学習通信041023
◎「プラトンは、……神話の世界観にはまりこんでしまっている」。
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人間は生まれながらにイデアをもってなどいない
プラトンも、彼より前の哲学者たちと同じように、あらゆる変化のなかに永遠で不変のものを見つけようとした。そして、感覚界を超えた完全なイデア界を見いだしたわけだ。さらにプラトンはイデアを、自然界のすべての現象よりも真実なものとした。まず馬のイデアがあって、それから、洞窟の壁を早足で駆けていく影絵のような、感覚界のすべての馬があるのだった。鶏のイデアも同じで、それは鶏よりも卵よりも先に存在するのだった。
アリストテレスは、プラトンは本末転倒だ、と考えた。一頭一頭の馬は「流れ去る」し、永遠に生きる馬はいないということでは、先生のプラトンと同じ意見だった。馬の形そのものは永遠で不変だ、ということでも意見は一致していた。けれどもアリストテレスは、馬のイデアというのはただの概念で、ぼくたち人間がかなりの数の馬を見たあとでつくりあげたものだ、と言った。すべての経験に先立つ馬のイデアや型なんかあるわけがない、とね。アリストテレスに言わせれば、プラトン先生の言う馬の型は、馬のさまざまな特性からできあがっている。アリストテレスは、こんにちの生物学でいう、種としての馬のようなものを考えたんだね。
もっとはっきり言おうか。プラトンのいわゆる馬の型ということばでアリストテレスは、すべての馬に共通しているものを考えたのだ。こうなるともうペファークーヘンの型のイメージは通用しない。なぜならペファークーヘンの型は一つひとつのペファークーヘンからはまるきり独立して、それだけで存在するものだからだ。アリストテレスは、そのような型を入れておくいわば特別の戸棚が自然のなかにあるとは考えなかった。アリストテレスが解釈した型とは、なにかあるものに特有の性質なのだから、そのもの自体のなかにあるのだった。
だからプラトンが、鶏のイデアが鶏よりも先にある、としたことにもアリストテレスはちがう意見をもっていた。アリストテレスが鶏の型と呼んだのは、たとえば卵を産むというような、一羽一羽の鶏がもっている、鶏に固有の性質のことだった。だから、鶏そのものと鶏の型は、ちょうど魂と体のように切り離せない。
これでもう、アリストテレスがプラトンのイデア説をどんなふうに批判したかは、あらかた言ってしまった。でも、今ぼくたちは思想の大どんでん返しについて話しているんだ。そのこと、しっかり憶えておいてよ。プラトンは、理性で考えたことが最高の現実だと考えた。ところがアリストテレスは、最高の現実は知覚でとらえたこと、あるいは感じとったことにあると考えた。
プラトンは、ぼくたちの身の回りの自然界に見えることはイデア界にある何か、ということはまた人間の魂のなかにある何かのただの反映でしかないと考えた。アリストテレスの考えはまるきり反対だった。つまり、人間の魂のなかにあるものが、自然界の事物の反映なのだ。アリストテレスによればプラトンは、人間の想像と現実の世界を取りちがえるということでは、一種の神話の世界観にはまりこんでしまっていることになる。
アリストテレスは、あらかじめ感覚にとって存在しなかったものは意識のなかには存在しない、と言った。プラトンならこう言うところだろうな。あらかじめイデア界に存在しなかったものは自然界に存在しない、とね。そんなふうに、プラトンはものの数を二倍に増やしてしまった、とアリストテレスは考えた。だって個々の馬を説明するのに、イデアの馬を持ち出すんだから。でも、これは説明になっているかな、ソフィー? ぼくなら、ではイデアの馬はどこからきたのか、と考えてしまうよ。三番めの馬が存在するのだろうか? イデアの馬がそのただのコピーであるような、三番めの馬が?
アリストテレスは、ぼくたちの思考やイデアの中味はすべて、ぼくたちが見たり聞いたりしたことをつうじてぼくたちの意識にもたらされた、と考えた。けれどもぼくたちは生まれつき、理性をもってもいる。ぼくたちには生まれつき、すべての感覚の印象をさまざまなグループや階級に分類する能力があるんだ。だから「鉱物」「植物」「動物」「人間」といった概念が成り立つ。「馬」や「鶏」や「カナリア」という概念が成り立つんだ。
アリストテレスは、人間には生まれつき理性がある、ということを否定しなかった。否定しないどころか、まるでその反対だ。アリストテレスによれば、理性こそはもっとも重要な人間のしるしだ。けれども理性は、ぼくたちがなにも感じないかぎり、まったくの空っぽだ。だから、人間は生まれながらにイデアなどもってない、ということになるんだよ。
(ヨースタイン・ゴルデン著「ソフィーの世界」NHK出版 p142-144)
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ここには、たしかに一面性はないが、しかし、相対立する哲学上の観点の脈絡のない混乱がある。諸君が感覚のみから出発する以上は、諸君は「要素」という些細な言葉で自分の観念論という「一面性」を訂正するわけではなく、ただ事がらを混乱させるだけであって、自分自身の理論から臆病にも身をかくすだけである。
言葉のうえでは諸君は、物理的なものと心理的なものとのあいだの対立をとりのぞき、唯物論(これは自然・物質を第一次的なものとする)と観念論(これは精神・意識・感覚を第一次的なものとする)とのあいだの対立をとりのぞくが、──実際には諸君は、すぐさまこの対立を復活させ、しかも諸君の基本とする前提から後退して、この対立をひそかに復活させるのである! なぜと言って、要素が感覚ということであれば、諸君は、私の神経、私の感覚に依存しない「要素」の存在を、一瞬たりとも認める権利をもたないからである。
しかし、諸君が、私の神経、私の感覚から独立しており、私の網膜に働きかけることで初めて感覚を生みだすような、そういう物理的客体を承認する場合には、諸君は不面目にも、自分の「一面的な」観念論をすてて、「一面的な」唯物論の観点へと移るのである! もしも色が膜に依存してだけ成立する感覚であるならば(自然科学が諸君にこれを承認せざるをえないようにしているのだが)、そうであれば、網膜にたっする光線が色の感覚を生みだすわけである。
つまり、われわれのそとに、われわれから、そしてわれわれの意識から独立して、物質の運動が存在し、たとえば一定の波長と一定の速度とをもつエーテルの波動が存在し、これが網膜に働きかけ、あれこれの色の感覚を人間のうちに生みだすということである。まさに自然科学は、このように見ているのである。
自然科学は、あれこれと異なった色の感覚を、人間の網膜のそと、人間のそとに、そして人間とは独立に存在する、光波の相異なった波長で説明する。
これがすなわち唯物論であり、物質が、われわれの感覚器官に働きかけ、感覚を生みだすと見るのである。
感覚は、脳・神経・網膜など、すなわち一定の仕方で組織された物質に依存している。
物質の存在は、感覚に依存していない。
物質が第一次的なものである。感覚・思想・意識は、特別な仕方で組織された物質の、最高の産物である。
これが、一般的には唯物論の、特殊的にはマルクスとエンゲルスの、見解である。
(レーニン著「唯物論と経験批判論」新日本出版社 p61-62)
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◎「物質が第一次的なものである。感覚・思想・意識は、特別な仕方で組織された物質の、最高の産物である。」
「一定の仕方で組織された物質」「特別な仕方で組織された物質」とは
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