学習通信041026
◎「尊敬は、優劣ではない」……。

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 もしも、愛の第三の要素──尊敬──がなかったならば、責任は、たやすく支配や所有に堕落してしまうであろう。尊敬は恐れでも畏怖でもない。それは、語源(respicere=ながめる)に従えば、人をあるがままに見、その特異な個性を知る能力である。

尊敬とは相手がその人自身としてありのままに成長し、発達すべきであるという関心を意味している。尊敬にはこのように、搾取の欠如の意味を含んでいる。私は愛する人が、私に仕えるためにではなく、自分自身のために、そして自分自身の方法で、成長し、発達することを望むのである。

もしも、私が他の人を愛するならば、私は彼あるいは彼女とひとつであることを感ずるが、しかし、あるがままの彼とひとつになるのであり、私が使用する対象として、私に必要なものとしての彼と合一するのではない。

尊敬とは、ただ、独立を成就した時にのみ、支えられる必要なしに、誰かを支配し、搾取することなしに立ち歩くことができる時にのみ、可能であることは明らかである。尊敬は自由の基礎の上にのみ存在する。すなわち《愛は自由の子供である》と古いフランスの歌がうたうように、愛は自由の子であり、けっして支配の子ではないのである。

 人を尊敬することは、その人を知ることなしには不可能である。配慮と責任とは、もしも知識によって導かれることがないならば盲目となるだろう。知識はもしもそれが関心によって動機づけられないならば空虚になるだろう。

知識には多くの層がある。愛の一局面をなすところの知識は対象の周辺にとどまることなく、中核にまで侵入する。それは私が私自身への関心を超越し、他の人を彼みずからの価値において見ることができる時にのみ可能となる。

たとえば、私はある人が怒っていることを、その人がそれとはっきり示さない時も知ることができるだろう。しかし私は、彼の怒りよりもさらにいっそう深いところまで彼自身を知るであろう。そして私は、彼が不安であり、悩んでいること、彼が孤独であること、彼が罪責を感じていることを知るのである。そして私は、彼の怒りはより深いあるものの現われにすぎないということを知り、彼が心配し、困惑していることを理解し、怒っている人としてよりも悩んでいる人として彼を見るようになるのである。
(フロム著「愛するということ」紀伊国屋書店 p37-39)

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 尊敬する人というのは、ライバル意識を燃やして対抗したり、あるいは見習おうとして背伸びをするといったレベルではおさまらない人物のことではないだろうか。また、何か大きなことをしてくれた「恩人」と常にイコールになるわけでもない。

 私にとって中西悟堂(日本野鳥の会創設者)がそうであるように、尊敬する人というのは、とても自分にはかなわない、真似もできないほど「すごい」と感嘆してしまうような人なのではなかろうか。諸手を挙げて降参し、「参りました」と言いながら、「それでもあなたのようになりたいです」と振り仰いでしまう。その人が直接自分に手を貸したり恩をくださったりしなくても、その人と何かしらの接点をもつだけで生き方も世界観も変えられてしまう、そんな人物なのではなかろうか。

 だとすれば、そんな人は、おいそれとは現われないのもまた現実のように思う。「尊敬する」ことがそれほど重い気持ちであれば、無条件に「両親」とか「先生」という答えばかりが飛び出すのは不自然であろう。

 そして、こういう人と出会って心から尊敬できることは、取りも直さず私たち自身が誠に幸せな心を得るということなのではあるまいか。

 人間として本当に敬意を表わすることができる人に出会うには、まず私たち自身が心のアンテナをしっかりと張り詰めて、「そういう人」たちと出会う準備を整えておかなければならないように、私には思えるのである。

満たされて生きるために

 悟堂のことを思うとき、私は己の無力を反省しながらも、同時に悟堂のエネルギーを思い出して生きて行こうという勇気を取り戻すことができる。

 そして、悟堂に行き着くまでに、また行き着いた後も、私はさまざまな場面で多くの人を尊敬している。すべての面においてトータルな意味で「最も尊敬するのは」と言われれば悟堂の名前を挙げるけれども、仕事においても人間性においても、あるいはエッセイストとして、女性として、日本人として、障害者として、ピアノを弾く者としてなど、あらゆるところに尊敬する人物がいる。尊敬するとは、そういうことなのではないだろうか。

 尊敬は、優劣ではない。尊敬することは、けっして己を低めることではない。尊敬したために自分が小さくなることはないのだ。かえって、尊敬することは己を高める気持ちと言えると思う。

 人を尊敬することすらできないようでは、傲慢な心になってしまうような気がして、私は恐い。たとえば私は悟堂を尊敬しているけれど、悟堂はインドの詩人タゴールを尊敬していた。そしてタゴールもまた、きっと誰かを深く尊敬していたに違いない。こうして、それぞれに尊敬する人を心に抱きながら生きることは、知らないうちにそれぞれが高められ、真摯な気持ちで他人にも自分にも向き合えるという結果につながるのではないだろうか。

 言い換えれば、人を尊敬できると、それだけで心が満たされ、日々の気持ちが豊かになり、才能や能力が自ずと高められ、鍛えられていくと思うのだ。

 だから、まずどの場面でも尊敬できる人を探してみよう。最初は小さなことでもよい。自分より年下であっても、とても真似のできないことをやってのける人はたくさんいるだろう。またあることについては自分より明らかに不得意に見える人が、実は別のところでとてもかなわない才能をもっていることに気づいたりするかもしれない。

あるいは、結果としては人並みのことをこなすのがやっとという場合でも尊敬する要素がある。たとえばその人が重い障害を負っていたり、非常に厳しい生活環境におかれていたとすれば、恵まれた環境にいる人々と比べた結果がどうであれ、その努力と意志の強さに敬服することになると思う。

 大事なのは、くれぐれも自分のものさしに閉じこもらないこと、「自分的」という狭い世界から外界を覗き見ないことだと思う。
 「この人はこんなにすごいんだ」と素直に拍手できる人こそが、無限の可能性を切り開ける才能の待ち主だと、私はつくづく思うのである。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p115-118)

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 仲間づくりの第一の条件、それはなんといっても仲間の信頼を得ることです。仲間の信頼を得るためには、仲間たちにわけへだてを感じさせないこと、つまり大衆性を身につけることが決定的に重要です。レーニンも「必要ならばある程度大衆ととけあう能力(非プロレタリア大衆とも)」を強調したことがあります。ある程度というのは、さきほど私が仲間の半歩前を歩むといったことと同じ意味です。

ところが、仲間の信頼を得ようと思えば、まず自分自身が大衆に対する全面的な信頼関係に立たなければなりません。君が僕を愛してくれるなら、僕も君を愛してもよい、これでは恋愛はなりたたないのと同じように、君たちが僕を信頼してくれるなら僕も信頼しようでは、仲間の信頼を得ることはできません。まず仲間を信頼するという立場にたつ、これが基本です。ところが仲間を信頼するということは、何もイワシの頭も信心などという非科学的なことではありません。

 私たちの信頼という言葉の中身には、次の三つのことが含まれていなければなりません。

 まず第一に、私たちが仲間を信頼するというのは、要求をもたない人間は一人もいないということを理解することです。資本主義社会で生活し、そしてたたかっているすべての人びと、資本によるあくどい搾取と抑圧にさらされている労働者であれば、要求をもたない人間など一人もいないはずです。

 ただ日常会話のなかで自分は要求なんかないという人もいますが、ほんとうはその人自身がまだその要求に気づいていないか、もしくはあきらめているだけで、どんな人でももっと賃金がほしいとか、もっと労働時間が短ければよいというような要求からはじまって、社会保障とか、子どもの教育とか、生活環境など生きているかぎり大きな要求、小さな要求、目に見える要求、見えない要求さまざまな要求をもっているはずです。

 要求をもたない人間はいない。これはけっして主観的な判断ではなく、客観的な事実なんです。認めるとか、認めないとかの問題でなくて、現実の客観的な事実なんです。いくら現象的には反動的な言動をするような仲間であっても、彼が労働者階級の一員であり、搾取され支配されながら生きている以上、要求をもたないなどということはありえないことなのです。ここに共通の土台があるのであって、仲間と仲間の共通のふれあいの基盤というものを確認することが、決定的に重要です。これが出発点です。

 仲間を信頼するということの二つ目は、階級的な利害が一致している、立場がいっしょだということを理解することです。

 仲間は労働者階級の場合もあれば、農民、勤労市民の場合もあり、いずれにしても日本の独占資本とアメリカ帝国主義によって搾取され支配されているという点では、まったく共通の立場におかれています。

 たとえ現在の瞬間にどんなに意見がするどく対立し食い違っていようとも、階級的な立場は同じなんです。意見が食い違うというのは避けがたい。それぞれがおかれている環境の違いや階級意識の発展段階の違いなどさまざまな違いがある以上、意見がまったくはじめから終わりまで一致している人間なんてあるはずがありません。

 マルクスの「その時代の支配的な思想は支配階級のイデオロギーである」という有名な言葉があります。物質的な生産手段をにぎっている階級がイデオロギー、つまり社会的な思想や意識まで支配するというわけです。

 それは広範な勤労者のおかれている生活の実際の姿を考えただけでも明らかです。きつい労働、きびしい生活環境のなかでは、なかなか学習することはできません。勉強は学校だけで十分だ、これからはのびのびやろう、ということで競馬場に通っている仲間もいれば競輪場に通っている仲間もいるなどと、いろいろあるでしょう。

 しかし、その仲間たちを見る場合、「ああおくれたやつだ」「はしにも棒にもかからんやつだ」というふうに仲間を見ると、活動の意欲も何もなくなってしまうでしょう。これでは、自分自身の側にかこいをつくることになるわけです。そういう考えを克服する、そうして彼と私とは深いところでは階級的な立場が一致している、基盤が共通しているんだということを確認する、そうするとよしやって見ようという勇気がおいてくるはずです。

 さて仲間を信頼するということの三つ目は、歴史をつくるのは誰かという問題を正しく理解することです。歴史をつくるのはすぐれた軍事科学者や英雄ではなくて、幾百千万の勤労大衆、「名もなく貧しく美しい」民衆だということです。

もちろんこういうふうにいったからといっても、指導者の役割をないがしろにしてよいというわけではありません。指導者は時代の流れのなかから民衆自身が生みだしてきて、そして民衆を導くという重要な役割りを担うものです。指導者が誤りをおかすかおかさないか、それによって歴史が大きく影響されるということは、世界の歴史が物語っているところです。ですから指導者の役割は非常に重要であります。しかし結局のところ、それをのりこえて時代の発展を導くのは、働く勤労人民大衆であるということは疑いようのない歴史の真実です。

 つまり民衆自身が歴史をつくる、いいかえると、本来仲間というものは自分の力で自分の問題を解決する力をそなえているということ、その能力の発揮がいま妨げられているだけなのであって、どんなに中途半端な仲間であっても、ある条件のもとに導かれるならば、決然と立って、そして歴史の主人公として立派にふるまうものなのだというこの観点を理解することは非常に重要であります。

 以上の三つのこと、これが大衆への無限の信頼とはなにか、その中身だといってもさしつかえないと思います。大衆を信頼するとか仲間を信頼するとかいうときの信頼というのは、このように科学的社会主義の理論によってきちんと裏づけられた科学的な考え方なのです。

ですから、仲間づくりをめざすものは、理論と実践の両面からこの基本点を理解することが必要です。
(有田光雄/有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版 p249-253)

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◎「大事なのは、くれぐれも自分のものさしに閉じこもらないこと、「自分的」という狭い世界から外界を覗き見ないことだと思う」と。

愛とはなにか!
仲間の信頼を得るとは!

「ウオノメ」がここにも顔を出している。