学習通信041103
◎「三日 やったら やめられぬ」……。
■━━━━━
続・笑いについて
一人で笑えるか
人間は孤独なものではない。孤独は人間の本性ではありえない──と、一再ならず強調してきた。かりに、これを@としよう。
ところで、人間は本格的に笑うことのできる唯一の生物であり、笑い、とくにおかしさの笑いは人間の本質と深いところでつながっている。──これもすでに、強調したところだ。これをAとしよう。
「その@とAとのあいだには、なにか関係があるのでしょうか」という質問をうけたことがある。
「ためしに、自分で自分をくすぐってみませんか」と私は答えた。
人間は、一人では笑えない。「思いだし笑い」というのはあるけれど、これは話が別だ。一人ではいなかったからこそ、一人になったとき思いだし笑いをすることもできたのだ。
じっさい、一人だけで笑えるか。一人で自分をくすぐってみたって、おかしくもない。笑えやしない。
「くすぐり笑い」の正体については、じつはまだ、私としてはじゅうぶんにつかみかねている点がある。「くすぐる」とは「わきの下や足の裏などの皮膚を刺激して、ムズムズする笑いたいような気もちをおこさせること」と辞書にあるとおり、それが生理的なものであることはまちがいなかろうが、単純にこれを「生理的快感の笑い」に分類することはできないように思う。「生理的快感の笑い」は「うれしさの笑い」ともいわれるが、くすぐられればうれしくなるというよりは、おかしくなる、というのが実際のところではなかろうか。
それはともかく、この「おかしさ」の感情が、他人にくすぐられたときにかぎっておこるということ、これはなかなかに意味深いことだと思う。私にいまいえるのは、そこまででしかないけれど……
笑い声よ、おこれ
もっとも私は、くすぐりの笑いをもって笑いの典型だなどと考えているわけでは、けっしてない。
「くすぐり」ということばは、古くは「こそぐり」「こそくり」といった。この「こそ」というのは、「サビをこそげおとす」などという場合の「こそ」と同根で、ゴシゴシとこする、かきけずる、といった意味をもち、つまり力ずくの行為というニュアンスがある。そこから「くすぐる」といえば「こっけいなことをいったりして、無理にも人を笑わせようとする」という意味にも使われる。
最近のテレビで見る漫才や落語や笑劇のたぐいには、この種のくすぐりがやたらと目につくような気がする。つまり、おかしくもないのに無理矢理、暴力的に笑わせようとするようなのが。これは、笑いの芸術の堕落だと思う。
悲劇は高尚な芸術だが、喜劇は低級な芸術だ、といったような考えには、私は断固として反対だ。それだけに、笑いの芸術の堕落、低俗化を、私は国民的危機そのもののあらわれとして心から憂慮する。そして、たくましい笑いの芸術よおこれ、と心から願う。
「コント55号も、はじめはおもしろかったんだがなあ」とA君がいった。
「でも、無理矢理笑いを強制するみたいなのがふえるにつれて、急速に人気、落ちたね。加藤茶もそうだね」
「いまの欽ちゃんはどうだろう」とB君がいった。
「なかなかいい線いってると思うけどな。ときどきあぶない橋をわたるけどね。欽ちゃんガンバレ、といいたいな」
同感だ。
マルクスの笑い
もっとも──と再度、つけくわえなければならない。あらゆるくすぐりが堕落だなどというわけではない、と。
くすぐりっこをしてキャアキャアさわぐ子どもを見ているのは、たのしいものだ。そういうくすぐりもあるわけだ。他方、たとえば福田赳夫なんかがすりよってきて、私のからだをくすぐったとすれば、嫌悪感で全身に鳥肌がたつだろう。怒り心頭に発して、思わずぶんなぐってしまうかもしれない。
同様に、ことばによるくすぐりにも、いろんな場合があるだろう。
ことばによるくすぐりのもっともポピュラーなものは語呂じゃれだが、語呂じゃれにもいろいろある。もっぱらことばの遊戯をたのしむだけのものもあるし、悪ふざけに類するものもあり、さらに、痛烈な批判をふくんだものもある。
たとえば、漫才などによくでてくるつぎのようなのはどうだろう。
「おれは、いやしくも一家のあるじやぞ」
「なにがあるじや、わらじみたいな顔して」
もっとも、漫才の場合はたいていそのあとに、「そういうお前はなんや、下駄の裏みたいな顔して」というふうなうけこたえがつづいて、それによっていっそう効果的に批判するものとされるものとを対等平等の地盤にたたせるのだが、これは登場人物が庶民夫婦だから生きてくるので、総理大臣となれば、そうはいかない。
「私は、一国のソーリ(総理)といたしまして……」というのにたいして、「何がソーリや、ゾーリみたいな顔して」とやれば、そこで「それまで。勝負あった」ということになるだろう。
マルクスはこの種の語呂じゃれの名手でもあった。
「フォークトさんて、どこのお代官や?」
「ないない町の先祖代々のお代官や」
「角のとれたお人やそうやな」
「なるほど、まるまるとふとってはるわ」
これは、マルクスの著書『フォークト君』の書きだしの文章の、忠実な漫才風通訳だ。
フォークトとは、ドイツの俗流唯物論者でニセ急進派、のちフランス皇帝の秘密の手先となり、マルクスらにたいする時間と空間を超越した誹膀中傷カンパニアの音頭とりをつとめた人物であった。
歴史のなかの喜劇
こんなのはどうだろう。
「大馬鹿て、なんや?」
「人を小馬鹿にするやつのことや」
こんなのもある。
「問題児て、なんや?」
「親や教師に問題をあたえる児童のことや」
それから、こんなのも──
「民主主義て、なんや?」
「ジミンの、ジミンによる、ジミンのための政治や」
いうまでもなく、これはリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」のもじりだ。その自民党とその政府は、口をひらけば「日本は法治国家だ」という。が、その実態は──
「法治国て、なんや?」
「わるいことをしたがさいご、よほどカネでももっておらんと法律で罰される国や」
以上はいずれも、まえに紹介したことのある『国語笑字典』(郡司利男、カッパ・ブックス)からぬいて、漫才ふうにアレンジしたものだが、なんという痛烈な批判だろう。
これらのもたらすおかしさの笑いは、ものごとの本質があざやかに露呈されるところに生じるものだ。
もっとも──と三たび、ここでつけくわえなければならない。おかしさの笑いといってもいろいろある、と。
たとえば、このようにものごとの本質があざやかに露呈されても、その認識が一人だけのものとしてあるあいだは、「しょせんこれが現実というものさ」というゆがんだ笑い、自嘲の笑いとしかなりえない場合がしばしばであろう。
露呈された本質が深刻なもの、悲劇的なものであればあるほど、そうなる。
が、本来、笑いの芸術は、多数の民衆のまえで演じられるものであった。狂言、落語、漫才、みなそうだ。そこでは、あばきだされる本質についての認識は、多数によって共有される。
そこに笑いは高らかな声となって、そのたくましさのなかに現実を変える力が充満していることを告知する。
一つの時代の産物が墓場へとはこばれる最後の局面は、喜劇というかたちをとる、というマルクスのことばが思いだされる。
「それは、人類がほがらかにその過去とわかれるためだ」とマルクスは書いていた……(『ヘーゲル法哲学批判序説』国民文庫、三三六ページ)。
「有事体制」と笑い
それだけに、社会の進歩にさからおうとするものは、笑いを極力、おさえつけようとかかる。
戦時中がまさにそうだった。漫才や軽演劇の世界では、留置所入りがあいついだ。──もちろん、その笑いのふくむ批判が問題とされたのだが、しまいには、人を笑わせること自体が不真面目だとされるようになった。
たとえば柳家金語楼は、戦時中、落語家としては認められず、俳優として登録されていたが、その理由はといえば、「その顔がおかしくて、顔を見るだけで客が笑うのは、この戦時下という時勢にふさわしくない。役に扮して、そのために客が笑うなら、まだ許される」というのであった、と永六輔さんが書いている(『芸人たちの芸能史』文春文庫)。
「あきれたぼういず」というコメディアンのグル一プは、「この非常時にあきれている奴があるか」と叱られて、改名を余儀なくされたし、ついには、一席やって客席が笑うと、舞台から「この非常時に笑うな!」と叫ぶ漫才師もあらわれた、とやはり永さんが書いている(同)。
「非常時」とは、いま問題になっている「有事立法」の「有事」ということだ。「有事」体制のもとでは、笑いが抑圧される。過去の話だけではない。現に韓国の朴政権は、コメディー禁止令をだしたのだ。
韓国の話だけではない。一九五〇年、朝鮮戦争の前夜には、全国的にいっさいの集会、デモが禁止され、わが国は文字どおりの「有事体制」下におかれたが、そのなかで早大の落語研究会も禁止をくらったのだった。
それだけではない。戦後NHKの人気番組だった「日曜娯楽版」も、その後身の「ユーモア劇場」も、鋭い政治風刺コントが目玉だったが、そのために、その筋からの圧力がかかって姿を消した。その筋からのこの圧力が問題になったとき、読売新聞の「さろん」欄は「ユーモアを殺すことは、国民の個性と独創力を殺すことだ」と書いた(一九五四年五月二八日)が、それから半月後の六月十三日の放送がついにユーモア劇場の最後となり、そしてそれ以後、NHKからは政治を風刺する番組はなくなった。
一九五四年といえば、毎度登場するA君たちが生まれたか生まれなかったかというころだ。A君たちの世代について「シラケ」ということばがさかんにつかわれてきた。私はA君たちの世代が「シラケ世代」だということを全面的に肯定するものではないが、そこになんらかのていどにおいて真実の反映があるとすれば、それは右に述べたことと無関係ではあるまいと思う。
笑いをまもれ!
(高田求著「新 人生論ノート」新日本出版社 p147-155)
■━━━━━
「日曜娯楽版」の脚本抜粋
呼声 日曜娯楽版
先生 政治家とは何でしょう、──知っている者は手をあげて。
声々 先生、ハイハイ、ハイハイ、ハイハイハイハイ
先生 ほう、みなさん知っているようですね、―よろしい、大いによろしい。ハイ、それでは歌野プロローグさん。
声A (元気よく)ハーイ
○歌
一、政治家なんぞというものは
人民どもの 小使いで
まじめ リチギに やってたら
ビンボーぐらしをせにゃならぬ
それでも みんなが やりたがる
それでも みんなが やりたがる
二、ネコも シャクシも 政治家に
なりたがるのは なぜだろか
どんなワケかは 知らないが
なんだか よいワケ あるらしい
それゆえ みんなが なりたがる
それゆえ みんなが なりたがる
アナウンサー
政治家志望が、ネコもシャクシもの時代に際して、お好み教育は、政治家速成大学、特別講座、──今をはやりの通信教授、によって開催することにいたします。講座の担当を紹介いたしますと、教科書の作成が、日本娯楽党常任委員、J・J・J、講師は三木トリロー音楽教授グループー。
この教科書にこの講師、果していかようなことになりましょう、──政治家はこれだけは心得おくべしの三十分。
よろしく御傾聴のほどを、──。
(中略)
○S.E(囃、鳴物、──鈴ケ森)──始まる──下に持つ
長 お赤けえの、お待ちなせえ
権 待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかナ。
長 さようサ、白タビ方の御屋敷へ多く出入のわしが商売、それをかこつけ有(あり)やうは、遊山半分大磯から、保守合同で思はぬヒマ入り、どうやら泊りの小菅から、嬉しシャバヘの戻りカゴ、通りかかった代々木村、お赤えお方のお手の内、あまり見事と感心いたし、思はず見とれてをりやした。まァゲンコツはお納めなせえまし。
権 流石はボスのそのお尋ね、蹟く石も縁の端、力と頼むそこもとの、御家名きかぬその先に、名のる拙者が姓名は、急進党の卵にして、当時フラクの赤井権八と申す者。してそこ許の御家名は。
長 問はれて何の某と、名のるやうな政治屋でもござりませぬ。身は住みなれし政界の、江戸で噂の白タビ組、番頭の黒ベエといふ、イヤモ、ケッチな野郎でござりまする。
権 スリャ、そこもとが外国筋まで、ギャングといはれて隠れもねえ、黒ベエ様にござりますか。
長 イヤ大違ひだ。私は何の役にも立たぬウドの大木。しかし強いものならよけて通り、弱いやつならビシビシしぼり上げて、容赦するもんぢゃごぜえやせん。ここに取り出す一巻は、先祖伝来の政治家はこれだけは心得おくべし≠ニいふ巻物、これにいつちくわしく心得が箇条書にしてござりまする故、とっくりとお読み希って貰ひやせう。
○S.E──C.F
○ダウン・コード
声 一つ、政治家は理論的なるべし。
A つまり、わが党の代議士は、ナグるような客観状勢を構成させられたから、ナグったのであって、ゲンミツにいえば、ナグったのではない。
ナグらせられたのである。
原因の責任は保守党にある。
──日本急進党。
B わが党の代議士はナグらせるような客観状勢を構成させられたからナグらせたのであって、ゲンミツにいえば、わが党の代議士はナグらせられられたのである。
責任は急進党にある。
──日本保守党。
A いや、ナグらせられられられたのである。
──日本急進党。
B いや、ナグらせられられられられたのである。
──日本保守党。
○新・コントプリッジ
声 一つ、政治家は音楽を心得べし。
歌 (ポカシャンシャンの歌)―止む
ポカシャンシャン
ポカシャンシャン(くり返す)
これは一体 何の音
分りませんか それならば
教えて上げます よくおきき
民主国会大さわぎ
右と左がいりまじり
ゲンコツふりあげ なぐり合い
俺を知らぬか侠客だ
子分ひきつれおどかせば
マルクス・レーニンおあずけで
お手を拝借仲直り
ポカシャンポカシャン(くり返す)
声 一つ、政治家は発音を正確にすべし。
S.E(パチパチパチパチ──拍手)──止む
議長 エー、只今の決議案に賛成の方は御起立を希います。
S.E(ガタガタガタガタ──起立の音)──止む
議長 多数、──絶対多数と認めます。
S.E(パチパチバチパチ──拍手)──止む
議長 (読む、威厳のある声で、……)今回の不祥事件に鑑み、議場内に於ける暴力を、排除するための暴力を、排除するための暴力を、排除するための暴力を……
ヤジ (声々)読み違えするナー
議長 読み違えではありませんぞ! エー暴力を排除するための暴力を排除するために行使 する暴力に対して、われわれはダンコ反対する。
右、決議す。
(中略)
○新・コントブリッジ
声 一つ、政治家は童心を失うべからず。
○歌(代議士の歌)──始まる──止む
一、ゴンベが入れた
代議士先生は
大人しいナ
たまに出たら
ハナから提灯
出したり入れたり
コックリコックリねてた
一、クマさんが入れた
代議士先生は
ふとっているな
朝からマッカ
お酒を飲んで
天下を憂い
ワツハハワツハハわろた
一、花ちゃんが入れた
女の先生
黄色い声出すナ
男は度胸
女は愛嬌
古いとケナシ
ツンケンツンケンしていた
一、あんちゃんが入れた
代議士先生は
威勢がいいな
ゲンコツ振って
ノド首しめて
バカヤローメと
ボカスカボカスカぶった
(中略)
声 一つ、政治家は時代を超越すべし。
○歌(チョンマゲ時代のことじゃない)──始まる──止む
一、俺はヤクザの旅烏
義理と意気地の男ダテ
議会に打って出たからは
理クツ問答ぬきにして
反対党をブチノメセ
オヤマカホントに驚いた
ホレ
チョンマゲ時代のことじゃない
二、俺は理論家唯物論
理論闘争じゃ負けないが
ドス・パチンコにゃ勝てません
理クツ問答ぬきにして
一杯のませキゲンとる
オヤマカホントにオドロイタ
ホレ
チョンマゲ時代のことじゃない
(中略)
○S.E──F.0
○ダウン・コード
甲 いや、そんなにありませんよ。やっと、九万五千です。
乙 そんなバカな話はない。これだけの場所で、四十八万の査定は、むしろ非常に少い方ですよ。いくらなんだって、九万五千にはまけられない。
甲 でも本当に、九万五千なんですからネ。
乙 じゃ証拠を出して見給え。確実な証拠がない以上、絶対、四十八万と査定する。
女 あの税務署の人、外務省に行って貰って、外務省の人が税務署に来てくれると有難いんだがネー。
○前奏(異国の丘)──始まる──下に持つ
声 政治家は正確なる数字を用意すべし。
子供 オトーちゃん、四十八万八千七百二十九と九万五千とじゃ随分違うね。どうしてソ連と日本じゃ勘定が違うんだろう。
父 それがつまり、カワセレートさ。
○歌(異国の丘──一節)──上に──止む
(中略)
声 一つ、政治家は心臓を強くすべし。
○歌(トコトンの歌)──始まる──止む
私の心臓は このように
トントコ トントコ トントコトン
あなたを愛しているけれど
トントコ トントコ トントコトン
あなたは一向知らぬ顔
あなたは私が嫌いなの
あなたは恋が嫌いなの
トントコ トントコ トントコトン
どういうわけだか 分らない
トントコ トントコ トントコトン
声 一つ、政治家はユーモア颯剌のたぐいをダンコ排撃すべし。例えば冗談音楽の如きは耳にすべからず──
○冗談音楽
○歌(エピローグ)──始まる──止む
一、なるほど セイレン ケッパクで
りっぱな お方も あるだろが
りっぱなクチだけ きいといて
何にも やらない 人もある
そこが 政治家と いうものさ
そこが 政治家と いうものさ
二、右や 左や 中道と
いろとりどりに あるけれど
およそ 政治家というものは
いまも 昔も かわらずに
三日 やったら やめられぬ
三日 やったら やめられぬ
アナウンサー
政治家はこれだけは心得おくべし£ハ信教授、──せいぜい御勉強を続けて下さい。
なお分らぬところは、毎日の新聞を克明によむように≠ニは
講師面々の伝言でございます。
くれぐれも御勉強のほどを。──
○歌(娯楽版しまいの歌)──始まる──止む
以上が、約三十年前の「日曜娯楽版」であるが現在はロッキード事件という恰好な題材がある。しかしNHKはもちろんのこと、民放にもこの種の風刺番組は出ない。そういう意味では国民の批判精神はかなり逆行してしまった印象さえあるのだ。
民放には英国国営放送BBC製作の「モンティ・バイソン」という風刺番組が出ているが、これはナンセンスが徹底していて、かなり非現実的であるが、しかし現職の首相の顔をこま切れにしてアニメイトしたり大胆なことをやっている。我々の神経では国営放送がと思うのだが、その点、英国の政府は、この種の諷刺やジョークに対しては大幅に寛容なようだ。
「日曜娯楽版」の終末時、この寛容とは、うらはらで、指揮権発動をしつこく諷刺したのが振って政府の圧迫がNHKに加わり、ついに消滅した。その時、偶然、そのことを前以って知った私は朝日の社会部に知らせて社会面のトップに特種で報道された。トリローは世の人々の哀惜の声と共に華々しく引退したのであった。そしてそれっきり日本の放送界からいや芸能界からは、この種の諷刺は消えて去ったというべきであろう。
そして往時のプロデューサー丸山鉄雄氏が投書棚で、替歌で罰を散じているのである。
(飯沢匡著「武器としての笑い」岩波新書 p42-55)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「おかしくもないのに無理矢理、暴力的に笑わせようとするようなのが。これは、笑いの芸術の堕落だ」と。
◎右や 左や 中道と
いろとりどりに あるけれど
およそ 政治家というものは
いまも 昔も かわらずに
三日 やったら やめられぬ
三日 やったら やめられぬ