学習通信041030
◎「表面的にはいくらすさんで見える場合でも」……。

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あとがき

 ここまで、「いまどきの若者」の行動や発言を、おおまかに六つの法則に従いながら説明してきた。

 どうだろう。「けしからん」「さっぱりわからない」と感じていた若者たちが、少しは身近な存在になっただろうか。

 「いくら説明されても、やっぱりあの話し方だけは許せない」と思う人もいるだろう。いや、「こんなのが法則だといわれても、納得できない」と、さらに怒りを増幅させる人だっているかもしれない。

 それは当然だ。私自身、この本一冊で若者を語りつくしたとは思っていない。それどころか、正直に言えば、私が理解する。当世若者気質≠ノしても、本当に正しいのかどうかはちょっと怪しいものだ。

 ただ、これだけは思うのである。
 人間として生まれて、心から「自分なんてどうなってもいいや」と思う人はいない。表面的にはいくらすさんで見える場合でも、心の奥では「私が生まれた理由が何かあるはず」と思い、自分を理解し、受け入れてくれるだれかを探している。まったく意味のないふるまいや何の目的もないことばは、ただのひとつもない。これは、精神科医としての臨床経験から私が学んだことだ。

 もちろん、若者だって同じ。彼らの一見、理解しがたい言動の中にも、それなりのわけやメッセージが隠されている。それはたとえば、「私がここにいることを、だれかわかってほしい」であったり、「僕のかけがえのなさを何とかして示したい」であったりする。

そして、大人がちょっとだけ足をとめてそういう若者を見つめてみることは、彼らを理解すると同時に、かつて若者であった自分自身やその人生について、もう一度、考えなおしてみることになるはずだ。さらには、若者も大人もみんながよりよく生きるためには、今の社会をどのようにしていけばよいのか、というヒントもそこには含まれているだろう。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p209-210)

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仲間づくりを進めるための三つの原則

 仲間とは人間であり、人間の集まりであるということが基本です。この基本にたちながら、仲間づくりのための組織活動を進める場合の三つの原則について考えて見たいと思います。

 仲間を組織しようと思えば、第一に要求を基礎に組織しなければなりません。要求をもたない人間は一人もいないという話を先ほどしましたが、その要求はたえず発展するものだという観点が大切です。要求というものは同じ所に同じ状態でいつまでもとどまっているものではありません。低い要求は高い要求へ、部分的一時的要求は全体的統一要求へ、地方的な要求は全国的な要求へとつねに発展するものです。

 だから、要求というものはそれを見つけだし掘りおこす活動が大切なので、要求がないように見えるいまの瞬間を固定して見るようなことがあってはならないのです。要求を掘りおこし、要求を発展させねばなりません。仲間たちに要求を自覚させる活動を進める場合に大切なこと、それは比べて見るということです。つまりある職場(個人)の状態ともっと進んだ状態を比べる、この比べるという方法を通じて、多くの仲間たちは自分の要求に気がつくようになるものです。

 それから要求をキャッチするときの問題ですが、要求はできるだけ単純明快であり、しかも多数の仲間の納得と支持をえられるものであること、そしてある程度実現の見通しのある要求などの諸条件を考えに入れてかかることが必要です。非常に複雑でごく一部の仲間の支持しか得られない、しかも頭から無理だというような要求を組織しようと思っても成功するわけがないでしょう。

 もう一つ重要な問題は、要求をまとめ集約する能力をもたねばならないということです。要求はたくさんでてきたけど、これをまとめることができなければどうしようもないのですから、そのために必要な提案をやれるだけの能力をもたなければなりません。

 仲間たちを組織するにあたって二つめに重要なこと、それは自主性、自発性をもとにして組織するということです。

 実はレーニンといっしょに活動していたトロッキーが、革命後のロシアでは労働者階級は国家権力をにぎったのだから、労働組合は国家組織の一部だと主張したことがありました。そのとき、レーニンは、これに反対してそうではない、労働組合というのはあくまで「強制の組織ではない。それは教育の組織であり、引きいれる組織、訓練する組織である。それは学校であり、管理の学校、経営の学校、共産主義の学校である」(「労働組合について、現在の情勢について、トロッキーの誤りについて」)と強調しました。

 革命権力のもとでの労働組合ですから、トロッキーの主張にも一理あるのではなどと考えると、それは大きなまちがいです。労働者はどこまでも強制や命令でなく、自分自身の自主性、自発性をもとに組織されなくてはならないということ、労働者は勝手気ままに組みたてられる木や石のようなものではだんじてない、ほかならぬ人間なのだから、あくまでその労働者の自主性、自発性をもとに組織すべきだというのが、レーニンの強固な考えでした。

 まず仲間自身が、こういう目的のために自分が団結していっしょにがんばらなければいけないと考えるような、そういう納得の活動が大切だということです。この活動を軽視してこうあるべきだとか、こう進むべきだとかというところから出発して押しつけてみても引きまわしてみても、そういう活動は絶対に成功しないのです。

 まず仲間自身がこの問題は自分自身の利益にとってこういう関係がある、だからどうしても必要だしやらねばならんのだということをどこまで理解しているか、それによって一人ひとりの行動力が左右されるわけです。その意味を深く理解していればいるほど強い行動力が、低くしか理解していなければ弱い行動力しか発揮されない、これは当然のことではないでしょうか。

 さて、最後に三つめですが、仲間たちを元気づけ組織するためには多様な形態で組織しなければならないということです。なぜなのか、それは仲間の要求が多種多様だからです。ある人はある要求に特別に強い関心をもっている、別の人は他の要求に特別に強い関心があるという状態、これは私たちのまわりにごく普通に見られることです。

 だからこの多種多様な要求を何か鋳型を作ってはめこもうと思っても、そんなことはできっこありません。山に登りたい、演劇が好きでたまらない、映画が好きだ、などさまざまな要求をもっている人たちを、さまざまな要求で組織するという観点に立たなければ、私たちは成功しない。その活動が重要なのです。サークルの活動が重要なのは、サークルは仲間たちのこうした要求をもとにその自主性にもとづいた集まりだからです。自発性がもとになっていますから、これはかならず成長します。仲間が成長するとかならず支配に対して目をむけるようになる。だから、経営者や当局はこのサークル活動をいやがるのです。そうしてつぶしにかかります。のっとりにでてきます。

 それがどんなにちっぽけな動機であろうと、どういう方面からのものであろうとも、仲間たちの自発性、自主性というのは資本主義社会においては支配階級に対立する方向に行く、だから資本家階級はつぶしにかかるわけです。逆にいうと、私たちはどんな圧力があろうとも、仲間の自主性、自発性をもとにしてさまざまな形につくっていくということを心がけなければいけない。そこに要求をもった仲間たちがいるかぎり、多種多様な要求を多種多様なかたちに組織していく、そういう立場、そういう観点でのぞむことがとても大切だということです。
(有田光雄・有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版社 p257-260)

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◎「仲間とは人間であり、人間の集まりであるということが基本です。この基本にたちながら、仲間づくりのための組織活動を進める」こと。