学習通信041028
◎「事実・現実の世界を認識する」……。

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 感官を訓練することはただそれをもちいることではない。感官をとおして正しく判断することを学ぶことであり、いわば感じることを学ぶことだ。わたしたちは学んだようにしか触れることも見ることも聞くこともできないからだ。

 判断力になんの影響もあたえることなしに体を丈夫にすることに役だつ、純粋に自然的な、そして機械的な運動がある。泳ぐこと、走ること、飛びはねること、コマをまわすこと、石を投げること、こうしたこともすべてたいへんけっこうなことだ。

しかし、わたしたちは腕と足だけをもっているわけではあるまい。目や耳もあるではないか。しかもこれらの器官は腕や足をつかうときに必要のないものではない。だから、力だけを訓練してはいけない。力を指導するすべての感官を訓練するのだ。それぞれの感官をできるだけよく利用するのだ。

それから、一つの感官の印象をほかの感官によってしらべるがいい。大きさをはかったり、数をかぞえたり、重さをはかったり、くらべてみたりするがいい。どの程度の抵抗を示すか推定したあとでなければ力をもちいないようにするがいい。結果を推定することがいつも手段をもちいることに先だつようにするがいい。

不十分な、あるいはよけいな力をけっしてもちいないように子どもに関心をもたせるがいい。そういうふうに自分が行なうあらゆる運動の結果を予見し、経験によって誤りを正す習慣を子どもにつけさせれば、行動すればするほどますます正確になってくることは明らかではないか。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p218-219)

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 病人は自分の病気のことを話したがる!〔気になることがあるとそのことばかり話題にするものだという意のロシアの諺〕 ペツォルトは、感覚を世界の要素だとみなせば、世界は「気化する」(verfliichtigt sich)か、幻影に変わるということを、感じとっているのだ。

そしてお人よしのペツォルトは、感覚をなにか単に主観的なものととってはいけないという但し書きで、事態を救おうと思っている! だが、これは、こっけいな脆弁ではないか?

 われわれが感覚を感覚だとして「受け入れる」にしても、それともこの言葉の意味をひろげようと努めるにしても、このことで事態が変わるであろうか?

 このことで、人間の感覚は正常に機能している神経・網膜・脳などと結びついているという事実、外界はわれわれの感覚から独立に存在しているという事実が、消えさるとでもいうのであろうか?

 もしも諸君が言いのがれで事をかたづけようとのぞまないならば、また諸君が主観主義や唯我論にたいしてまじめに「用心し」ようとのぞむならば、諸君はなによりもまず、諸君の哲学の基本的な観念論的前提にたいして用心しなければならず、諸君の哲学の(感覚から外界へという)観念論の路線を、唯物論の路線(外界から感覚へという)にとりかえなければならず、「要素」という空虚で混乱した言葉のあやを投げすてて、色は物理的客体が網膜に働きかける結果である、すなわち感覚とは物質がわれわれの感覚器官に働きかけた結果である、と率直に言わなければならない。

(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p64)

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事実とは何か

 真理とは事実と一致した認識内容のことだというこの見解は、ごく普通の健全な意味での常識の考え方であり、自然科学や社会科学の通常の考え方です。ところがこのような真理観に反対する哲学者たちがいます。この人びとは「真理とは事実と一致した認識内容のことだ」といっても、そもそもそこでいう「事実」というのは何のことか、そしてその「事実」をわれわれはどのようにして知りうるのかと疑問を出すのです。

 私たちはこれまですでに事実とか現実とか客観的実在とかいってきましたが、これはどんなものを想定していたのでしょうか。これも健全な常識の範囲で考えればよいと思います。つまり事実とか現実とかいうのは、私たちの周囲の草であり木であり、大地であり、山や川であり、家や街であり、地球や太陽あるいは宇宙のことですね。あるいは街や村の人びとがつくっている社会も現実ですね。これらをすべてひっくるめて私たちは事実とか現実とか客観的実在とかいっているわけですね。

 そして私たちがこの事実・現実の世界を認識するのは、私たちの感覚器官(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五官)によっています。この感覚器官を通して得られたデータを思考力(理性や悟性)で整理して私たちの認識はつくられていきますが、ともかく認識の窓口であり、基礎になっているのは感覚器官の働きです(理性や悟性の働きについては後に改めて考えます)。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p63-64)

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◎「感官を訓練することはただそれをもちいることではない。感官をとおして正しく判断することを学ぶことであり、いわば感じることを学ぶことだ。わたしたちは学んだようにしか触れることも見ることも聞くこともできないからだ。」……。