学習通信041020
◎「脳は肝臓が胆汁を分泌するのと同じように思想を分泌する」……。
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現代の多くの自然科学者に見られる概念の硬直状態、かれらの形而上学的な(この言葉のマルクス主義で言う意味での、すなわち反弁証法的な)見解については、エンゲルスがたびたび非常にはっきりと語っている。マッハがまさにこの点で、相対主義と弁証法とのあいだの相互の関係を理解しないか、あるいは知らないかしたために、正道をふみはずしているのを、われわれはあとで見るであろう。
しかし、いまはこのことが問題なのではない。ここでわれわれに大事なことは、混乱した、だが新しく見せかけた用語を使ってはいるが、マッハの観念論がどれほど明瞭にあらわれているかを指摘することである。いやはや、どんな物理的要素をも、感覚から、すなわち心理的要素から組み立てるには、なんの困難もないと言っているのである!まったくだ、このような組み立てはもちろん困難ではない。
なぜなら、それは純然たる言葉のうえでの組み立てであり、信仰主義を引きいれるのに役だつ空虚なスコラ学だからである。そうだとすれば、マッハが自分の著作を内在論哲学者にささげ、内在論哲学者、すなわちもっとも反動的な哲学的観念論の支持者たちがマッハの首にだきつくのは、ふしぎなことではない。
エルンスト・マッハの「最新の実証主義」は二〇〇年ばかりおくれてあらわれたというだけのことである。すなわちバークリがすでに十分に、こう説いていたのだ、「感覚、すなわち心理的要素から」は唯我論のほかにはなにも「組み立てる」ことはできないと。
唯物論について言えば──ここでもマッハは、その「敵」を率直、明瞭にあげないで、自分の見解をそれに対置しているが──、われわれはすでに、デイドロの例で、唯物論者のほんとうの見解を見た。
この見解は、感覚を物質の運動からとりだしてきたり、あるいは物質の運動に還元させたりすることにあるのではなく、感覚が運動する物質の性質の一つと認められることにある。エンゲルスは、この問題では、デイドロの観点にたっていた。
「俗流」唯物論者のフォークト、ビュヒナー、モレスコットからは、エンゲルスは一線を画したが、それは、とりわけかれらが、脳は肝臓が胆汁を分泌するのと同じように思想を分泌するという見解に迷いこんだからにほかならない。ところが、たえず自分の見解を唯物論に対置しているマッハは、官許哲学のその他のすべての官許教授と同じように、まったく、偉大なすべての唯物論者を、デイドロをも、フォイエルバッハをも、マルクス、エンゲルスをも無視しているのである。
アヴェナリウスの初期の基本的な見解を特徴づけるためには、一八七六年に出たかれの最初の独立した哲学書『最小力量の原理による世界の思考としての哲学』(『純粋経験批判への序説』)をとろう。ボグダーノフはその著『経験一元論』(第一巻、第二版、一九〇五年、九ぺ一ジの注)で言っている、「マッハの見解の発展では、哲学的観念論がその出発点をなしていたが、アヴェナリウスにとってはそもそもの初めから、実在論的色彩が特徴的である」。
ボグダーノフがこう言ったのは、マッハの言葉を信じたからである。ロシア語訳の『感覚の分析』ニ八八ページを見られよ。しかし、ボグダーノフがマッハを信じたのは根拠がなく、かれの主張は真理に真正面から対立するものである。反対に、アヴェナリウスの観念論は前記の一八七六年の著書に非常にはっきりとあらわれているので、アヴェナリウス自身、一八九一年に、このことを承認しなければならなかったほどである。
『人間的世界概念』の序言でアヴェナリウスは言っている、「私の最初の体系的な著作『最小力量の原理による世界の思考としての哲学』の読者は、私が『純粋経験の批判』という課題の取り扱いを、まずもって『観念論的』立場からこころみたことを、すぐに察知されるであろう」(『人間的世界概念』、一八九一年、序言、\ページ)。しかし「哲学的観念論の実りのなさ」が、私を「従来の私のたどった道の正しさにかんする疑惑」にみちびいた(同、Xページ)。
哲学文献では、アヴェナリウスのこの観念論的出発点は一般に認められている。私はフランスの〔実際には、ベルギー〕著作家のうちコーヴェラルトを引用しよう。かれは、アヴェナリウスの『序説』の哲学的観点は「一元論的観念論」であると言っている。ドイツの著作家のうちからは、私はアヴェナリウスの弟子のルドルフ・ウィリーの名をあげよう。かれは言っている、「アヴェナリウスは若いころには──とくにかれの一八七六年の著作では──いわゆる認識論的観念論にまったくとらわれていた」。
アヴェナリウスの『序説』に見られる観念論を否定するのは、まったく笑うべきことだろう。かれは、そこで、「感覚だけが、存在するものと考えることができる」と、はっきり言っているのである。アヴェナリウス自身、自分の著作の第一一六節の内容を、そのように叙述している。その全体はこうである、「存在するものは、感覚をそなえた実体として認められてきた。実体はぬけ落ち……」(見たまえ、「実体」は存在せず、いかなる外界も存在しないと考えるのは、「より経済的」であり、「よりすくない力量」ですむ、というわけである!)
「……感覚は残る。こういうわけで、存在するものは感覚として考えるべきであって、感覚の基礎には、もはや、感覚をもたないなにものかは存在しないのである」。
こういうわけで、感覚は「実体」なしに存在する、すなわち思想は脳なしに存在するのだ! この脳のない哲学を擁護することのできる哲学者が、はたして、いると言えるだろうか? いるのだ。そのなかに教授リヒァルト・アヴェナリウスもはいっている。こうした擁護をまじめに受けとることが、健全な人間にはどんなに困難であるにしても、しばらくそれに立ちとどまらなければならない。ここに、同じ著作の第八九〜九〇節におけるアヴェナリウスの考察がある。それは、つぎのようである、──
「……そこで、運動が感覚をよびおこすという命題も、たんに見かけ上の経験にもとづいている。作用としての知覚をふくむこの経験は、ある種の実体(脳)のなかに伝達された運動(刺激)によって、さらに他の物質的諸条件(たとえば血液)の助けを得て、感覚が生みだされるとするところに成り立つものであろう。
しかしながら──このような産出がけっして直接的には経験されなかったということを度外視しても──この想定された経験を、その部分のことごとくが現実に存在している経験として構成するためには、すくなくともつぎのような経験による証明が要求されるであろう、すなわち、伝達された運動によって一実体のなかに生みだされるはずの感覚は、どのような仕方においてもこの実体のなかにまえもって存在していなかった、したがって、それが出現するのは、そこに入りこんできた運動の側からの創造活動によってであるとする以外には理解されない、という証明である。
そこで、いまあらわれているような感覚は、たとえ極微のものであっても、かつてけっして存在していなかったという証明によってはじめて、一つの事実が、すなわちそれが一つの創造活動を意味するかぎり、その他のすべての経験に矛盾し、その他のすべての自然観を根本的に変えてしまうような一つの事実が、確立されることになるであろう。
だが、そういう証明はどんな経験によってもあたえられていないし、またどんな経験によってもあたえることができないものであって、むしろ、絶対的に感覚を欠いている実体なるものの状態があり、あとになってからその実体が感覚するようになるというのは、仮説的なものにすぎないのである。そしてこの仮説は、われわれの理解を単純なものにし明瞭なものにする代わりに、それを複雑なものにし、曇ったものにするのである。
こうして、伝達された運動によって感覚しはじめる実体のうちに感覚が生ずるといういわゆる経験なるものは、よく調べれば、たんに見かけのうえのものだということがわかるにしても、なおそこには、その他の経験内容のうちに、感覚を定義するのにすくなくとも相対的には運動から生ずるということを確かめるにたりる経験材料があるかも知れない。
すなわち現存はしているが潜在的であるとか、極微であるとか、あるいはなんらかの理由で意識にはっきり出ていないような感覚が、これに加えられる運動によって解放されたり高められたり、意識されたりするようになるといった場合である。
しかし、こうしたその他の経験内容の切れはしも、たんなる見かけ上のものにすぎない。かりにわれわれが理想的な観察をするとして、運動する実体Aから発し、中間に存する一系列の媒体をへて伝えられる運動があって、これが感覚をさずけられた実体Bに達するまでを追跡していっても、われわれはたかだか、つぎのようなこと──伝えられてきた運動をうけとると同時に、実体Bに感覚が展開されるとか、高められるとかするということを、見いだすだけである。だが、それが運動の結果として生じさせられたということを見いだしはしない……」。
われわれが、わざわざアヴェナリウスのこの唯物論反駁を全部書きぬいたのは、「最新の」経験批判論なる哲学が、実際にはどんなにあわれな脆弁をつかっているかを、読者に見てとることができるようにするためである。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p51-56)
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観念論のおとし穴
各地の労働学校などで講義していて、次のような質問をうけることがあります。
「唯物論は科学的なものの見方と一致する立場だということがわかった。当然正しいと思う。むしろ、観念論がなくならないのが不思議だ」「唯物論は現代では常識だと思う。あまりやかましくいわなくても大丈夫だ。われわれは観念論者になりっこない」「観念論の本を読むひまなどない。だから観念論の影響はうけない」といったような意見です。
このような質問や意見はいちおうもっともなのですが、一言ふれておきたい点があります。それは観念論は軽視できないし、私たちも自分ではそうでないつもりでも、観念論的な考え方におちいる可能性はつねにあるという点です。
たしかに観念論哲学の体系的知識は観念論哲学の本を読んだり講義を聞いたりしないと頭のなかに入ってこないでしょう。しかし観念論的な考え方や感じ方に、知らずしらずに私たちが傾いてしまっているということは、しばしばあるし、むしろ私たちが観念論のおとし穴にはまる可能性はつねにあると考えておいた方がよいと思います。
たとえば労働組合の活動などのなかで、執行部に選ばれたとします。執行部は一所懸命に方針をつくり、活動もしているのに、組合員のみんなが、なかなか思うように動いてくれないといった事態はしばしばありがちのことです。執行部は当然悩みます。
そのときに、もし執行部が「うちの組合員は意識が低い」とか、「正しい方針なのに協力しないのは、けしからん」とか考えたとしたら、この執行委員は観念論的になっている可能性がありそうです。労働者なら当然こうあるべきだとか、いまの情勢なら当然こうなるはずだとか、執行部が勝手に頭のなかで考えていないでしょうか。「べきだ」とか「はずだ」という考えはどうも危いのです。
そうではなくて、執行部はその方針が本当に組合員の要求を正しくとらえているか、組合員の要求や職場の状況・力関係など正確につかんでいたか再検討をすべきでしょう。具体的な職場の状況や労働者の具体的要求にもとづいて方針を立てて活動する、これこそ唯物論的で科学的な考え方ですね。「はずだ」「べきだ」というのは観念論的な考え方というべきでしょう。
また労働運動は一つの単組のなかの状況だけできまるのでなく、全国的情勢や課題もあるわけですから、「うちの組合は無理だ」と執行部が頭のなかで勝手にきめて、全国的課題を提起しないのも、やはり現実無視の観念論的傾向の考え方になっている可能性があります(単組の状況が本当に無理な場合ももちろんあるでしょうが)。
このような可能性はつねにあります。私たちが無理をしたり、あせったり、逆に落ちこんだりして、事態を全体的に把握できず、一面的な見方におちいった場合に、私たちは観念論のおとし穴の縁に立っているといえるでしょう。十分気をつけることにしましょう。
そのほかにも、観念論的な考え方や感じ方は私たちの周りに充満しています。理論の形をとらないで、小説や随筆やテレビドラマや歌謡曲や漫画などありとあらゆるマスメディアのなかに観念論はあふれています。正確に現実をとらえた優れた作品ももちろんありますが、一面的であったり、物事を表面的にしかとらえていなくて、現状肯定的であったり、「どうせ私の人生はこの程度」といったような厭世的な悲観主義の作品が多いですね。
しかもそのかなりの部分が資本家など支配層によって意図的につくり出されていると思われる点にも気をつけたいものです。ラジオ・テレビ・新聞・週刊誌・月刊誌など大部分のものが資本主義的なもうけのために運営・発売されており、したがって大企業・大資本の支配を受けていることは否定できませんから(もちろんよいものをつくるためマスコミ労働者が多数頑張っている面も忘れてはならない点で、彼らには大いにがんばってもらうよう激励したいですね。電話や投書の効果も無視できないようです)。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p86-89)
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◎「事態を全体的に把握できず、一面的な見方におちいった場合に、私たちは観念論のおとし穴の縁に立っているといえる」と。