学習通信041025
◎「仲間はけっして木や石ではない」……。

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 いまどきの若者は、さっぱりわからない。
 こんなことばを、これまで耳にしたことがない人はいないはずだ。それだけではなくて自ら「いまどきの若者は……」と、つい口にしている人も少なくないだろう。

 ものの本によると、これと似たことばは古代ピラミッドの中にも記されているらしい。「だから、なにもわかりにくいのは現代の若者だけではない。大人から見れば、いつの時代も若者は理解しがたい存在に見えるのだ」と言う人もいる。しかも、大人はかつて自分も若かったときには礼儀知らずで自己中心的だったことも忘れて、若者批判をしてしまいがちだ。

 では、結局のところ、若者は今も昔も変わっておらず、大人が勝手に「いまどきの若者はわからない」と言っているだけなのだろうか?
 私自身は、そうもまた言い切れないと考えている。

 高度成長からバブルの時代を通過し、出口の見えない不況が続きながらも、生活じたいは全体に平和で豊かな今の日本。携帯電話やインターネットの普及で、コミュニケーションの手段は画期的な変化を遂げた。そういう社会で暮らす若者は、やはりこれまでとはかなり違った価値観や行動様式を身につけていると言える。

 問題は、そういう若者たちに対して大人が「若者は堕落した」「若者はコワイ」と決めつけ、それ以上、理解しようとも近寄ろうともしないことだ。フェミニズム研究者の小倉千加子さんは、「いまどきの学生たちは変質してます。……これはなんですか!」とイライラして怒っている大学教員を見ると、「アホちゃうか。君ら訓練が足りんよ」と思う、とその著作の中で述べていた。

 しかし、そう言われてもどうやって訓練してよいかわからない。そう思う大人も、少なくないはずだ。訓練するにもまず、いまどきの若者の言動の基本にあるパターンがわからなければどうしようもない。

 「基本パターンなんてあるものか、彼らは好き勝手に動いているだけだ」という声もあるが、本当にそうだろうか。彼らの話にちょっと耳を傾け、その行動に目をとめてみると、そこには彼らなりの考え方や主張があることがわかってくる。それを「若者の法則」としてまとめてみたのが、この本だ。

 私はもちろん、これを読んで若者にすり寄り、ごきげんをうかがってほしい、と大人たちに望んでいるわけではない。ただ、その「若者の法則」を知ると、若者たちが彼らなりのやり方で、大人や社会全体に向かって言おうとしている何かが、おぼろげながら見えてくるはずだ。

 そして「いまどきの若者」について考えることは、だれにとっても自分についてもう一度、考えなおすことにもなるはず。元・若者の私は、そう思うのである。
(香山リカ著「若者法則」岩波新書 まえがき)

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仲間とともにそして何時も仲間の半歩前を

 たたかいの人生をささえる生きがい、それは学習と連帯にあるというのは、私たちの体験にもとづく一つの結論でした。私たちは一人ぼっちではたたかえません。組織ぎらいなどというぜいたくなものとは無縁の存在です。

 私たちは、そもそもの時期からほんとうにすぐれた友人、仲間たちに恵まれてきました。何十年たって互いに白髪をいただくようになったいまでもツーといえばカーと通じあえる、そういう友をもっていることはほんとうに幸せなことだと思います。と同時に共通の理想に結ばれる新しい仲間をつくっていく、この仕事ほどやりがいのある仕事はないといえるでしょう。私たちもそういうふうにして前進してきました。

 そして、そのなかから、仲間をつくり仲間とともに、しかもその半歩ほど前を歩むことの大切さを学びつづけたのです。

 これから、その私どもの体験からする仲間づくりの秘けつのようなものについてお話してみたいと思います。

 私たちは仲間づくりをすすめるにあたって、まず仲間は人間であるというまったくあたりまえの事実をふみしめてかかる必要があるということです。なにを馬鹿な! そんなことくらいあたりまえさ、などと言わないでください。私の経験では、実はこのあたりまえすぎるくらいあたりまえのことがとかく忘れられるので困ると思うからです。

 問題の基本は、仲間たちは命令で行動するのではない、彼らは、自分自身の利害にもとづいて、しかもそのときに彼らが自分自身の利害を理解しうる程度に応じて行動するものだ、ということをちゃんとわきまえてかかることです。

 仲間はけっして木や石ではない、機械でもない、ほかならない人間だということ。思想をもち意識をもち、そしてそれなりの生活経験をもち、それなりの社会経験をもち、社会環境のなかで生きている人間であるということです。ですから、命令さえすればかならず自分の希望したとおりに動くものだというようなものではありません。

押しつけたり、引きまわしたりというような正しくないやりかたがでてくるのは、このまったく当然すぎるほど当然の事実を忘れるところからくるものです。これはごくあたり前のことであります。しかしあたりまえのことなんですが、えてして私たちが忘れがちになる非常に重要な点ではないかと思います。

 だから、この木や石でなくて生きて動いている仲間どうしが一つにまとまってたたかおうという強固な意志統一をつくりだしていくことなしには、うまくいく道理がないわけです。そのためにはまず仲間自身が、自らこういう目的のために団結してたたかうことが必要なんだ、仲間たちと手をつないでいっしょにたたかわなければいけない、というように思いこませるような活動がまず必要になってきます。

 この仲間自身の理解と期待のための活動を軽視して、こう進むべきだ、こうやるべきだ、というところから出発して、おしつけてみても、引きまわしてみても、それはうまくいくはずがありません。指導とは納得なのです。

 第一、押しつけるにしても引きまわすにしても、もうそこには対等平等の立場がなくなっています。民主的な関係のないところに、ほんとうの仲間などできるはずがありません。真の連帯、それは自主的なもの、そして民主的なものでなければなりません。

思想や意識をもたない木や石を組みたてたり、機械を組みたてたりするのとはわけがちがうということ、これを真底から理解してかかるかどうか、ここに仲間づくりの根本的なカギがあると私は信じています。
(有田光雄/有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版 p247-249)

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◎「問題の基本は、仲間たちは命令で行動するのではない、彼らは、自分自身の利害にもとづいて、しかもそのときに彼らが自分自身の利害を理解しうる程度に応じて行動するものだ、ということをちゃんとわきまえてかかること」と。