学習通信041106
◎「地上にはもともと道はなかった」……。

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 絶望とは、希望がなくなったと感じることを言うときもあるだろうけれど、私の場合、自分が絶望したことさえ理解できなかった。人間は、情報の八〇%を視覚に頼っていると聞いたことがあるが、その視覚を失った私は、現実には残された二〇%の感覚さえも奪われ、身も心も真空の世界に葬られたような気がしていた。一緒に遊んでいる仲間は、いま確かにここにいる、なのに私は、ただ一人まったく別の世界にいる。それが分かったことが、私にとっての絶望だった。

 だが、絶望のどん底は、言い換えれば新たな可能性の入り口でもあると思う。私にも、そんな不思議な光が訪れた。目に見える光ではなく、それは心の光だったかもしれない。

──略──

 私が処女作『鳥が教えてくれた空』(日本放送出版協会)を出版して間もないころ、ある読者が我が家に泣きながら電話をかけてきたことがあった。東北地方に住む年輩の女性で、ご子息が三〇歳近くになってから視力を失ったというのだ。「こんな絶望からは、どうやって立ち直ればいいんだか」と、彼女は東北弁で話しながら、長距離電話で一時間近くもオイオイ泣きじゃくっていた。

 だが、よくよく話を聞けば、実は絶望しているのは彼女自身であって、当のご子息はすでに鍼灸の訓練に通い、開業への道を着々と歩みはじめているらしいことが分かってきた。「そのように道を見つけておられるなら大丈夫。待てば海路の日和ありですよ」と言ってみるのだが、母上は「開業したって、不憫(ふびん)で不憫で」と繰り返すばかりで、ひたすら涙にむせんでいる。治療が必要なのは、力強く現実に立ち向かっているご子息ではなく、それになすすべを見つけようともせずに涙に頼っている母上のほうのように、私には思えたものである。

 しかし、不憫とはいったい何だろうか。私の母も、この東北の母上と同じように、私の失明を嘆いたに違いない。だが失明した本人から見れば、今すぐにでも歩き出さなければ生きていけないというときに、不憫だ絶望だと嘆かれては、かえって道のりが遠くなってしまう。

 たしかに父母も失明した我が子の寝顔を見ながら、毎夜膀詑(ぼうだ)たる涙を流していたと話してくれた。しかしそれでも母は、私が退院した直後から先に立って点字を覚え、手で触れるように紙や布を張り合わせて絵本を作ってくれた。こうして母が先に立ってくれたおかげで、私も自分なりに「力の源」を発見して希望をつなぐことができたのである。絶望した本人にとっても、それを見守る周りの人々にとっても、大事なのは嘆きに甘んずることなく立ち直りたいと願うことではないだろうか。

 小さいころから、私はいつも必ず何かに夢中になっていた。わけても、ピアノのレッスンに通うようになってからは音の面自さに魅せられ、音楽はもちろん、雨風や木の音、靴音やさまざまなものをかき混ぜる音など、あらゆる音を録音したり、手づくりの道具を使ってそれらを再現したりした。折り紙に凝ったときは、大小とりどりの折り紙を買い揃え、世の中にはこんなにたくさんの手触りをした紙があったのかと感動した。そしてついには紙の手触りを楽しむためだけに、紙屋をはしごしたりもした。手紙や日記も大好きで、便箋などは、いまだに使いきれないほどたくさん龍に入っている。

 どうしてそんなに集めるのか、何が面白いのかと聞かれるとかなり困ってしまう。だが私はそうやって、いつも夢中になるものをみつけては希望の原動力にしている。そしてそれらの趣味を通じて、たくさんの友だちも増えているのである。やってみる前から「面白そうだ」と思って始めるものばかりではない。むしろほとんどのものが、「やったことがないからやってみよう」と始めるものだった。しかし、最初はさほどでもなさそうに思えたものでも、いざハマってみれば大変に魅力的で、マニアックな収集に走ってしまったり、「その道」の友だちと盛り上がったりしてしまうのだ。

そして気がつくと、いつのまにか失明の衝撃が和らぎはじめていたのだった。これが私の力の源、絶望から脱出するための栄養源だった。そしてこのことは、あの東北の母上にもぜひお伝えしたい。絶望したときにこそ、次の希望をみつけるために熱く燃えられる何かに魅せられることなのである。

you can change

 小学三年生のとき、それまで内面に蓄えられていた私のエネルギーが、一気に外界に発信される日が訪れた。それは、近所に引っ越してきたドイツ人の先生が、子供たちを集めて開いた英語教室に入会したときだった。

 このころまでに、私は悲しいことに、自分はどこへ行ってもまずは拒絶されると思うようになっていた。両親は、一人っ子の私に友だちと遊ぶチャンスを与えるためにいろいろな子供会やクラブにつれていってくれたのだが、そこで最初に聞く言葉は、必ずといってよいほど、「こういうお子さんは……」という一言だった。

本人を前にして平気で指差し、「こちらでは面倒がみられないので」とのたまう。いくら子供でも、「面倒」などという言葉を使われれば、自分がどんな扱いを受けているかは一目瞭然である。そんなことで、私はこの英語の先生にも、「こういうお子さん」と言われるものと覚悟を決めていた。

 ところが、事態は思わぬほうへと展開していった。先生は、私の手をとって、「一緒に勉強しましょう。あなたは見えないから、耳だけで言葉が覚えられる。それは才能です。才能を使えば、あなたのマイナスはプラスになります。you can change≠ニいいます」と、力強く励ましてくれたのである。

 多くの大人が私に話しかけるときには、たいてい誉めるか叱るかのどちらかで、必ず大人から見た評価がつきまとっていた。ましてや、「あなた」なんて呼んで敬語で話してくれた大人が、いったい何人いただろう。覚えているところでは、ピアノの先生くらいだろうか。だからというわけではないが、私はまるで、砂浜の砂が海の水をサラサラと吸い込むように、先生の言葉を全身に受け止め、英語の勉強に心血を注ぐようになっていった。

よく、がんばって偉いという人がいるけれど、私が偉いわけではなく、その力を子供の私に与えてくださった先生が偉大なのである。ただ一つ、私がそれを素直に聞けたことだけは、よかったと思っている。

 子供のころから夢中になった数々のものは、今の私の中にも少しずつ残っては形を作っている。日記や手紙は、こうしてエッセイを書く仕事に発展し、折り紙や編み物はいまだに冬の夜の友だ。講演に行けばピアノを弾かせていただくし、お話づくりやDJごっこのノウハウは、ラジオやテレビ番組で仕事をするときに、大いに助けとなっている。絶望が生み出した負のエネルギーは、こうしてさまざまなものを吸収し、受け入れているうちに正の力に生まれ変わった。そしてyou can change≠ニいう言葉は、こうして私を「発信する仕事」へと導いたのである。

 先生がくれたyou can change≠ニいう言葉は、もちろんマイナスをプラスに変えるという意味だろうが、私にはもう一つ、you can change yourself≠ニいうふうにも聞こえた。

 絶望の縁に突き落とされたとき、自分のすべてを捨てて一度心を空っぽにし、まずは人の言葉に耳を傾けてみようではないか。どの道、絶望したままの自分にしがみついていたのでは、希望が入る余地さえ作れないのだから。だがそれはけっして、それまで蓄えてきた自分の努力や自身の存在を捨てることにはならないと思う。

人の言葉を一度百パーセント聞き込み、それをどうやって生かすかをもう一度心の中で考え直してから歩き出すのだ。そうすれば、きっと別の航路が見えてくるに違いない。目が見えなければ白杖で探して歩くし、脚が痛ければ休み休みゆっくり歩く。そして、自ら心を動かして何かをしてみてほしい。音楽でもガーデニングでも、何でもよいから、とにかく「紡ぎ出す」のである。絶望したときにこそ、こうして無意識の底に秘められたエネルギーを引き出し、それを発信する力の源に変えていこう。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p7-16)

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絶望について

 地獄の門の銘
 「あきらめる」とは、微妙なことばだ。
 がんらいこれは「明らめる」すなわち「あきらかにする」ということで、そこから「心をあかるくたのしくする」という意味にもつかわれ、また「ものごとをハッキリと見る」「ものの道理を見定める」という意味にもつかわれた。

 しかしいまは、「のぞみをすてる」「思いきる」という意味でもっぱらつかわれる。これはどういうわけだろうか。
 それは、人間ののぞみ、願いはすべてむなしいもの、実現するによしないもの、という認識をふまえているのだろう。それが人生の真実だとすれば、それをハッキリと見定めることが、ただちにすべてののぞみを思いきることにつながることはあきらかだ。

 ダンテのえがいた地獄の門には、「われをくぐるもの、いっさいののぞみをすてよ」と記されていた。
 だが、それは地獄の話だ。この世の人生の真実はどうであろうか。それとも、人生の真実がつまり地獄にほかならないのだろうか。

 そうだ、という人がある。たとえばカミュ。彼は人生のいつわらぬ姿を「シジフォスの神話」に見た。神に罰せられたシジフォスは、大きな岩を休みなく山の頂上までころがして運びあげる運命を課せられる。頂上まで運びあげられた岩は、たちまちまた麓(ふもと)までころがりおちる。それをまたころがしあげる。そのくりかえし。それが人生というものの姿だ、というのだ。

 おそろしく、しかもやりきれない話だ。ほんとうにこれが人生の真実なのだろうか。
 しかし私は、これよりもさらにおそろしいことばを知っている。それは、文字どおりこの世の地獄を生きぬいた人のことばだ。その人の名は、魯迅。
 娼婦としての絶望
 魯迅は、革命前の中国の暗黒のなかを生きた。彼が深く愛し、中国の未来の希望を託した青年たちは、彼のまわりでつぎつぎと虐殺されていった。それらの青年の血は身辺にみちあふれ、「もはや私の住んでいるところは人間界ではない」と彼は書いている。
 そういうなかで、彼はハンガリーの愛国者ペトフィの詩を書きぬいた。

希望とはなにか? それは娼婦だ。
誰にも媚を売り、いっさいをみつがせ、
幾多の宝石を──君の青春を
犠牲にしたとき、彼女は君をすてる。

 だが、私が「おそろしいことば」というのは、これではない。そのあとにやはりペトフィから彼がひき、再度みずからくりかえしているつぎのことばだ。

 ──絶望の虚妄なることは、まさしく希望と同じ!
 『野草』の「希望」と題する小品中にある。
 私がこれを「おそろしいことば」というのは、そこにより深い人生の真実を感じるからだ。
 安直な希望が娼婦なら、安直な絶望もやはり娼婦ではあるまいか。一方の娼婦にすてられて、他方の娼婦に身をゆだねるようなことがたやすくあってはならない。

 すべての希望が娼婦であろうか? そうだ、と断言する人もいる。だが、私たちはこうした断言を信用してはならないだろう。それには、遊び人がよく口にする「女はすべて娼婦だ」といったいいかたと似たひびきがある。わけ知り顔のこうしたいいかたの、なんと浅薄でいやらしいことか! 前者の虚妄なるは、まさしく後者と同じ。

 魯迅=ペトフィのことばは、そうしたわけ知り顔の発言とはまったく異質のものだ。甘い顔をして媚を売るものにたいしてと同様、ニヒルな顔をして媚を売るものをも信じるな。魯迅=ペトフィはそういっているのだ。

 あきらめの弁証法
 終電車のなかで私は、一つの「人生の真実」にぶつかった。
 くたびれた初老のサラリーマン風の男性が、相当に酔っているらしく、一人でなにかしきりにブツブツつぶやいていた。きくともなしにきいていると、「人生、あきらめの連続よ。なあ」といったことを、自分をなっとくさせるみたいにくりかえしているのだった。

 そのうち、調子はずれの声で歌いだした。昭和十年ごろにはやった古い歌。なんと、その歌詞はつぎのとおりだった。
 「あきらめましょうと別れてみたが、なんで忘れよ、忘らりょか……」
 「あきらめた、あきらめた、あきらめきれぬとあきらめた」という古い歌の文句を私は思いだした。そうだ、ここにあきらめの弁証法的構造がある。

 人間、生きているかぎり、一〇〇パーセントあきらめきるということはできない。一〇〇パーセントあきらめきるときは、自殺するとき。生きているかぎりは、虚妄であろうとなんであろうと、希望らしきものを追っている。それが人生の真実ではなかろうか。

 一方では、たしかに「あきらめ」ているのだ。つまり、自分の人生はこれだけのものでしかないということが見えてしまったように思い、ちがったふうに人生を創造していく可能性を見かぎっているのだ。しかし、同時に他方では、やはりそうではありたくないと思い、そうでなくなる可能性に期待をつないでいる。

 「あきらめきれぬとあきらめている」という、この対立する二つの要素の闘争を「迷い」というならばいえ。「人間は努力するかぎり迷うものだ」(ゲーテ『ファウスト』)この努力がうっすらとでもつづいているかぎりは、うっすらとでも人は生きつづける。

 薄明を破るもの
 あきらめのなかで生きている人、絶望しながら生きている人の、このような内面のドラマ。重ねていえば、それは一方では「あきらめよ、わが心、けもののごとき眠りを眠れ」(ボードレ一ル『悪の華』)とつぶやく。が、このようにたえずつぶやかねばならないのは、やはりあきらめきれないからであり、けもののような眠りを眠れないからだ。そこに、人間であることのかろうじてのあかしがある。

 しかし、そこにとどまっているあいだは、ドラマは真にドラマティックな展開をすることがない。絶望という名の娼婦と希望という名の娼婦とのあいだを往きつもどりつするだけの人生に、誰が鮮明な生の実感を感じえようか。文字どおりそれは、ただうっすらと生きているというだけだ。

 この薄明をつき破る必要がある。そしてそこから、人生のドラマの真にドラマティックな展開をもたらすことが必要だ。
 では、どうやったらそれができるか。この文章は、あるサークルの文集にのっていたN君の文章に答えるものとして書いた。N君の絶望の内容について私は知らない。具体的なことはなにも書いてなかったから。ただ、さまざまな希望という名の娼婦にもてあそばれてすてられたらしいということはわかる。

 そんなN君に、いま私がどのような希望を語りかけても、それは新手の娼婦のささやきとしてしかきこえないだろう。そしてN君は「希望の虚妄なるは、まさしく絶望と同じ」という答をかえすだろう。

 私はそんな、やり手婆みたいな、ボン引みたいなまねをするつもりはない。真の愛との出あいは、そのようにしてえられるものではけっしてない。
 私はただN君に、君の人生の舞台の登場人物がけっして君一人ではないことに気づくことだけを求めたい。
 どんな人も、けっして一人でだけ人生を生きるのではない。一人だけで生きてきたのなら、孤独などという実感をもつことさえもできなかったはず、まして希望とか絶望とか、そんなものを考えることもできなかったはずだ。

 「思うに、希望というものは本来あるともいえないし、ないともいえない。それは地上の道のようなもの。実際、地上にはもともと道はなかった。歩む人がおおくなれば、おのずと道ができていくのだ」(魯迅『故郷』)
 娼婦としての希望ではない希望を語ることばが、ここにある。「絶望の虚妄なるは、まさしく希望と同じ」ということばを魯迅は「明と暗、生と死、過去と未来の境」(『野草』題辞)で書いた。そして、つぎのように記した。

 「私自身のために、友と敵、人と獣、愛するものと愛さぬもののために、私はこの野草の死滅と腐朽の、すみやかな到来をねがう。
 さもなければ、なにはさておき私はこれまで生きていなかったことになる。それは死滅と腐朽以上の不幸ではないか。
 いっちまえ、野草よ、私の題辞とともに!」

 N君もN君の題辞を記せ。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p156-162)

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◎「絶望のどん底は、言い換えれば新たな可能性の入り口」……と。