学習通信041104
◎「「見えている世界がすべて」だと思い込んでいる」……。
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一八九九年には、われわれがまえに見たように、ボグダーノフは正しい観点にたっていたが、そのときかれはこう書いた、「視覚によって私に直接にあたえられているところの、私のまえに立っている人の像が、感覚である」。自分のこのかつての見解を、ボグダーノフは批判する労をとっていない。
かれはマッハの言葉を盲信し、かれに従って、経験の「要素」は物理的なものおよび心理的なものにたいして中立的である、とくりかえしはじめている。「最新の実証哲学があきらかにしているように、心理的経験の要素は、物理的経験の要素と同一であるから、一般にあらゆる経験の要素と同一である」と、ボグダーノフは『経験一元論』第一巻で書いている。
あるいは一九〇六年には、つぎのように書いている、「『観念論』について言えば、『物理的経験』の要素が『心理的経験』の要素ないしは要素的感覚と同一のものだということが認められるという理由だけで──このことはまったく疑いえない事実であるのに──観念論だと言うことができるであろうか」と。
ここにこそ、ボグダーノフのいっさいの哲学的不幸の真の根源、かれがすべてのマッハ主義者と共通にもっている根源がある。「物理的経験の要素」(すなわち、物理的なもの・外界・物質)が感覚と同一のものと認められる場合には、観念論だと言うことができるし、またそう言わなければならない。
なぜなら、これはバークリ主義以外のなにものでもないからである。そこには、最新の哲学とか実証的哲学とか、また疑いえない事実とかの痕跡すらない。そこにあるのは、たんに古い、至極古い観念論的脆弁だけである。
そして、もしも諸君が、物理的なものは感覚と同一であるという「疑いえない事実」をどのようにして証明するのか、とボグダーノフに問えば、諸君は、観念論者が永遠にくりかえすつぎのような言葉のほかには、なに一つの論拠をも聞きはしないであろう、すなわち、私はただ自分の感覚を感じとるだけであるとか、「自己意識の証言」とか、あるいは(「われわれは感覚する実体である」としめすところの)「われわれの経験においては、感覚は、実体性よりもいっそう確実にわれわれにあたえられている」とか、その他その他。ボグダーノフは(マッハを信じこんで)反動的な哲学的言いまわしを、「疑いえない事実」だとした。
なぜなら、実際には、感覚を外界の像として認める見解──一八九九年にボグダーノフがいだいており、また今日でもなお自然科学がいだいている見解──を反駁するような事実は一つもあげられなかったし、またあげることができないからである。物理学者のマッハは、その哲学的迷走のなかでは、まったく「現代の自然科学」から脇にそれていった、──ボグダーノフには気づかれていないこの重要な事実については、われわれはさらにたくさんのことを、あとで語ることになるだろう。
ボグダーノフが自然科学者の唯物論からマッハの混乱した観念論にこんなにも早く飛びうつるのを助けた事情の一つは、(オストヴァルトの影響のほかに)経験の依存的系列と独立的系列というアヴェナリウスの学説である。
ボグダーノフ自身、『経験一元論』の第一巻で、このことをつぎのようにのべている、「経験にあたえられたものが、一定の神経系統の状態に依存してあらわれるかぎりでは、それらあたえられたものは、一定の個人の心理的世界を形づくる。
経験にあたえられたものが、このような依存関係のそとでとらえられるかぎりでは、われわれのまえには物理的世界がある。それゆえに、アヴェナリウスは経験のこれら二つの領域を、依存的系列および独立的系列としてしめしている」。
まさに、ここに不幸があるというものだ。すなわち、(人間の感覚から)独立的な「系列」というこの学説は、物体は感覚の複合であり、感覚は物理的なものの「要素」と「同一のもの」だと唱える哲学の観点からすれば、不当で、勝手気ままで、折衷的な、唯物論の密輸入である。
なぜなら、諸君が、光源と光波が人間から、そして人間の意識から独立に存在し、色というものはこうした波動が網膜にあたえる作用に依存していることを認めるならば、諸君は事実上、唯物論の観点にたったのであり、すべての「感覚の複合」や、最新の実証主義によって発見された要素や、その他これに類するくだらないものすべてとともに、観念論の「疑いえない事実」をすべて根本的に破壊しさっているのだからである。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p67-69)
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目ができたから、世界ができた
最初にちらっと言ったんだけど、「目はものを見るためにあるのか」……多くの人はそう信じて疑わない。でも、ほんとにそう? たぶん違うな。まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、というふうに世の中の多くの人は思っているけど。
ほんとはまったく逆で、生物に目という臓器ができて、そして、進化の過程で人間のこの目ができあがって、そして宇宙空間にびゅんびゅんと飛んでいる光子(フォトン)をその目で受け取り、その情報を解折して認識できて、そして解釈できるようになって、はじめて世界が生まれたんじゃないか。
言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。
もしみんなが魚の日を持っていたら、たぶん全然違った世界の解釈をしていると思う。ニュートンは人間の目を使って〈世界〉を観察して、「ニュートンの三大法則」をつくったわけだ。カエルだったらおもに動いているものしか見えなかったりするわけでしょ。そうしたら、カエルにとっては「ニュートンの法則」なんか成り立たない。カエルの目だったら「質量保存の法則」なんてまちがっているし、無意味だ。そういう話。
ここから一気に、もっと深い話になる。いまついてきてる? 何か質問あるかな?
→いまのちょっとよくわからないんですけど、みんなわかるの? 先に目ができて、目ができたから、それで見えるように……。目という臓器ができたから、それに対応してまわりも、それに即して……。でも、世の中はあるわけですよね。
物質世界としては人間がいる前からきっとあっただろうけれども、こういうふうに見えているというのは、人間が勝手にこういうふうに見ているだけの話であって、違う動物の目を仮に移植されたらまったく違う世界がそこにあって、だとしたら、それはもう世界として違うんだよ。
→質的に世界は同じだけど、見え方、見方が違うという……?
見え方が違ったら、脳にとっては別物だよね。だって、人間の心や意識はすべて脳が解釈しているわけだから、もはや質的に一緒とも言えなくなっちゃう。よく考えてみるとわかると思うんだけど、どう? もう少し考えてみる?
たとえば、光の三原色ってあるよね。赤・緑・青の3種類の光さえあれば、世の中のすべての色はつくることができるってやつね。ブラウン管テレビの画面を虫メガネで拡大して見ると、「赤・緑・青」の画素がびっしり並んでいるのが見えるよ。ちなみに、人間が識別できる色の数は700万色と言われている。すごいよね。
考えてみれば700万種類もある色が、たった3つの光の波長に還元されちゃうんだから、光の三原色っておもしろいよね。この三色の原理って、ずいぶんと古い時代から人間はちゃんと知っていた。そして、後世に「生物学」が発達して、目という臓器に科学のメスがおりると、なんとまあ、その赤・緑・青の三色にまさに対応した色細胞が網膜から見つかって世の中の人は驚いたんだ。「三色の原理は生物もちゃんと知っていて、それに対応させて網膜を発達させたんだな。……人間の目とは、やはりうまくできているもんだなあ」と。
でも、それってそんなに驚くべきこと? だってさ、ほんと言うとこれって当然なんだよ。光というものはもともと三原色に分けられるという性質のものじゃないんだ。網膜に三色に対応する細胞がたまたまあったから、人間にとっての三原色が赤・線・青になっただけなんだよ。もし、そこにさらに赤外線に反応する色細胞もあったら、光は三原色じゃなくなるよ。
つまり何か言いたいのかっていうと、赤・線・青という電磁波の560ナノメートル、530ナノメートル、450ナノメートルという波長の三色しか見えないから、世界がこういうふうにしか見えていないってわけ。たとえばだよ、もし、もっと長い波長のラジオ波なんかが目に見えちゃったりしたら、すごいことになっちゃう。ラジオ波はとても屈折しやすいから、つまり、まっすぐには飛ばないから、見える物がゆがんでしまう。建物の向う側にいる人まで見えちゃう。そしたら、もう単純線形な物理法則は成り立たないね。
でも、実際の人間の目は、世の中に存在する電磁波の、ほんの限られた波長しか感知できない。だから、本来限られた情報だけなのに「見えている世界がすべて」だと思い込んでいる方が、むしろおかしな話でしょ。
その意味で、世界を脳が見ているというよりは、脳が(人間に固有な特定の)世界をつくりあげている、といった方が僕は正しいと思うわけだ。
→昔、ほかの人の目を自分に移植したら、たとえば赤が赤じやなかったりするのかな、なんてことを思ってみたり、その人は「赤」と言っているけども、その人から見る「赤」と、自分が見てる「赤」というのは違うのかな、という疑問。
同じだという保証はないよね。その議論の場合は目を移植するんじやなくて、脳を移植するってことだね……。だって目は実際に違うんだよ。男の人の100人に2〜3人は「赤」が見えないの知ってるかな。そういう意味で、目は移植したらたぶん違うふうに見えちゃうと思う。
でも、脳を移植したらどうだろう。我々が小さいときから「これは青だ」と教えられているから「青」というけれども、ほかの人にとってこれがいわゆる「私にとっての青」と同じ「青」なのかというのは微妙だよね。ほかの人にとっては「赤」に見えているかもしれないけど、その人も小さいときから「それは青だ」と習ってきたからこれを「青」という名前で呼んでいるだけなのかもしれない。
むしろ、他人と一緒だと考えない方がいいかもしれないよ。だからこそ、〈好きな色〉って人によって違うでしょ。ある人は「赤」が好きだし、ある人は「緑」が好きかもしれない。そういったところのバラエティが出てくるというのも、脳が一つひとつがバラバラで、しかもほかの人とつながっていないからだという見方もできるよね。
(池谷祐二著「進化しすぎた脳」朝日出版社 p143-147)
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記憶と推論とは本質的にちがう二つの機能であるとはいえ、それらはあいともなわなければほんとうに発達しない。理性の時期のまえには、子どもは観念ではなく映像をうけとるのだ。
そして映像と観念とのあいだには、一方は感覚的な対象そのものの写しであるが、他方は、いろいろな関連によって規定される対象の概念である、というちがいがある。
映像はそれを見る精神のうちに単独に存在することができるが、観念はすべて他の観念の存在を予想する。
思い浮かべているときは見ているにすぎない。
理解しているときはくらべているのだ。
わたしたちの感覚は純粋に受動的だが、わたしたちの知覚あるいは観念はすべて、判断を行なうある能動的な根源から生まれてくる。このことはあとで証明することになる。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p163)
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◎「諸君が、光源と光波が人間から、そして人間の意識から独立に存在し、色というものはこうした波動が網膜にあたえる作用に依存していることを認めるならば、諸君は事実上、唯物論の観点にたっ」ている……。