学習通信041105
◎「経験してわかる」……。

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──このことは、さまざまに異なった哲学上の党派が、すなわちさまざまに異なった方向の哲学者たちが、共通して認めていることである。

もしも諸君が、すべて存在するものは感覚であるとか、または物体は感覚の複合であるとかということから出発するならば、諸君は、自分のすべての基本的前提、「自分の」哲学全体をくつがえさないでは、われわれの意識から独立に物理的なものが存在するとか、感覚は一定の仕方で組織された物質の機能であるとかということに到達することはできない。

マッハやアヴェナリウスは、自分の哲学のうちに、観念論的な基本的前提とあれこれの唯物論的結論とを混合させているが、それは、かれらの理論が、それにふさわしい軽蔑をもってエンゲルスが言ったような「折衷的な雑炊」の見本だからである。
(レーニン著「唯物論と経験批判論-上-」新日本出版社 p74)

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まえがき

 力−ル・マルクスは、一八五九年にベルリンで出版した『経済学批判』の序言のなかで、われわれ二人が、一八四五年にブリュッセルで「ドイツ哲学のイデオロギー的見解に対立するわれわれの見解」──この見解とはおもにマルクスによって仕上げられた唯物論的歴史観であるが──「を共同でまとめあげ、実際にはわれわれの以前の哲学にかんする考え方をかたづける」ことに、どのようにとりかかったかを述べている。

そして「この目論見はヘーゲル以後の哲学の批判という形でおこなわれた。この原稿は部厚な三冊の八つ折り判からなっており、よばど以前にヴェストファーレンの出版所にとどいたのであるが、その後、われわれは、事情がかわったので出版できなくなったという通知を受けた。われわれは、すでに自分自身に問題をあきらかにするというわれわれの主要な目的をなしとげていたので、よろこんでその原稿をねずみのかじるがままの批判にゆだねたのであった」と語っている。

 それ以来、われわれのうちのどちらにもこの題目にたちかえる機会がないままに、四〇年以上の年月がながれ、そしてマルクスは世を去ってしまった。ヘーゲルにかんするわれわれの関係については、われわれはあちこちで自分らの考えを述べたが、しかしどこでも包括的な関連で述べたことはなかった。フォイエルバッハについては、彼はなんといっても多くの点で、ヘーゲル哲学とわれわれの見解との中間項をなしているが、一度もわれわれはたちかえることがなかった。

 かれこれするうちに、マルクスの世界観は、ドイツの国境をはるかにこえ、ヨーロッパの境をもこえて、世界の文明化した国ぐにの言語のうちに、その代表者をみいだすようになった。他方では、ドイツ古典哲学は、外国で、とくにイギリスとスカンジナビアで、ある種の復活を経験しており、ドイツにおいてさえ、そこの諸大学で哲学という名のもとでさじ飲みされている折衷的な雑炊には、人びとはあきはててきたようにみえる。

 このような事情のもとでは、ヘーゲル哲学にかんするわれわれの関係、われわれがこの哲学から出発し、それにまたそれから分かれたことについて、かんたんな、まとまった叙述をするのが、私にはますます必要になってきているように思われた。

同様にまた、私には、われわれの疾風怒濤時代にヘーゲル以後のすべての他の哲学者たちにもましてフォイエルバッハが、われわれにあたえた影響を十分に承認することが、いまだに返済されていない負債であるように思われた。そこで私は、雑誌『ノイエ・ツアイト〔新時代〕』の編集部が私にフォイエルバッハについてのシュタルケの本を批評するようにたのんできたとき、よろこんでその機会をとらえた。私の論文は、同誌の一八八六年、第四号と第五号とに発表されたもので、それをここに校訂をくわえた単行本として公刊するのである。

 私は、これを印刷にまわすまえに、一八四五年から四六年にかけて書いた古い原稿を、もう一度とりだして目をとおしてみた。フォイエルバッハにかんする節は、完成されていない。できあがっている部分は唯物論的歴史観を説明したものであるが、その説明は、経済史についての当時のわれわれの知識がまだどんなに不完全なものであるかを証明しているにすぎない。フォイエルバッハの学説そのものの批判はそこには欠けており、したがって、いま当面している目的のためには、この古い原稿は役にたたなかった。

それにひきかえ、私は、マルクスの一冊の古いノートのなかに、フォイエルバッハにかんする一一のテーゼ──本書の付録として印刷されている──をみいだした。それは、あとで仕上げるための覚え書きであり、急いで書きつけたものであって、印刷するつもりのものではまったくないが、しかし、それは新しい世界観の天才的萌芽が記録されている最初の文書として、はかり知れぬほど責重なものである。
 ロンドン、一八八八年二月二一日
      フリードリヒ・エンゲルス

(エンゲルス著「フォイエルバッハ論」新日本出版社 p7-10)

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 私は、鳥の声で景色が見えるようになったと前に書いた。しかし、そうなるためには聴覚にかぎらず、すべての五感が一挙に花開く必要があった。つまり、盲人だから耳がよいといった単純な原理でなく、触覚を含めた事物の把握という能力が欠かせないのだ。

鳥に出会うというきっかけは必要だったにしても、それによって五感が景色をキャッチできるまでに発達するには、一段一段と階段を上っていかなければならなかった。

 私は眼圧を下げる手術により、四歳で全盲になった。文字どおり一日にして光を失ったのだ。一年近い入院の間、数回の手術が施されたが視力は回復しなかった。
(三宮麻由子著「鳥が教えてくれた空」NHK出版社 p43)

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池谷 ええ、そう思っていいですね(笑)。
 ここでは、見て憶える場合と、描いて憶える場合の、二通りの実験をしました。そうしたら、一六歳ぐらいまでの若いグループは、見て憶えようが描いて憶えようがほとんど結果に変わりがないのですが、大人は、描いて憶えると飛躍的に成績がよくなりました。
 
 見て憶えるだけだと、大人と子どものあいだの成績にはとんど差はありません。だけど、大人が描いて憶えると成績は百点に近くなるのです。大人のほうがよくできた。
 
 この結果は、大人になっても記憶力が低下しないということばかりでなく、大人になってから手を動かすことが、いかに重要かも示しています。絵に描くということは、つまり「一度得た情報をそのまま丸暗記せず、自分の手で描く」という自発的な経験になる。そうすると、受け手ではなく送り手の立場に立つことになり、ただ単に見た図も、自分の経験した記憶になります。
 
糸井 自分の手というフィルターを通しているからですか。
 
池谷 ええ。描きながら自分の知っているかたちに結びつけたり連想を膨らませたりしているので、描いてみるとわかりますが、案外大人はすぐにこの図を憶えられるものなんです。子どもは脳の機能から言って、まだ「経験を下敷きにして憶える」ということをおこないにくいので、描いて憶えたとしても見て憶えた時とおなじ結果しか残すことができません。
 
 つまり、「経験してわかる」ことに関しては、大人になってからのほうが発達しているのです。三〇歳以上の人のほうが経験した内容を縦横に駆使できますし、年を重ねるほどに脳のほたらきをうまく利用できるという現象も起こります。
 
 あとで理由を詳しく述べますが、少なくとも脳の大切な機能のうちのいくつかは、三〇歳を超えてからのほうが活発になることがわかっています。
 
糸井 年を重ねるほどに脳をうまく利用できる? 三〇歳を超えたほうが脳が活発になる?……って、それは一般常識で言われている「脳はどんどん細胞が壊れていって、頭は悪くなっていく」ということの逆に聞こえますよね。それはぜひとも詳しく伺いたいです。
 
 「手を実際に動かしてみることで、自分の経験になる」のですね。手を動かすことって重要だなぁ。実験科学者の方って、よく「実際に手を動かして実験をすることが、いかにアイデアを生むことにつながっているか」を力説しますよね。
 
池谷 ええ。手を動かすことは脳にとってとても大切ですし、実際に科学者は実験の現場を離れると、もうアイデアが浮かばなくなっちゃうんです。
 つまり、「手を動かすことが、いかにたくさん脳を使うことにつながっているか」ということなのです。大脳全体と手の細胞とは非常にリンクしています。こういう、ホムンクルスという人形(写真1)があるんですけど……。
 
 これは、身体のそれぞれの部分を支配している「神経細胞の量」の割合をカラダの面積で示した図なんです。つまり、手や舌に関係した神経細胞が非常に多いということがわかります。
 
 指をたくさん使えば使うほど、指先の豊富な神経細胞と脳とが連動して、脳の神経細胞もたくさんはたらかせる結果になる。指や舌を動かしながら何かをやるはうが、考えが進んだり憶えやすくなったり、ということです。英単語を憶える時でも、目で見るよりも書いたりしゃべったりしたはうが、よく憶えられるということほ、誰もが経験のあることでしょう。
 
糸井 手や口を動かすと脳も動くんですね。脳に発火させるための導火線みたい。
 
池谷 大人と子どもとの違いとして、もっとも大きな点は、「子どもはまわりの世界に白紙のまま接するから、世界が輝いて見えている。何に対しても慣れていないので、まわりの世界に対して興味を示すし、世界を知りたがる。だけど、大人になるとマンネリ化したような気になって、これは前に見たものだなと整理してしまう」ということになるのだと思います。
 
 大人はマンネリ化した気になってモノを見ているから、驚きや刺激が減ってしまう。刺激が減るから、印象に残らずに記憶力が落ちるような主観を抱くようになる……。
 
 ですから、脳の機能が低下しているかどうかということよりも、まわりの世界を新鮮に見ていられるかどうかということのほうを、ずっと気にしたほうがいいでしょう。
 
 生きることに慣れてはいけないんです。慣れた瞬間から、まわりの世界はつまらないものに見えてしまう。慣れていない子どものような視点で世界を見ていれば、大人の脳は想像以上に潜在能力を発揮するんですよ。
 
糸井 あらためて大人でよかったぁ、と思いました(笑)。
(池谷・糸井著「海馬」朝日出版社 p16-21)

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◎「われわれの意識から独立に物理的なものが存在する」「感覚は一定の仕方で組織された物質の機能である」と。