学習通信041107
◎「バークリの、外界は私の感覚であるという一貫した観点」……。

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 首尾一貫した観念論者で哲学における首尾一貫した反動家のエドゥアルト・ハルトマンは、マッハ主義者の唯物論にたいするたたかいに共鳴しているが、マッハの哲学的立場は「素朴実在論と絶対的幻想論との混合である」と言うときには、真実にきわめて近づいている。これは、本当のことだ。物体とは感覚の複合である等々という学説は、絶対的幻想論であり、すなわち唯我論である。

なぜと言って、この観点からすると、世界全体は、私の幻想以外のなにものでもないからである。ところが、われわれが引用したマッハの考察は、その他多数のかれの断片的考察とともに、いわゆる「素朴実在論」、すなわち無意識的に、自然発生的に、自然科学者からとりいれてきた、唯物論的な認識論である。

 アヴェナリウスとかれのあとを追っている教授たちは、この混合を、「原理的同格」という理論で覆いかくそうとこころみている。われわれはこれからこの理論の検討にうつるが、まずはじめに、アヴェナリウスが唯物論を主張しているとして非難をうけている問題をかたづけよう。自分の理解できないヴントの非難を興味ぶかいと思ったユシケヴィチ氏は、アヴェナリウスのもっとも親しい弟子たちや後継者たちがこの非難にたいしてどういう態度をとったかを、みずから知ろうとする興味をもたなかったか、あるいはそれを読者につたえる価値があると思わなかった。

ところが、このことは、われわれが経験批判論にたいするマルクスの哲学、すなわち唯物論の関係という問題に興味をもつならば、事態を解明するのに必要なことである。それからまた、マッハ主義が混乱したものであり、唯物論と観念論との混合であるとすれば、官許の観念論者たちが、それを唯物論への譲歩だとして突きはなしはじめているとき、この潮流がどこへ伸びていくか──こういう言い方ができるとすれば──を知ることはたいせつである。

 ヴントに答えたのは、ついでに言えば、二人のもっとも生粋な、もっとも正統的な弟子たち、J・ペツォルトとFr・カルスタニエンとである。ペツォルトはいたけだかな憤激をもって、ドイツの教授を唯物論だと侮辱する非難をしりぞけ、その証拠として──読者諸君、なにを引きあいにだしたと思われるか? ──アヴェナリウスの『序説』を引きあいにだし、そこでは、実体という概念は根絶やしにされていると言うのである! 

純然たる観念論的著作も、また任意にとりいれられた唯物論的前提も、結びつけることができると言うのだから、これはまったく都合のいい理論である! アヴェナリウスの『純粋経験の批判』はもちろん、この学説──すなわち唯物論──に矛盾しないが、しかし同じくそれは、この学説に真っ向から対立する唯心論的学説とも矛盾しない、とペツォルトは書いた。

みごとな弁明だ! エンゲルスは、まさに、こういうものを折衷的な雑炊とよんだのである。

自分がマッハ主義者と見られるのをのぞまず、自分を(哲学上では)マルクス主義者と見てもらいたいとのぞんでいるボグダーノフは、ペツォルトのあとについていくのである。かれはこう思っているのだ、「経験批判論は、唯物論にも、唯心論にも、総じてどのような形而上学にも、関係をもっていない」、そして「真理は、……たがいに衝突しあっている方向」(唯物論と唯心論)「のあいだの『黄金の中間』にあるのではなく、これら両者のそとにある」。

実際には、ボグダーノフに真理と思われているものは、混乱なのであり、唯物論と観念論とのあいだの動揺なのである。

 カルスタニエンは、ヴントを反駁してこう書いた、──自分は「唯物論的契機をおしこむこと」を、絶対に拒否する。「こうした契機は、純粋経験の批判にはまったく無縁なものである」。

「経験批判論は、概念の内容にかんしては、─略─(卓越して)懐疑論である」。真理の一片が、マッハ主義の中立性にかんする力をこめた強調のうちに存在している。

マッハとアヴェナリウスがかれらの初期の観念論にくわえた修正は、唯物論への中途半端な譲歩をうけいれたことにまったく帰着するものである。
バークリの、外界は私の感覚であるという一貫した観点のかわりに、ときどき、ヒュームの、私は私の感覚の向こうになにかがあるかどうかという問題を排除する、という観点があらわれている。

そして、この不可知論の観点は、不可避的に、唯物論と観念論とのあいだを動揺する運命をおわせるのである。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p76-78)

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「ほんとうのことは分からない」とは

 「ほんとうのことは分からない」は、とりあえず、「私たちの知識に限界がある」と言い換えることができます。ところが、「私たちの知識に限界がある」といってもさまざまな意味があります。私たち人類は、じつに多くのことを知っています。数十巻の百科事典が何種類も出版されています。それでもまだ、圧倒的に多数の知識が載っていません。

また一方で、私たちの知識が世界、宇宙全体にくらべると、ほんの一握りのものにすぎないことも知っています。しかし、歴史がすすむにつれて、私たちの知識がどんどん増えて、また深まっていくであろうことも知っています。ですから、私たちの現在の知識に限界があることはたしかです。しかし、そのことをさして「ほんとうのことは結局は分からない」ということはできません。「いつかは分かるようになる」と思うからです。この考え方はきわめて常識的で、健全で、基本的に正しい考え方だと、私は思います。

 これにたいして、「ほんとうのことは分からない」という場合、もう一つの意味を込めていう場合があります。それは、「ほんとうのことは分からない」という言葉を「私たちの知識に原理的に限界がある」「真実は結局分からない」という意味で使っている場合です。この場合、私たちの知識には、認識能力には、理性には、もうこれ以上絶対に超えることのできない限界があって、そこから先はいつまでたっても理性の光が届かないというのです。

「いまは分からないが、いつかは分かる」ということと「いつまでたっても分からないものがある」ということとのあいだに、いいかえれば「私たちの現在もっている知識に限界がある」ということと「私たちの知識に原理的に限界がある」ということとのあいだには天と地ほどの違いがあるのです。この違いをしっかりと見ておきましょう。

不可知論の考え方

 「私たちの知識に原理的に限界がある」という考え方は、哲学では「不可知論」という言葉で呼ばれます。この言葉を文字どおりに読めば、「知ることができない」論です。私たちはたしかにさまざまなことを知ることができるが、私たちの理性にはこれ以上超えることのできない境目があって、そこから先は、どうあがいても、人類史がどんなにすすんでも、人間の英知がどれほど発達しても、越えることはできないのだ、というのがその考え方です。

 これは、前に述べた哲学の根本問題に真正面から取り組むことができない考え方なのです。ですから、哲学の根本問題の解決をなんとかして避けてとおろうとする態度をとります。さきに、哲学の根本問題の解決にあたって唯物論と観念論の二つの陣営に哲学は分裂したと述べましたが、そこから逃れようとする人びとも実際にはいるのです。にもかかわらず、人間が呼吸から自由ではありえないのと同様に、哲学者は哲学の根本問題からは自由ではありません。不可知論は、結局のところ、唯物論か観念論の陣営のいずれかに属することになります。

──略──

不可知論の思想からさまざまなものが出てくる

 これまでさまざまなこどを学んできました。哲学、哲学の根本問題、観念論、主観的観念論と客観的観念論など、とくに、私たちは不可知論の考え方についてかなりくわしく学んできました。というのは、現在の流行思想の大部分は不可知論を哲学的基礎としてもっているからです。じつは、不可知論というものは多面的な要素を含んでいて、不可知論からきわめてたくさんの結論が出てくるのです。そのうち、いくつかのことがらを、もう少し先に進んで考えてみましょう。

 あらかじめ、どんな考え方が出てくるか、名前だけでも並べてみましょう。名前は難しくても、内容はそれほどでもありません。へこたれないでください。その名前は、相対主義、神秘主義・非合理主義、および実証主義です。それでは、これらの点について考えていきましょう。

相対主義の世界

 「あなたの言うことも本当だが、私の言うことも本当だ」──こんな言葉を聞いたら、あなたはどんなふうに思うでしょうか。たとえば「A君は労働者である」という命題と「B君はスポーツマンである」という命題のように、二つの命題の内容がたがいに矛盾していなければ、それはそれで納得することができます。

しかし、たとえば「労働者と資本家の利害は基本的に一致しない」という命題と「労働者と資本家は利害が基本的に一致する」という命題のように、二つの命題が矛盾しあうまったく正反対のことを言っているのだとしたら、「そんな馬鹿な」と思うでしょう。でも、不可知論の立場からは、それでもかまわないのだ、あるいはむしろそれが当然なのだ、という結論が出てくるのです。こんなおかしなことはないと思われますが、不可知論の立場に立つ人びとはそう主張するのです。その点について考えてみましょう。

 不可知論の考え方は、「私たちの認識能力には原理的に限界があるのだ。その限界の先には私たちの知ることのできない世界が広がっているのだ」というものでした。つまり、私たちは私たちを取り巻く客観的世界を原理的に知ることができない、というのです。そうだとすれば、私たちの現在もっている知識が真理であるかどうかを判定(検証)する客観的基準はまったくないということになります。

 知識の真理性の検証の基準がすべて主観的だということになると、たがいに矛盾しあった主張でも、どちらが真理か、あるいは真理でないか、あるいは真理はもしかしたら別のところにあるのか、判断する客観的基準はまったく存在することができません。結局、真理とはなにか、どうやって私たちの知識の真理性を判定(検証)するのかというように、これは真理をめぐる問題だ、ということになります。
(仲本章夫著「現代の流行思想」学習の友社 p60-72)

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◎「あなたの言うことも本当だが、私の言うことも本当だ」……。と声を大にして議論している場面に労働学校で出くわします。こうした議論を軽視してはなりません。なぜなら、「現在の流行思想の大部分は不可知論を哲学的基礎として」もっているからです。「流行」るのはそれだけの物質的な基礎がちゃんとあるはずだからです。