学習通信041022
◎「目的をもって淘汰が働いたかのように見えます」が……。

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 現在のサイエンティストたちは、植物や動物の進化について、「突然変異によって発生する個体のなかで、環境にもっとも適応したものが生き残っていく」というダーウィンの進化論が正しいと考えています。私は専門家ではありませんが、この考え方に異論を唱えたいと思います。

 先日、京都大学の原子物理学や宇宙物理学の先生方とお話ししていたところ、彼らもやはりダーウィンの進化論を主張しました。そのとき私は、昆虫の擬態を例に取って意見を申しあげました。

 「昆虫のなかに枯れ葉や枝そっくりに見える姿をしたものがある。突然変異でいろいろなものが生まれ、そのなかで環境に適応した種が生き残ったというが、何も枯れ葉に似なくてもいいはずだし、またそうだとしても、あれほど枯れ葉そつくりの姿になるものだろうか」

 すると、先生方は、「想像を絶する長い時間と広い空間のなかでは起こりうるのだ」と確率論で結論を出そうとします。これに対して、私は再び反論しました。

 「生命の危機にさらされているなかで、なんとか天敵から逃れたい、身を守りたいと昆虫は強く思ったのではないか。そして、その方法として枯れ葉のようになって助かりたいと願い、その意識がDNAの変異を起こさせたのではないか」

 科学の進歩にしても、先ほども述べたように、先駆者の「こうしたい、ああしたい」という意識が働いた結果、実現したのです。このように、科学も意識の産物なら、生物の進化も意識の産物ではないかと思うのです。

 DNAは利己的──つまり、自分の種を残したいという一心で生きている──と語る分子生物学者がいます。しかし、何かの衝撃によって突然遺伝子の組み替えが起こるという偶然性だけで進化を物語っていいものかどうか。DNAの配列が何か偶然に少し変わったためにガンになるケースがあるといわれますが、意識によってDNAの配列が変わってしまい、それによって発ガンすることだってありうるわけです。

 私は、DNAは外部の要因だけで突然変異するのではなく、意識体、意識というものも内側から影響を及ぼしているのだと思います。
 たとえば、象の鼻が長いのは「たまたま長くなった鼻をもった象が環境に適応して生き残った」とするのが進化論の考え方です。では、その地域に住む動物がみんな鼻が長いかといえば、象だけが長いのです。

 しかも、象が鼻で草をつかんで口に運んでいるのを見ていると、不自由そうに見えます。どうも環境に適応したとはいいがたい動きで、鼻が長くなる必要があまり感じられません。やはり私は、象は鼻が長くなりたいと思ったのではないかと考えたくなります。

 キリンにしてもそうでしょう。高いところにあるエサを食べるのに長い首が適したというのであれば、その地域の動物がすべてキリンのように首が長くなってもいいはずです。しかし、アフリカのサバンナで首が長い動物はキリンだけです。

 人間の世界でも、われわれは「こうしたい」「ああしたい」と意識しているから「向上」という変化が生まれます。また、「職業顔」というものもあります。刑事は刑事の目つきになり、泥棒は泥棒のような目つきになる。職業意識が風貌を変えているのです。それどころか、私が子供のころには、「顔に心が出る」といって、心をきれいにしないと顔つきまでおかしくなると注意されていました。

 その心というものを私は意識体と表現したわけですが、意識というものでDNAまで変わるというのが私の考え方です。
 それには、短時間にDNAを変えていく場合も、長時間かかって変えていく場合もあるでしょう。昆虫の擬態や象の長い鼻、キリンの長い首は、かなりの時間をかけて、意識が姿を変えさせたのではないでしょうか。

 この考え方は進化論に真っ向から挑戦するものであり、「非科学的」という烙印(らくいん)を押されるかもしれません。しかし私は、必ずしも進化論が正しいとはいえないだろうし、さらに現在の科学であらゆることが説明できるとも考えていません。

 また、現代社会では、物事を科学的に解釈することばかりに重きを置き、「よき人間、よき世の中をつくっていくためには、どういう考え方をし、いかなる哲学を樹立したらよいか」というところが忘れられているのではないかと思います。

 科学的かどうかという枠組みを第一義にするのではなく、「どういう考え方が人間にとって、あるいは宇宙にとつて必要か」という視点で考えるべきではないでしょうか。現在は、この視点での議論がないに等しく、たとえそのような視点をもち出して議論しょうとしても、「科学的でない」というひと言ですませられてしまいます。しかし、現在の科学が絶対的な真実を導くとはいえないのです。

──略──

 このような意識の働きを、現在の科学で捉えることは不可能です。科学の側が現在の段階で意識の働きなどを証明する方法論をもてないだけかもしれないのに、それを非科学的といって切り捨てるのはおかしいのではないでしょうか。

 また、科学的と称して、小さな事実を確認し、議論して積み上げていったとしても、それで全体がわかるとはかぎりません。小さな部品はきちんとつくつた。それを集めて組み立て、機械をつくった。では、その機械が動くかといったら、動かない場合もあります。機械をつくるには機械全体を考えないといけないのです。

 そういう観点から考えると、人間や宇宙の全体を考えるためには、創造主の視点から見ることが必要になります。

 細かいことをいじくり回していては、決して全体の正しい姿は理解できません。いまの科学、あるいはいまの学者たちの議論には、部分を論じて全体を見失っている面があるように感じます。全体を見回して、世の中がよくなるためにはどういう考え方をしたらよいかという「創造主の視点」が、なおさら現代の社会では必要になっているのだと思います。
(稲盛和夫著「稲盛和夫の哲学」PHP p66-73)

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 自然淘汰に目的はない

 これで、自然淘汰というものの働きがおわかりになったと思います。チャールズ・ダーウィンが初めて自然淘汰という仕組みを考えて本を書いたとき、それを読んだダーウィンの友人の一人のトーマス・ヘンリー・ハックスレイは、「こんな簡単なことを、どうして思いつかなかったのだろう!」と悔しがったと伝えられています。確かに、自然淘汰は、そんなに難しい話ではありません。

 しかし、自然淘汰や進化は簡単な話なのですが、進化生物学者でない人たちと話していると、いろいろな誤解が広まっているように思われます。そこで、よくある誤解のいくつかを取り上げて正しておきましょう。

 その一つは、自然淘汰が、適応を生みだすように「目的をもって」働いているという誤解です。自然淘汰が働く大前提は、生き物の間に遺伝的な変異があることです。それらの変異の中のあるものが、他のものよりも環境に適しているとなると、自然淘汰が働きます。しかし、そもそも生き物の間に存在する変異は、環境とは無関係に生じてくるものです。変異は遺伝子の配列に生じるものですが、遺伝子は、まわりの環境がどうなっているかなど知るよしもありません。

 変異はランダムに無方向に生じます(第4章参照)。したがって、たとえば、寒い海の中に住んでいる生き物にとって、血液が凍らないような性質があればいいなあということになっても、凍らない血液を作ることのできるような変異が遺伝子の中に生じていなけれげそれが自然淘汰で拾い上げられることはありません。寒い海の中に入ったからといって、凍らない血液を作るような変異が、そのときになってうまい具合に生じてくるわけではありませんし、寒い海に入っていくことを見越して、あらかじめそのような変異が備わっているというわけでもないのです。

 確かに、北極海に住んでいる魚の中には、凍らない血液を持っているものがあります。しかし、それは、その魚が北極海に住んでいるかどうかなどとはおかまいなしに、魚の遺伝子の中に生じていた変異が、たまたま、北極海に住むことで有利となり、自然淘汰によって広まったものです。自然淘汰の結果として適応が起こると、あたかもそのような素晴らしい適応を起こすように、目的をもって淘汰が働いたかのように見えますが、それは、あとから見るとそう見えるだけで、自然淘汰の材料となる変異は、目的などとは関係なく生じているのです。
(長谷川真理子著「進化とはなんだろうか」岩波ジュニア新書 p50-52)

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目的因

 命あるものもないものも、すべてはそのものの可能性の現れだ、というテーマから目を転じる前に、もう一つつけ加えておくね。アリストテレスは自然界の因果関係について、あっと驚くような考えをもっていたんだ。

 ぼくたちがごくふつうに原因と言う時、それはなぜ起こったのかということを考えている。窓が割れたのはペーターが石を投げたからだし、靴職人が皮革をぬいあわせたから一足の靴ができあがったのだ。けれどもアリストテレスは、自然界にはもっといろいろな種類の原因がある、と考えた。ここでたいへん重要になってくるのは、アリストテレスが「目的因」と呼んだもので何を考えていたか、ということだ。

 ガラスが割れた原因なら、なぜペーターは石を投げたのか、と問えばいい。どんなつもりでとか、どんな目的でとか、たずねるわけだ。目的は、靴ができあがるについても、もちろん重要だ。ところがアリストテレスは、意志をもった生き物などまるでかかわらない自然過程も、そうした目的因から解釈した。たとえは一つでいいだろう。

 雨はなぜ降るのかな、ソフィー? きみはたぶん、学校で習ったよね。雨が降るのは、水蒸気が雲になって冷やされて、こごって水滴になって、重力によって地上に落ちてくるからだ、と。アリストテレスは、そのとおり、とうなずいてくれるだろう。でも、きみがあげた原因は三つだけだったね、とつけ加えるよ。まず気温が下がった時、水蒸気(雲)がちょうどそこにあったから、というのが「質料因」、つまり素材があるという原因だ。つぎに蒸気が冷やされたから、というのが「作用因」、作用がおよんだという原因だ。

そして最後に「形相因」、地上にザアザアと降りそそぐことが水の形相あるいは本性なのだから、雨は降る。つまり形相という原因だ。もしもきみがロごもって、これ以上の原因をあげなかったら、アリストテレスは追い打ちをかけるよ。雨が降るのは、植物や動物が成長するのに雨水が必要だからだ、と。アリストテレスはこれを「目的因」と考えた。わかったかな? アリストテレスによって雨粒は突然、生き物並みに使命かもくろみのようなものを割り当てられてしまったんだ。

 これをそっくりひっくり返して、こんなふうに言ってみることもできる。水があるから植物が成長するのだ、と。この違い、わかるかな、ソフィー? でもアリストテレスは、自然はすべて目的にかなっている、と考えたんだ。雨が降るのは、植物が成長し、オレンジやぶどうが実るためだし、それを人間が食べるためなのだ、と。

 こんにちの自然科学は、もうそんなふうには考えない。ぼくたちは、栄養と水は人間や動物が生きるための条件だ、という言い方をする。こうした条件なしには、ぼくたちは生きていけない、と。でもぼくたちを養うことは、オレンジや水の目的ではないよね。

 だから、原因についての説ではアリストテレスはまちがっていた、と考えたくなるけれど、早とちりはしたくないな。今でも、この世界は人間と動物が生きるために神がつくった、と信じている人はいくらでもいるのだから。だとすれば、川が流れるのは人間と動物が生きるために水が必要だからだ、という考え方ももちろん成り立つわけだ。でもそうなると、神の目的とかもくろみの話をしていることになってしまう。ぼくたちのためを思っているのは、雨粒や川の水ではなくなるわけだ。
(ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」NHK出版 p146-148)
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◎「人間や宇宙の全体を考えるためには、創造主の視点から見ることが必要になります」

◎「この世界は人間と動物が生きるために神がつくった、と信じている人はいくらでもいるのだから。だとすれば、川が流れるのは人間と動物が生きるために水が必要だからだ、という考え方ももちろん成り立つわけだ。でもそうなると、神の目的とかもくろみの話をしていることになってしまう。」

◎「科学的かどうかという枠組みを第一義にするのではなく、「どういう考え方が人間にとって、あるいは宇宙にとって必要か」という視点で考えるべきではないでしょうか。現在は、この視点での議論がないに等しく、たとえそのような視点をもち出して議論しょうとしても、「科学的でない」というひと言ですませられてしまいます。」……この視点は「創造主の視点」です。
 労働学校で唯物論について討論している場で、「生まれ変わりを認めたい。人間としては……」という発言があったが……。

◎学習通信031019 を重ねて深めてください。