学習通信041024
◎「笑いの質は批判の質によって」……。

■━━━━━

 現在の日本の喜劇の最大の欠点は、習練による技術を軽視し、それを胡麻化すため不必要に誇張して却って真実を失っていることである。少なくとも私の喜劇は、最大の生真面目さで至って正統的に演じて頂きたいのである。そうすると笑いが生じるように書いてあるのである。

 私はつねに、日本に政治笑話(ジョーク)の習慣がないことを嘆じているが、欧米ならこれだけの政治的危機には多くの傑作が次々と生まれ、それが口々に伝わり強力な批判力となっているわけなのだ。新聞などが進んで政治笑話を募集し、そういう運動をすることをおすすめする。私は喜んでその選者となってもよい。

あのテレビのキンちゃんこと萩本欽一君が、番組の中で募集している笑話の中にはなかなか辛辣なものがあり、日本人の笑話創作力もよい指導があれば有力な政治的武器になるのに、どうも革新政治家の頭はそこまで働かないようで、何ともゆとりがないと思わせるのである。

 芸能といえば、日本ではそれは今日では、とりも直さずテレビであるが、そこに全然といってよいほどロ事件の反応が現われない。

 大体日本に風刺がほとんど風習として存在しないことは、欧米諸国に比して文明国の一つとして稀有といってよいくらいであるが、例えばテレビにあれほど朝から深夜まで歌声が流れているのに、ロ事件についての風劇詩が出て来ないのだ。そのくせイギリスの国営放送(!)製の政治風刺番組「モンテイ・バイソン」は放映しているのだ。ということは「モンテイ・バイソン」の内容を理解出来ないから風刺の役目も果たさぬし、イギリスを風刺しても日本政府ないしは自民党に一向に差しつかえないからであろう。これこそ喜劇でなくて何であろう。

 「民放」というといかにも民主主義の申し子の如き印象を与えるが、実は放送は免許事業であり、監督官庁たる郵政大臣の許可がなくては設立出来ない。このことは日本の放送が民主的放送でなく、自民党によっていかに強くコントロールされているかということである。

 民放の「民」はだから自民党の「民」なのである。ではNHKはどうかといえば、田中が小野NHK前会長を股肱(ここう)の臣としてNHKに送りこんでいた経緯は、例の見舞い事件によって、はしなくも暴露され、小野氏は退職金まで棒に振ることになった。NHKも自民党によってコントロールされていたのである。しかし一部の心あるNHK職員は自覚を持ち、何とかして自民党のコントロールから脱出して行こうとしている。しかしロ事件に関する芸能は一度も出たことはない。世界的視野で見ると、これも正に怪事件以外の何ものでもない。

 だから、ロ事件に芸能界が対応するはずがないのである。
 新劇といえば戦前は抵抗劇の同意語であったが、今はその本質を復興すべき時であろうにロッキードを扱った作品が現われず、チリの事件、キューバ事件や金芝河の作を上演している現状である。もちろん、これらの事件は政治的関心事であるにしても、御膝もとの日本の、既に我々を脅かしている大事件に芸能界芸術界がノンポリをきめ込んでいるのは、私にはどうしても納得が行かない。つまり笑いという有効な武器をとうの昔に捨てた──いや捨てさせられた国民が日本人なのではないか。そういうことを、青春時代から変わらず永年いい続けて来た私の想いが、この一書にこり固まったというべきか。
(飯沢匡著「武器としての笑い」岩波新書 p12-14)

■━━━━━

笑いについて

 ウマの笑い
 「シラケ」とは、笑いを失った人間感情のこと、というふうにも定義できるのではないか、と私は思う。
 笑うことができるのは人間だけだ。「人間とは、笑うことのできる唯一の生物だ」といったのは、たしかアリストテレスだったと思う。笑いは、人間の本質と深いところでつながっているみたいだ。

「ウマも笑うことがあるのでは」といった人がいた。私はウマ年のうまれで、小さいころのあだ名も「ウマ」だったが、現物のウマとは、中学生のころぼんやり道を歩いていて、その鼻づらにぶつかったことがあるほかは、あまりつきあいがなかったので、ウマが笑うかどうか、責任のあることはいえない。

 しかし、心理学者にいわせると、笑いには三種類あるという。第一種類は「生理的快感の笑い」で、生理的にここちよい状態になったとき、顔面神経のこわばりがほぐれて、顔がわれる──ほころびる、という笑い。「わらう」という日本語は「われる」からきたものだという。「破顔一笑」などというのに近いだろう。「咲」という漢字も「わらう」とよむ。かたくとざしたつぼみがほころびる、そのように顔がほころびる、ということだ。

 これだったらば、人間以外の動物にもあるかもしれない。すくなくとも、高等哺乳類にはそのきざしがあるという。まちがいもなくウマにはそれがある、と証言してくれた人もいた。

 人間だってまだ乳児のころは、右も左もわからない。「人心地」がなく、その点では動物なみだ。しかし、はらいっぱいに乳を吸って、ニコニコ無心に笑うことは知っている。その笑顔を見たことがないという人は、おそらくいないだろう。

 ことばのやくわりをする笑い
 しかし、第二、第三の笑いとなると、これはもうハッキリ、人間、それもものごころついて以後の人間にしかないものだ。
 第二種の笑いとは、「ことばのやくわりをする笑い」だ。「目は口ほどにものをいい」という。道で出あった人にニコッと目礼をかわすのは、「私はあなたに親愛の情をもっています」ということばのかわりだろう。

 「笑ってこたえず」というのもある。いろんな場合があるだろうが、「笑い」がつまりこたえのことばの代行をするわけだ。「ぼくからいうわけにはいかないが、わかるだろ?」というのもあるだろうし、「ワカルカナー、ワカンナイダロナー」というのもあるだろう。

 「笑ってごまかす」というのもある。キマリがわるいとき、ニヤニヤ。としてごまかす。テレ笑い、テレかくしの笑い。──これは、「わかりません。これ以上追求しないでください」ということだ。

 「キマリがわるい」といったが、これはつまり、自分の態度をきめかねる、イエスかノーかをきめかねる、だから相手にたいしてキッパリした態度がとれない、だからカッコウがつかない、尻がムズムズする、ということで、そこで、こんなアイマイな状態にあるんですよということを、アイマイな笑いに託して表現して、心理的に肩の荷をおろす──つまり、スミマセンといってすましてしまおうとするわけだろう。

 このように見てくると、この種の笑いはすべて、なんらかの認識の表現だ。そして動物は、感じることはできても考えること──認識することは、本格的にはできない。ことばをもたないかぎり、それはできない。そして、ことばをもっているのは人間だけだ。だから、この種の笑いは人間にだけ──それも、ものごころついて以後の人間だけにある。

 おかしさの笑い
 さて、第三種の笑い、それは「おかしさの笑い」だ。そして、私の考えでは、これこそもっとも深く人間の本質につながるものだ。

 「おかしさの笑い」について『岩波心理学小辞典』を見ると、「これは昔からおおくの人たちに論じられたもので、これには純粋のよろこびでなく、いじわるいよろこび、よろこびといじわるの結合というのもある」と書かれている。そしてその正体については、優越感(ホッブズ)、他人の不幸(デカルト)、ささいな事件における他人の権威の消失(ベイン)、観念と実際とのくいちがい(ショーペンハウアー)、緊張した期待の突然の消失(カント)、機械的なものと生きたものとの矛盾(ベルグソン)などによって説明された、とある。

 この書きかたには、ちょっとあいまいなところがある。「おかしさの笑い」は「いじわるの笑い」とイコールだとはいっていないのだが、どうやら、「おかしさの笑い」の本質は「いじわるの笑い」に端的に示される、といっているようでもある。

 ホッブズの意見について、もっとくわしくしらべてみた。すると、「突然の得意は、笑いと呼ばれる顔のゆがみをおこさせる」といっている。「他人のなかになにか不恰好なものをみとめ、それとくらべて突然自分をえらいもののように思うことによって、それはひきおこされる」というのだ。「自分には小さな能力しかないと悟っている人びとにこれはありがちなことで、他人の欠陥を見ることによってみずからこころよしとするのである」ともいっている(『リヴァイアサン』)。

 たしかにこういう「おかしさの笑い」は、文句なしに「いじわるい笑い」だろう。が、じつはこうした意見それ自体、たいへんいじのわるいものではなかろうか。人間というものを、たいへんいじわるく見ている。いじのわるい人間観がその基礎にある。デカルトやベインの場合も、このかぎりでは同様だ。

 人間とは、そんなにいじのわるいものだろうか。たとえば児玉誉士夫という人がいて、とてもかっこうよくやっていたが、ロッキード事件をつうじてかっこうわるさを天下にさらすことになり、天下の笑いものとなった。これは、私たちが「自分には小さな能力しかないと悟っている」ために、大きな能力者である児玉が弱点をばくろしたのを見て「みずからこころよし」としたのだろうか? そのとおりだという人もいるけれど、これはむしろ、その人自身の人間性を告白しているのだろう。

 ホッブズなどの観察が、それなりに鋭いリアリティをそなえていることを否定するものではない。が、それですべてをわりきるのは、シラケた人間観にもとづくシラケたリアリズムにほかなるまい。はらの底からの大笑いは、ホッブズ流の定義の外にこぼれる。

 ホッブズの肖像を見ると、横に長くうすい唇をキュッとへの字にむすんでいる。デカルトの肖像も似たりで、さらにその口もとは、どこかメフィストフェレス的なうす笑いをただよわせている感じがある。どうやらこの人たちは、はらの底から笑うということを知らなかったらしい。

 批判としての笑い
 「観念と実際とのくいちがい」がおかしさの笑いの正体だという定義、これはもう一歩いい線をいっているようだ。「愛国者」の観念をふりかざしてきた児玉がじつは「売国者」であったというそのくいちがい、たしかにこれは事柄の核心にふれている。

 「緊張した期待の突然の消失」というカントの定義、これもなかなかうがっているだろう。たとえば、おごそかな式場で神主さんがノリトをあげていると、そこにまぎれこんできた小ネコが突然、ニャオとなく。そこでみんながドッと笑う……。

 これはどういうことだろうか。「おごそかな式場」といったが、じつはその「おごそか」が、形式だけをとりつくろった内容空疎なもので、形式と内容、観念と実際とのこのくいちがいを、たくまざる批判者として小ネコがあばきだしたということだ。そこにくいちがいがなかった場合には、人は笑うどころか怒りだすだろう。

 あるいはまた、ある口ぐせをもった人の話をきいていて、たぶん今日もあの口ぐせがでるだろう、もうでるかでるかとまちかまえているところへその口ぐせがでて、思わず笑ってしまう、というのも、やはり「緊張した期待の突然の消失」だろう。だから、意外なものがおかしいと同時に、予期したものが思ったとおりに実現したのもおかしいわけだ。

 ベルグソンの定義についていえば、ロボットの歩きかたを見ているとおかしい、というようなのがこれだろう。人間の自然な動きがロボットのギクシャクした機械的な動きによって批判されるのか、その逆なのか、いろいろな場合があるだろうが。

 このように見てくると、おかしさの笑いのカナメになっているのは、いじわるの笑いの場合をふくめて、現実にたいする批判そのものだということがいえるのではなかろうか。
 笑いの質は批判の質によって決定されることになる。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p140-146)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「笑いという有効な武器をとうの昔に捨てた──いや捨てさせられた国民が日本人なのではないか。」と。