学習通信041027
◎「革命的現実主義と結びつけなければならない」……。
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文学に埋もれていた私にとって、こうして時を経るごとにさまざまな色をもってくる読書は、私自身を映す鏡のようにも思えた。社会というものへの見方が育ちつつある私の心を映す、時の鏡に思えたのだ。そして、その鏡を見た私は、夢物語の読み方を失うことなく現実をも直視したいと考えるようになった。たとえ現実が厳しいものであっても、感動する力、心や命を感じ取る情緒を忘れずにいたい、と思ったのである。
いま私は、人生で三つめの超大作、『源氏物語』とともに夜のしじまを過ごしている。「月のくまなく照り」などの有名な描写はもちろん、この物語から、私は植物の擦(す)れる幽(かす)かな音と、浦に寄せる静かな波の音を聞いているような気がする。平安のころの日本は、家の中にまで竹が生えていたり、茅葺き屋根からたくさんの草が生えて、今でいう屋上緑化みたいなことになっていたりと、現代からは想像もつかないくらい植物が近くにあったようだ。源氏と女性たちのつややかな関係もさることながら、彼らの歌の中に、いつも植物や海が歌い込まれていることがそれを物語っている気がするのだ。
たとえば、有名な「若紫」には、こんな歌のやりとりがある。源氏の君が若紫を訪ねたときに、道すがらの家の「女」と交わす歌だったと思う。
朝ぼらけ霧り立つ空のまよひにも行き過ぎがたきいもが門かな
立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草の戸ざしにさはりしもせし
霧の空、垣根、草、そんなものに閉ざされた静かな家と外で、源氏の熱い恋心と女性たちの微妙な気持ちが交錯する。そんななかで、植物の小さな葉擦れの音のなかで交わされる和紙の音。これが源氏世界の音なのではなかったろうか。私は、この物語の筋はもとより、そこから聞こえてくる古の音に、絶えず耳を傾けているらしい。
この本がお手元に届くころ、おそらく私は源氏を読み終えていることだろう。そのときに、いったいどんな思いに包まれているか、私自身楽しみである。
なぜ私が、並み居る名著の中からこうして長編だけを選んでお話ししたのか。それは、これらの長編は私に、一つの大切なものの存在と、その大いなる価値を教えてくれたからである。長編がくれた大切なもの、それはこの『源氏物語』に象徴されるような「しじま」であった。
何年も続けて読む本の世界は、私の身も心もザンブリと別世界に飛び込ませ、現代というすべての枠組みから解放してくれた。何よりも、本は現代の音から私の疲れた耳を解放して、夜のしじまの中で自然や異国のさまざまな音へと誘ってくれた。
思うように旅行や散歩ができない私にとって、こんなふうにじっくりと時をかけてしじまを与え、自由に想像を遊ばせたり、今までとはまったく違った世界観を味わわせてくれる読書は、文字どおり心身の旅路なのである。そしてそのことは、なにも私が障害をもっているからというわけでなく、障害の有無を超えてすべての人に言えるのではないかと思うのだ。
静寂の中で読書し、心の旅をすること、それが精神にどんなに豊かな糧をもたらし、想像や好奇心に導かれて人生を楽しむエネルギーを与えてくれることか。それは、音楽やテレビゲームの傍らにパラパラと読むといった読書では、けっして得られない至福だと私は思う。私自身、音楽を聞きながら片手間に読んだ参考書やハウツー本からは、そんな普遍的な恩恵を受けることが少ない。だからこれは、自身の経験からも確信をもって言えることのように思う。
長編を読みとおす作業のなかには、このような恩恵のエッセンスが特に凝縮されているような気がするのである。
迷える小羊となって
人生には、悩みが絶えない。私にも、将来に対する不安や戦争への恐怖、心の行き違いからくる悲しみなど、ここに一つずつお話しすることのできない苦しみがあり、それらを皆さんと同じようにいつも抱いて生きている。選択のときには迷い、決断の後にも自問してしまうこともある。
そんなとき、私は何でもよいから本を読むようにしている。迷える小羊なら人が探しにきてくれるのを待つばかりかもしれないけれど、人間には知恵と頭脳が与えられているのだ。それをしっかり使わなければ、もったいないのではないだろうか。
心に迷いや不安が生まれたら、とにかく本を開いてみよう。文字が苦手なら、最初は漫画もよいだろう。でも、私自身、何冊もの漫画を読んでもらってつくづく思うのだが、漫画だけでは文学の醍醐味は味わい尽くせない面があるのではなかろうか。できたらいつか、数百年、数千年も多くの人々に読み継がれた名著に、静かにしっかりと向き合ってほしい。もちろん私もそうし続けていたい。そしていつか、皆さんと本についてお話しできたら、さぞ楽しかろうと思う。
最後に、もう一つお誘いしたいことがある。それは、心に残るフレーズや言葉に出会ったら、それを自分の手でノートに書き写すことだ。パソコンにデータとして入れるのもよいけれど、紙の質感に触れながら、文章を少しずつ頭に入れては書き写す作業は、それだけで一つの境地を醸し出してくれるのだ。だから私は、いまだに古びたノートを取り出しては、出会った名言や語録を書き記している。
孫引きで恐縮だが、その名言ノートのなかから一つ。
反対したり、論難したりするために読書するな。さりとて信じたり、そのまま受け入れたりするために読書するな。ただ、思い、考えるために読書せよ。(ベーコン)
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p62-66)
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忙しくてとても学習できないという仲間達に
私たちはいったい何のために学ぶのでしょうか。それは実践の指針を手に入れること、そして、科学的な世界観を身につけて未来への確信をもつためです。
「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変革することである」(「フォイエルバッハにかんするテーゼ」)。
この有名なマルクスの言葉は、私たちが理論学習にのぞむにさいしての基本的な態度を教えています。私たちが学ぶのはたんに博学な物識りになるためではありません。それは社会発展の法則を体得してこれを変革実践の指針として活用するためなのです。もし自分の個人的な狭い経験にたよるだけで理論をもっていなければ、かならず頭打ちとなって失敗するにきまっています。だから、私たちは学習をそれ自体一つのたたかいとして位置づけて、理論を学ばなければなりません。
とはいえ学習を実践のためにということだけで狭くとらえるのも、けっして正しいとはいえません。
学習の根本は、どんな情勢のもとでも、たとえどんな逆境におかれても動揺しない、確固として未来を信じて前進する、そういう世界観的確信を身につけるところにあります。私が座右の銘としている「学習不屈」というのはそういう意味からのものです。
これから先、八〇年代後半から二十一世紀にかけて、日本の歴史は「第三の危機」の時代の激動と変転の目まぐるしい展開をつづけることでしょう。もちろん個人的にもさまざまな苦難や逆境がおしよせてくるに違いありません。
こういうときにこそ、私たちは大いに未来を語り、世界を語る知的なエネルギーの発揮が求められているのです。そうでなければ、歴史の開拓者としてのバイタリティを発揮することはできなくなるでしょう。
戦後第一の反動期の私たちの青春と学習、それは切っても切りはなせないものでした。きびしい情勢のもとでのきびしい生活に明け暮れていましたが、学習は生活の一部でした。かなり乱読傾向でしたが、それでも学習なしの生活などは考えられませんでした。狭い三畳の部屋の机に、妻とさしむかいでピーナツをかじりながら読んだり書いたりしたことが、いまではとてもなつかしい思い出となっています。
とはいえ、学習はそれ自体がイデオロギーのたたかいです。だからパチンコやトランプをやるのとは大ちがいで、根気もいれば工夫もいります。特別の努力が必要です。ちょっとかじって見る、という程度の心がまえではどうしようもありません。
マルクスはいいました。
「学問にとって平安の大道はない。ただその険しい小道をよじ登る労苦を恐れない人々だけが、その輝く頂上にたどりつく幸運にめぐまれるのです」(「資本論」)。
私たちは、学習の「労苦を恐れない」まずそういう立場にしっかりとたたねばなりません。このようにいうと、「それはよくわかる。だが忙しくてとても学習なんかやってる時間がない」という仲間にでくわすことがあります。
たしかにいまいろんな分野で活動している仲間たちは忙しくて、ゆっくり休養する時間もないくらいというのは事実です。
しかしうまくいってるときはそれでよいかもしれません。だが壁にぶつかってうまくいかなくなるときがあります。そういうときに学習して理論的なものをきちんと身につけていないと、あせったり、ふさぎこんだり、いろんな動揺がでてくるものです。
私の体験からも、順調なときにはずいぶん威勢がよかったけれども、暴風にあうとたちまち挫折というケースも少なくありませんでした。
「この点で、われわれが、まだあまりにも、これらの知識を熱心や性急さ等々で補おうとしがちである(あるいは、補いうる)と考えがちであることを、わすれてはならない。……すなわち、第一に、学ぶことであり、第二に、学ぶことであり、第三にも学ぶことである。そしてそのあとで、われわれの科学が真に十分に実際に血となり肉となり、日常生活の構成要素となるように、これを点検することである」(レーニン「量は少なくても、質のよいものを」)。
理論の不足を熱心さでカバーすることはできないということ、学習とはたたかいだからどんなに多忙でもそれを「日常生活の構成要素」に位置づけることが大切です。そうして高い山を登るときのように、一歩一歩ふみしめながら前進することです。「忙しいから学習できない」という人にかぎって、時間ができても学習しない人ではないでしょうか。それはほかでもありません、自分で苦労して理論を学ぶことの重要性がほんとうには理解できていないからです。そこに大もとがあります。
それでもなおどうしても時間がない≠ニいう仲間がいるとすれば、「寝る時間をへらしたまえ」という以外にありません。
この「学習を語る」をとじるにあたって、国際労働運動のすぐれた指導者、ディミトロフの学習のよびかけをもってむすびにかえることにしましょう。
「同志諸君、学ぶこと、あらゆる場合に、闘争の最中でも、自由な身でも、獄中でも、学ぶことが必要である。
学んで闘う。闘って学ぶのだ。
我々は、科学的社会主義の偉大な教訓を活動と闘争における堅固さと結びつけ、原則的な問題での非妥協性と結びつけ、困難に直面した際の勇敢さ、革命的現実主義と結びつけなければならない」(ディミトロフ選集A、大月書店)
(有田光雄・有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版 p243-247)
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◎「時を経るごとにさまざまな色をもってくる読書は、私自身を映す鏡のようにも思えた。社会というものへの見方が育ちつつある私の心を映す、時の鏡に」と。