学習通信041031
◎「誰にも遠慮なく「いやだ!」と……。

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潮流

 明治の作家・樋ロー葉は子どものころ、「金銀」を、「ほとんど塵芥(ちりあくた)」のようだとさげすんでいたらしい。後に自分で振り返っています。

 「利欲にはしれる浮よの人あさましく……」と▼しかし、二十四年しか生きられなかった一葉は、「金銀」に振り回されました。兄が先立ち、彼女は十六歳で戸主に。事業に失敗した父も死ぬ。彼女が、母と妹を養わなければなりませんでした▼見知らぬ人にまで借金を頼み込んでいます。一時は、投機でもうける相場師になるうとさえ考えます。ある占い師に千円貸してほしいと申し込んだときは、一葉の危機でした。相手が、月十五円で愛人になれと迫ってきたのです

▼もちろん、断った一葉。しかし、そんな体験をヘて、彼女は飛躍しました。貧しく、悲しい女性たちを共感をもって描き、後世に残る作品を生み出していったのですから▼十一月から出回る五千円札の顔になる一葉。彼女の一生を思うと、なにやら教訓めいています。「利欲」に走る大会社や人間が幅を利かす日本。いまも、庶民の多くがつめに火をともすように暮らす日本……

▼一葉は、手紙の手本集も書いています。地震にあった人への見舞い文もあります。新聞に、つぶれずに一軒だけ残った家があるなどと書かれていると、どうかお宅がその幸せな一軒でありますようにと祈るばかり=B手本の文とはいえ、さすがに心がこもっています。さて、たくさんのお札が新潟の被災地へどんどん届けられれば、一葉もきっと喜ぶでしょう。
(041031「しんぶん赤旗」)

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おわりに

 私は一葉の文章を読むたびに、その神業ともいえる見事さに圧倒される。しかしその生き方や、作品の細部や、日々の思いに近づいてみると、私たち誰もが理解できるごくふつうの側面を、たくさんもっていたことにも気づく。たとえば『たけくらべ』では一葉が、町の中で耳にした唄や音曲に心を動かされ、しみじみとしたり浮き浮きしたりした様子が伝わってくる。人は、心を動かされもしないものを、言葉で紡ぐことはできないのである。

 市の賑わいや祭の喧噪にわくわくしたこともあったろう。男の人を美しいと思い、その人に会うたびに、理由もなくどきどきとしたこともあるのだろう。家族を幸せにしたい、喜ぶ顔が見たい、という思いにかられ、なり振りかまわず振る舞ったのも、とてもよくわかる。なんとかしようと思ったことが、結局うまくいかない失望感は、誰でもしょっちゆう味わうことだ。そして、いよいよ「いやだ!」と叫ぶ。

 そんなふうに考えると、一葉は私たちと同じである。もちろん誰も得られないほどの、生まれもった才能があった。深奥にまでしみ込んだ和歌の言葉があった。言葉は年齢が低ければ低いほど、早く深く自分のものになる。

一葉は今でいえば小学校しか出ていない、その代わり、その年齢から吸収した膨大な和歌や古典文学の言葉は、大人になってから学ぶのとは比較にならないほど、血肉化していたはずである。そういう違いがあったのは確かだが、日常生活で感じとる喜びや悲しみやいきどおりは、私たちの日常と同じなのである。

 一葉は「逃げなかった人」だ。もし尋常の人間と違いがあるとすれば、その一点である。現実を直視し、逃げなかった。しかし我慢もしなかった。自分が置かれている状況、直面している現実が苦痛に満ちていたら、まず「いやだ!」と、全面的に拒否した。「いやだ!」という叫びは、現実生活の中には表さなかった。文学という形で、一葉は叫んだのである。そしてそこにとどまり、それを見つめた。その場所で生きつづけた。

 いつの時代もそうかもしれないが、とりわけ今の時代は、たくさんの逃げ道がある。多少働いてお金をもてば、楽しいことがたくさん待っている。苦しい現実から眼をそむけ、とりあえず仮想の世界で遊ぶことができる。いくらでも気を紛らわすことがある。そして毎日気を紛らわしているうちに、人生は終わる。しかし一葉は、一瞬も、自分を世間で紛らわしはしなかった。

 もうひとつ違うことがある。それは「型にはまらない」ということだ。一葉は、当時の社会が用意していたいかなる型にも分類できない。妻でもなく母でもなく妾でもなく教師でもなかった。定まった職業をもったわけではなく、食べるために裁縫もすれば小説も書いた。

 それは心の中も同様である。私は『たけくらべ』が、一度も「恋」という言葉を使わずに恋を描いたことに驚いた。『にごりえ』が、お力の心情にいかなる名前もつけず、その現実に起きる動揺をそのまま書いたことに、なるほど、と思った。一葉は、その時々の気持ちを、分類済みの引き出しには入れない。ただ、その「事実」の中にたたずみ、見つめ、言葉にする。人は往々にして、自分の状態も人の状態も名づけたがるし、名づければ安心する。しかし安心したところから、新しい言葉は出現しないのである。

 一葉を読みながら私は作品よりも、そこに刻み込まれた一葉の人間としての手触りをリアルに感じるようになった。ひとりひとりの子供の心に入ってゆき、廓者の生活に関心をもち、極貧の大道芸人たちの声に耳を澄まし、近くに暮らす娼婦の話を聞き、母の不安を受け止めようとする一葉がいた。

 噂に苦しみ、しかし恋を忘れられず、金銭に苛立ち、祭に酔い、歌を愛し、野心に燃え、この世を拒絶し、それらすべてに背を向け、落ちゆこうとする一葉がいた。

 私はそこに文学ではなく、ひとりの生身の人間を感じるようになった。百八年も前に亡くなった人である。しかし自分自身とどこかでつながり、やがて私の内面に、この世を見つめる一葉の視線が形成された。
 私ももう誰にも遠慮なく「いやだ!」と心の中で叫ぼうと思う。それがなければ、この世にとどまるのは難しいのである。
(田中優子著「樋口一葉「いやだ!」と云う」集英社新書 p197-200)

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◎「いつの時代もそうかもしれないが、とりわけ今の時代は、たくさんの逃げ道がある。多少働いてお金をもてば、楽しいことがたくさん待っている。苦しい現実から眼をそむけ、とりあえず仮想の世界で遊ぶことができる。いくらでも気を紛らわすことがある。そして毎日気を紛らわしているうちに、人生は終わる。」……。