学習通信041029
◎「あなたは真理というものそれ自体を見たことがありますか」……。

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考える

「生きているということは素晴らしい」派の人たちと、「生きているということはつまらない」派の人たちとが、互いに分かれて議論したと仮定してみよう。

「素晴らしい」派の人たちは、こんなふうに主張するだろうか。

 生きているということは、素晴らしいと思います。なぜって、優しい両親がいて、友だちもたくさんいて、学校の勉強は面白いし、こんなに素晴らしいことはないと私は思います。もし生まれてこなかったなら、こんな経験はできなかったのだから、やっぱり生きててよかったと思います。

 「つまらない」派の人たちは、こんなふうに主張するだろうか。
 生きているということは、つまらないと思います。なぜって、両親はうるさいし、友だちは意地悪だし、学校の勉強なんか面倒くさくて大嫌いだ。生きていることなんて、絶対につまらないと僕は思います。こんなことなら、生まれてこなければよかったのに。

 これを聞いて「素晴らしい」派の人は、こんなふうに反論するかもしれない。
 私はそれは間違っていると思います。生きていればいいことだってあるのだから、そんなふうに思うのは間違っていると思います。
 こう聞いたら、「つまらない」派の人は、こう反論するかもしれない。

 でも、生きていれば悪いことだってあるんだ。君がそれを知らないだけじゃないだろうか。だから、単純に素晴らしいと思っている君の方こそ、間違っていると思います。
 こう言われたら、「素晴らしい」派の人は、つい、こう言い返したくなるよね。

 間違ってなんかいないし、間違っていたってかまいません。だって私は本当にそう思うのだもの。そう思うのは私の自由でしょ。
 こう言われたら、「つまらない」派の人は、やっぱりこう言い返すはずだよね。

 それなら僕がそう思うのだって、僕の自由じゃないか。僕は本当にそう思うのだから。間違ってたって、知ったことじゃないよ。

 たぶん議論はもうこれ以上は続かないな。ひょっとしたら、「そんなにイヤなら、なぜ生きてるの」なんて発言まで飛び出して、売り言葉に買い言葉の喧嘩になるかもしれない。あるいは、脇で聞いていた「どっちなんだかよくわからない」派の人が、「個人の自由でいろんな意見があっていいと思います」なんて言いながら、仲裁に入るかもしれない。

 それなら、「個人の自由でいろんな意見があっていい」という、この意見自体は、正しいだろうか、間違っているだろうか。

 君はこれまで、自分の意見を主張できるようになりなさいと言われてきたはずだ。自分の思ったことを、しっかり人に言えるようになりなさい、それが自由ということだ、とね。

 でも、ここでちょっと立ち止まってみよう。自分の思ったことを人に言うということは、自分の思ったことを人に言うということで、いいのだろうか。

 たとえば、さっきの議論の場合、それぞれの人が、それぞれ自分の思ったことを人に言った。どちらも自分の思っていることが正しいと思っているからだ。人は、自分の思っていることが間違っているとわかっているなら、それを人に言うということはしないものだ。なぜだと思う? そりゃ当たり前さ。間違っていると自分でわかっていることを、どうしてわざわざ人に主張したりするものだろう。そんなことをしたら、あの人は間違ったことを正しいと主張してるよって、笑われるとわかっているから、人は、自分が正しいと思っていることしか主張しないんだ。

 でも、だとすると、自分では正しいと思っているんだけど、本当は間違っているという場合は、どうしたものだろう。自分では絶対に正しいと思っているんだけど、本当はまったく間違っていて、そのことに気がつかずに、大きな声でそれを主張しているとしたら、これはすごく恥ずかしいことなんじゃないだろうか。こういう恥ずかしい思いをすることが、自由ということなんだろうか。もしそうなら、自由にものなんか言わない方がいい、自分の思ったことなど人に言わない方がいいのだろうか。

 でも、そんなことをしていたら、自分の思っていることが本当は正しいのか間違っているのか、いつまでも知ることはできないね。だって、自分で思っているだけでは、やっぱり自分でそう思っているだけなんだから。すると、自分の思っていることが正しいのか間違っているのかを知るためには、君はどうすればいいのだろう。

 もうわかっているよね。そうだ、考えるんだ。自分が思っていることが、ただ自分がそう思っているだけではなくて、本当に正しいことなのかどうかを知るためには、考えるということをしなければならないんだ。でも、「しなければならない」と言ったって、べつに誰かが君に強制しているわけじゃない。あくまでも君が、間違ったことではない本当のことを知りたいのなら、ということだ。知りたくないのなら、べつに考えなくたってかまわないんだ。間違った考えで、間違った生き方を選ぶのだって、なるほど君の自由だからだ。誰も君の代わりに君を生きることはできないのだからね。

 よし、それなら本当のことを知るために、考えることを始めようと決めた君、君はまず、「思う」と「考える」が、どう違うのかを考えられるようになろう。

 「自分がそう思う」というだけなら、それが正しいか間違っているかは、まだわからない。自分ではそれを正しいと思っていたのだけど、他の人はそれを正しいとは思っていなかったとか、以前は正しいと思っていたのだけど、今は正しいとは思わないとか、よく気をつけてみると、そんなことばかりじゃないだろうか。だから人は、自分が思っていることが正しいことなのかどうか、常に「考える」ということをするわけだ。

 中にはこう尋ねる人がいるだろうか。でも、たとえば私は花を見て美しいと思うのですけど、私がそう思うのも正しかったり間違ってたりするのでしょうか。花を美しいと思うのが間違っているということもあるのでしょうか。

 これはすごく鋭い質問だ。確かに、花を美しいと思うとか、遊んで楽しいとか、叱られて悲しいとか、そういうふうに「感じる」ことについては、それが正しいかどうかは言えないね。だって、本当にそう感じているのだから。だけど、なぜ自分がそう感じるのかを考えてゆくなら、もっと不思議なことに気がつくはずだ。そう、花を美しいと思う時、それは花が美しいのだろうか、それとも自分が美しいと思っているのだろうか。これはどっちが正しいのだろうか。こう考えてゆくと、やっぱり「自分が思う」の正しさについて、考えざるを得なくなるね。

 あるいは、叱られて腹が立つ。本当に腹が立っているのだから、そのことに正しいも間違っているもあったもんじゃない。でも、ひょっとしたら、腹を立てるというこのこと自体が、間違っていることなのかもしれない。だとしたら、やっぱり考えなければ、間違いには気がつかないはずだよね。

 「本当にそう思う」ということと、「本当にそうである」ということとは、違うことだと覚えておこう。だって、間違ったことだって、自分がそう思っているのだから、「本当にそう思う」と思えるわけだ。でも、間違ったことを本当だと思ったって、間違ったことが本当になるわけじゃない。本当にそうであることは、間違ったことじゃない。やっぱりそれは「正しい」ことだということだ。

 でも、本当に正しいことなんて、どうやってわかるのでしょうか。それが自分が正しいと思っているだけではなくて、本当に正しいことだとどうしてわかるのでしょうか。

 これは当然の質問だ。そしていちばん大事なことだ。君は今、「正しい」という言い方で、どういうことを言おうとしているだろうか。

 こんなふうに考えてみよう。物の長さや大きさを計るために、定規というものがある。誰の持っている定規も目盛りは同じで、一センチは一センチと決まっている。もしこれが、使うたびに目盛りが変わったり、各人の持ち物で目盛りが全部違っていたりしたら、定規は定規の用を為さない。正しく計ることができないのだから、世の中の寸法は狂いっぱなしだし、建物ひとつ建ちやしない。

 これと同じことだ。自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく計れると思っているようなものだ。各人がそういうてんでんばらばらな定規を持って、お互いを計り合い、それが自由だと主張し合っているようなものなんだ。でも、正しく計ることのできないそんな定規を使って生きるなら、間違ってばかりのはずじゃないか。

 しかし、人は、「考える」、「自分が思う」とはどういうことかと「考える」ことによって、正しい定規を手に入れることができるんだ。自分ひとりだけの正しい定規ではなくて、誰にとっても正しい定規、たったひとつの正しい定規だ。それ以外に「正しい」とは、どういう意味だと君は思う?

 そんな定規が本当にあるんでしょうかって、怪訝(けげん)な顔をしているね。

 あるんだ。どこに? 君が、考えれば、必ずそれは見つかるんだ。正しい定規はどこだろうってあれこれ探して回っているうちは、それは見つからない。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。こんな自由って、他にあるだろうか。
(池田晶子著「14歳からの哲学」トアランスビュー p11-17)

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 私たちが自由を獲得したいとすれば、現実を正確に認識していなければならないと先に述べました。ここでその認識について考えてみましょう。哲学者たちは認識についてあれこれとさまざまな角度から論じてきました。

 認識について考えるにあたって、まず「真理を認識する」といういい方があるように、この真理とは何のことかということから考えてみましょう。

 「真理の認識」「真理の探求」「真理は汝を自由にする」「真理はかならず勝利する」などといわれます。そのように私たちは真理という言葉をよく知っていて、日常的にもよく使います。真理とは真実のこと、本当のことであって、わかりきっている、哲学者がごたごたいわなくてもいいという声も聞こえてきそうです。

 しかし真理ということを自明のことだといって済ましていていいでしょうか。たとえば近年、世間を騒がしているオウム真理教という集団があって、まともな宗教とはとてもいえないような集団ですが、彼らなりの真理を語り一定の人びとを信者としてひきつけています。彼らのいう真理は健全な常識をもった人ならばとうてい信じられるようなものではありません。真理といっても人の考え方でいろいろありそうです。

 現代のように複雑で階級に分裂している社会では、人びとの利害関係や立ち場がいろいろ食い違い、考え方も当然分裂していますので、真理といってもみんなが一致するのはなかなか困難だといわねばなりません。この点をむやみに誇張すると真理というのは存在しない、人びとは自分に都合のいいように主張し、それを真理だといっているのだということになりかねません。これでは人類が何万年もかかって築いてきた科学や文化や文明をすべて否定することになりかねません。「地球が太陽の周りを回っている」とか、「生物は進化する」などということは誰もが認める真理といえそうです。

 このように真理はやはりあると認められそうに思われますが、しかし真理があるとはどういう意味でいわれるのか考える必要があります。そこで読者のみなさんに質問してみたいと思います。「あなたは真理というものそれ自体を見たことがありますか。」「真理というものは、どこにどんな形でありましたか。」

 このような質問に答えるのは実は無理です。このような質問の出し方が無理で、意地悪い質問だといわねばなりません。「真理というものそれ自体」などというものは実はどこかにころがっていたりするものではないからです。「真理というもの」といいましたが、実は真理は「もの」として「存在」するわけではないのです。「もの」として存在するのは、事実とか現実とか客観的実在とかいわれる何らかの物質的なものです。

 存在するのは、事実・現実・客観的実在などです。この客観的実在を私たち人間が感覚的器官を通して認識します。この私たちの認識内容が客観的実在と一致することが何らかの形で検証されると、この一致を真理というわけです。つまり真理とは事実と一致した認識内容のことです。

 したがって、先に述べた「真理を認識する」というのは、「客観的現実を認識することにより真理を把握する」という内容を縮めていっているのであり、「真理は汝を自由にする」というのも、詳しくは「客観的現実を認識して真理を把握することによって、あなたは自由を獲得できる」ということになります。「真理はかならず勝利する」というのも、「客観的現実を正確に認識し真理を把握して実践するならば、その実践はかならず成功する」ということを表現しているわけです。

このような詳細で厳密な表現をしていると長たらしくて、力強さに欠ける傾きがあります。実際には縮めて、「真理は汝を自由にする」とか「真理はかならず勝利する」というわけですが、力強くていい表現ですね。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p60-63)

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◎「 これと同じことだ。自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく計れると思っているようなものだ。各人がそういうてんでんばらばらな定規を持って、お互いを計り合い、それが自由だと主張し合っているようなものなんだ。でも、正しく計ることのできないそんな定規を使って生きるなら、間違ってばかりのはずじゃないか。」

◎「真理は汝を自由にする」というのも、詳しくは「客観的現実を認識して真理を把握することによって、あなたは自由を獲得できる」と。