッパ観念論の原型となりましたが、アリストテレスのこれにたいする批判は、その後の唯物論的な考え方、そして科学の考え方のもととなりました。
(鰺坂真著「科学的社会主義の世界観」新日本出版社 p51-54)
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◎「直接に感覚できる具体的・個別的なものだけでなく、直接には感覚できない普遍的なもの(たとえば、力とか法則とか本質とか実体など)を認識するということは、……いわば科学的精神の中心に位置するもの」と。