学習通信041109
◎「食物は化学物質である」……。

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はじめに

 人間は良べ物を食べて、それを体内でエネルギーに替えて生きています。ですから、食べないと動けなくなるし、そのままずっと食べないでいると、やがては死んでしまいます。

 しかし、おいしい食べ物がどこにいてもすぐ手に入る現在の日本では、太り過ぎに悩んだり、食べ過ぎによって起こる病気もたくさんあって、むしろ食べ過ぎることの問題点が叫ばれています。

 『1日3食、30品目をバランスよく』。お医者さんや栄養士さんは必ずこういいます。でも、本当にそうなのでしょうか? このプチ断食ダイエットでは、ます、この食事の基本を疑ってかかることから始めます。

 今までどんな方法でもうまくやせられなかった人。でも、今度は大丈夫。じっくりこの本を読んで、しょうが紅茶を基本にしたプチ断食に挑戦してみてください。きっとうまくいきますよ。
(いしはらゆうみ「プチ 断食ダイエット」サンマーク出版)

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おいしいとはいったい体のいかなる働きによるのか

 食物を食べておいしいと思ったりまずいと思うことは日常誰もが経験する。おいしく味わい、満足感を得ることは、日常生活の中で最大の幸せのひとつであると言っても過言ではない。世の中に数多くの美食家、料理人がいて、テレビにも種々の料理番組があり、本屋にも古今東西の多様なグルメ書、料理本、食べ歩る記が存在するゆえんである。食品関係企業にしても、おいしい食品を開発し、売り出し、消費者に飽きられることなくいつまでも喜んでもらえることを第一義にしているはずである。

 「おいしいってどんなことですか」と学生に質問したときに、何人かの学生は「おいしいものはおいしいのであって理由なんかありません」と答えた。もっともではあるが、おいしいって何だろうという問いには、すべての人が関心を持たないはずはないと思う。

 私としては、楽しく食事をし、おいしく味わっている最中に「おいしいってどんなことですか」と野暮な質問をするつもりは毛頭ないし、おいしいものはおいしいと感じ入りながら食べるものであると思っている。つまり、先の学生が言うようになぜおいしく感じるかという体のしくみを知らなくても、おいしさを感じるうえで困ることはないのである。しかし、あえて本書ではおいしいとはいったい体のいかなる働きによるのかをテーマとし、おいしく味わう脳のしくみを考えようとするものである。

 私がおいしさに関わる体のしくみの研究に携わっているのは、知的好奇心からである。しかし、ただ知りたいというだけではない。おいしさのしくみを考えることは、単に科学的な興味に留まらず、おいしく食べるための、あるいは、食品開発における科学的裏付けともなるはずである。

 とはいっても、おいしく食べるためには、おいしさを感じるしくみを知ることよりも、現実的には「どうすればおいしく食べられるか」という技術を考えることがより重要であろう。事実、おいしく食べるための技術はよく知られているし、よく研究もされている。

 食べる側からいえば、適度な空腹感があること、体調が悪くないこと、歯が悪い人は歯を治療して痛みがなくよく噛めるようにしておくこと、さらには、騒々しく慌ただしいところではなくゆったり落ち着いた場所で食べること等々、枚挙にいとまがない。このような体のしくみに関与することは本書のテーマに即したものであり、できるだけ詳しく論じた。

 一方、食物は化学物質であることを考えれば、おいしい食材や食品、よりおいしく味わうための調理法や保存法などは、食物の物理的化学的性質に基づき科学的に説明できるものである。そのような技術的な問題の取り扱いに開しては、他の専門書に譲ることにしたい。
(山本隆著「美味の構造」講談社選書メチエ p5-6)

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 化学は病人食に関してまだ少しも見識を与えてくれない。化学が私たちに教えることができるのは,さまざまな食品中の炭素を含む≠るいは窒素を含む$ャ分の量だけである。化学は,食品をこれらの栄養素のどれかが多い順に並べたリストを私たちに与えてくれたが,それだけである。ほとんどの場合,患者の胃は食品中の炭素あるいは窒素の量だけではない他の選択の原理に左右される。

これについてもほかのことと同じに,自然はその指導に関して非常に明確な規則をもっていると思われるが,それらの規則は,ベッドサイドでの非常に注意深い観察によってのみ確かめることができる。自然はこの場で,生きている化学すなわち回復の化学は,実験室の化学とは異なるものであることを私たちに教えている。

有機化学は,すべての知識がそうであるように,私たちが自然と面と向き合うときには有用である。しかしだからといって,病気のなかで進行している回復作用についてまで,私たちが実験室のなかで学ばなければならないということにはならない。
(フローレンス・ナイティンゲール著「看護覚え書き」日本看護協会出版会 p93-94)

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 この点をさらにはっきりさせるため、はき出した空気に対して石灰水はどのようにはたらくかもう一度しらべてみましょう。ここに石灰水のはいっているびんがあります。せんに通してあるガラス管でびんの内外の空気は連絡していますから、はき出した空気と新鮮な空気の石灰水に対する作用をはっきり観察することができます。

もちろん私は空気を吸いこんで(Aから)あらかじめ石灰水の中を通って来た空気を肺に送ることもできますし、又底まで達している管(B)を通して肺にある空気を送りそれが石灰水にはたらく作用を観察することもできます。今ゆっくりと外の空気を石灰水の中を通らせて肺に吸い込みますと石灰水にはなんらの変化も認められません。石灰水は濁りません。

しかし息をはいて空気を肺から石灰水の中へ吹きこみ、それを数回くり返しますと、今度は呼気の作用が直ちに認められます。つまり石灰水は牛乳のように白く濁ります。すなわち、はき出した空気が悪くなっているのはその中に炭酸ガスが含まれているからであるということがこれでよくおわかりでしょう、なぜかと申しますとこの白い沈でんはごらんのとおり炭酸石灰に他ならないからであります。

 ここに二つのびんがあります、一つには石灰水、もう一つにはただの水がはいっていますがそれらは管で連結してあります。この装置はすこぶる大ざっぱなものですがわれわれの目的にはこれで十分まにあいます。このびんから空気を吸ったりびんへ空気をはいたりしますと、管の装置のために空気は元へもどることができません。はいってくる空気は口から肺に行き、出る空気は石灰水の中を通りますから、呼吸をつづけますとすこぶる巧妙な実験ができて、はなはだ良好な結果がえられます。

新鮮な空気は石灰水になんらの変化を生じないことがわかるでしょう。別の場合にははき出した空気だけしか石灰水と接触しません、その二つの場合の相違を知ることができるでしょう。

 さてもう少し立入ってみましょう。これらの現象はすべて何を意味しているのでしょうか、これはわれわれが眠っていようとも覚めていようともわれわれの内に起つているのであって、これなしには生きていることができません、これは神様のおぼしめしでわれわれの意志と無関係に生ずるように定められたものです。

もし息を止めてしまいますと──もちろんごく短い時間ならできますが──われわれは死んでしまうよりほかはありません。呼吸すなわちわれわれの肺にたえず空気が接触することはわれわれの生命にとって欠くべからざることですから、呼吸器およびそれに関連した器官は睡眠中もなお、絶えず活動しております。

今私はこの過程が何であるかをできるだけかんたんに説明してみたいと思います。われわれは養分をとります。この養分はのどから食道を通って胃に達します、それから消化器の他の部分に移り、しまいには血液に変化いたします。養分がかく変化する際生ずる物質はいろいろの器官の助けによって肺から排出されます、同時に吸いこんだ空気がほかの器官によりて肺に送られ養分と接触するようになります。その間にはごく薄い膜をへだてているだけですから、空気はここで血液に対してこロウソクの場合に見たのと同種の作用を及ぼします。

ロウソクは空気の一部分と結合して炭酸ガスを作り、同時に熱を発生します。肺の中でもこれと同じ変化が起ります、吸入した空気の酸素はこの場合炭素と(遊離している状態の炭素ではなくて変化の瞬間に活動的となる炭素と)結合して炭酸ガスを作ります、この炭酸ガスは大気の中へはき出されます。そこでわれわれの栄養分は燃料と考えることができるという注目すべき結果になります。
(ファラデー著「ロウソクの科学」岩波文庫 p110-112)

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◎学習通信041013 を重ねて学んでください。

「ロウソクの科学」……科学的なものの見方・考え方を学べます。