学習通信041110
◎「不思議なことを知ろうとして考え」る……。
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なるほど、ひとりひとりが別々の人間で、生活も性格もいろいろである限り、いろんな意見やいろんな感じ方があるのは、その意味では、まったく当たり前のことだ。そして、とくにそれを正しいことだと主張することなどなくても、なんとなく自分がそう思うからそうなんだ、という、それくらいのところで、多くの人は暮らしている。お互いの自由を尊重して、適当に譲り合ってって、まあそんなふうな具合にね。
確かに、それもひとつの生き方ではある。それこそ、生き方は人それぞれだからね。さて、君はこれからどんなふうに生きてゆきたいと思っている?
君は、本当のことを、本当のことだけを知りたいとは思わないか。毎日の悩み、学校や家族や友人関係、これから上の学校へ行ったり就職したり、大人になって、世の中へ出て、その世の中でも戦争や犯罪や経済的混乱や、のべつまくなしいろいろ起こっているけれども、もしも本当のことを知っていたなら、そんな中でも、とても力強く生きてゆけるはずだって、予感がしないか。
本当のことを知るためには、正しく考えることが必要だ。「正しい」ということは、自分ひとりに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことだと、わかってきたね。
誰にとっても正しいことなのだから、お互いの正しさを主張し合って喧嘩になるはずもないということも、わかるよね。だから、本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになるんだ。奇妙に聞こえるかもしれないけれども、これは本当のことだから、今すぐわからなくても、ちょっと頭の隅に置いといて。いつかきっと、あ、このことかって、わかる時がくるから。
さあ、いよいよ本当のことが知りたくなってきたね。もしもそれを知らなければ、間違った、とんちんかんなことを続けながら、一生を棒に振るかもしれないとしたら、やっぱり本当のこのことを知りたくなるよね。本当のことなんかべつに知りたくもないよ、僕はその時その時が楽しけりゃいいのさって言ってる君、もしも君の言う楽しいことっていうのが、本当は君にとってものすごくつまらないことで、君はそれを知らないだけだとしたら、どうする? それでも君は、本当のことなんか知りたくないと言うかしら。
「素晴らしい」派と「つまらない」派の対立の場面に戻って、考えを進めてみよう。「素晴らしい」派の人は、生きているということは素晴らしいと思うと主張し、「つまらない」派の人は、生きているということはつまらないと思うと主張している。両派の間で、「どっちなんだかよくわからない」派の人が、いろんな意見があっていいと思いますなんて主張している。議論は賑やかに白熱して、決着はとてもつきそうにない。そりゃそうさ、いろんな生活やいろんな性格の人が、それぞれ自分の意見が正しいと思って主張し合っているんだから、決着なんかつくわけがないんだ。
ところが、中で一人、それまで黙ってみんなの議論を聞いていた人が、意見を求められて、ポツリとこんなふうに言ったとする。
生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるのか、それが僕にはわからない。だって、それを思うことができるのは、僕が生きているからなんだけど、僕には、僕が生きているということがどういうことなのかが、わからないんだ。でも、それがわからなければ、生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるんだろうか。
どうだろう、この彼の発言を聞いて、他の人はどんなふうに思うものだろうか。何かおかしなことを聞いたように思うだろうか。それとも、すごく当たり前なことを聞いたように思うだろうか。おそらくは、わかるようでわからないような、なんとも不思議な感じになるんじゃないだろうか。
たぶん、多くの人は、彼の言っていることがうまく理解できずに、元の賑やかな議論へ戻ってゆくだろう。でも、素晴らしいとも、つまらないとも、どっちともわからないとも言っていないこの彼の考え方こそ、この議論では一番大事で、一番必要なものなんだ。なぜだと思う? この議論の中で、彼だけが、自分ひとりだけに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことを、考えようとしているからだ。
「素晴らしい」派の人も「つまらない」派の人も、意見は対立しているけれども、どちらもともに「生きている」ということでは共通している。そして、「生きているということについて自分がそう思っている」ということでも共通している。けれども、共通しているその「生きている」ということについては、どちらもともに考えてはいない。考えないで、ただ自分が思うことを、自分が思うのだから正しいと思って、口にしている。意見が対立するのはそのためだ。
でも、もし仮にここで、自分ひとりだけに正しいことではなくて、どちらの側にも、誰にとっても、正しいことを知りたいと思ったら、どうするべきだろうか。そうだ、考えるんだ。あの不思議な彼がしているように、考えなければならないんだ。
手始めに、ここで一緒に考えてみようか。あの彼はそんなふうにして、考えるということを始めているのに、なぜ他の人は考えることをしないで、ただ思っているだけなんだろうか。この違いはどこから生じてくるのだろうか。
逆から考えてみよう。あの彼の話すこと、わかるようでわからないようなその発言を、なぜ他の人はうまく理解できなかったのだろうか。彼の発言を、ここで、もう一度ゆっくりと吟味してみてごらん。
やっぱり、わかるようでわからないってところかな。彼は、「自分が生きているということ」、それがまずわからないと言っている。それがわからないのだから、それについて「自分が思う」ということもわからないと言っている。ここが違うんだ。そして、そこが他の人には理解できなかったところでもあるんだ。それはなぜだろう。
「自分が生きている」「自分が思う」ということがどういうことなのかわからない、と彼は言う。なぜ彼がそんなことを言うのかわからないということは、他の人は、それはわかっていると思っているからなんだ。「自分が生きている」「自分が思う」なんてことは、当たり前でわかりきったことだと思っているんだ。だけど、彼にとっては、その当たり前のことこそが、わからない、不思議で不思議でたまらないことなんだ。だから、彼は考えるんだ。不思議なことを知ろうとして考えているんだ。
でも、この不思議なことは、彼にとってだけ不思議なことなんだろうか。まさか、そんなことはない。だって、君だって生きているし、毎日いろいろ思っているじゃないか。「生きて」「思う」ということは、彼にも君にも誰にとっても共通している、ものすごく当たり前なことじゃないか。この世の中には、当たり前なことよりも不思議なことは存在しないんだ。君は、自分が生まれて、いろいろ思って、あれこれ生きて、そしてやがて死ぬという当たり前のことを、とんでもなく不思議なことだとは思わないか。そして、これがいったいどういうことなのか、本当のことを、知りたいとは思わないか。
たぶん君も、時々はそんなことをちらりと思ったりしているに違いない。そして、その不思議な感じが、自分だけのものなのか、どうもそうとは思えなくて、「ねえお母さん、どうして私は私なの」なんて訊いてみる。すると、「そんなの当たり前でしょ」なんて冷たく返されて、それ以土訊(き)く気もなくなる。その当たり前こそが、君には不思議でたまらないことなのにね。
そんなことが続けば、何か自分の方が変なのじゃないか、こんなこと感じるのはいけないことなんじゃないかと思って、その不思議の感じを忘れようと努めるかもしれない。でも、絶対に忘れちゃだめだ。なぜって、その不思議の感じこそが、君がこれから、君の人生にとって最も大事なこと、誰にも正しい本当のことを知るために考える、その最初の最初の鍵穴だからだ。不思議の扉は、これからいくつもいくつも、宇宙の果てまで開いてゆくことができるものなんだ。
そんな変なことばっかり考えてないで、勉強しなさいって言われるだろう。その意味では、お母さんは正しいよ。だって、考えるということは、学校で勉強するということとは、ちょっと違うことだからね。テストで、「生きていることは素晴らしいかつまらないか、君の意見を書きなさい」と出されて、「そもそも生きているということがわからないのだから言えません」と書いたら、きっと先生も困るだろう。でも、じつを言えば、それでもいいんだ。たぶん、先生だって、そんなこと考えたことがなかったんだから。先生と一緒に考えてゆけばいい。
だから、「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」ではないということも、もうわかるだろう。「みんな」、世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わないで、「考える」ということをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。でも、いくら大勢で思ったって、正しくないことが正しいことになるわけではないね。だから、たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。
(池田晶子著「14歳からの哲学」トランスビュー p18-23)
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親愛なるソフィー
世の中にはいろんな趣味があるものです。古いコインや切手を集めている人はざらだし、手芸に凝る人もいます。暇さえあればスポーツに打ちこむ人もいます。
読書好きもけっこういます。けれども、何を読むかはじつにさまざまです。新聞かマンガしか読まない人もいれば、小説ファンもいる。天文学とか、動物の生態とか、科学の発見とか、いろんなテーマに手を伸ばす人もいる。
もしもわたしが馬や宝石の愛好家だったとして、ほかのすべての人と趣味の話で盛りあがるとは期待できません。わたしがテレビのスポーツ番組には目がないとしても、スポーツなんかつまらないと言う人がいることは、まあ、そんなものだと思うしかない。
すべての人に関心のあることなんてあるだろうか? だれにでも、世界のどこに住んでいる人にでも、あらゆる人間に関係あることなんて、あるのだろうか? あるんですよ、親愛なるソフィー。その、すべての人間がかかわらなければならない問題をあつかうのが、この講座です。
生きていく上でいちばん大切なものはなんだろう? もしも、飢えている人びとにたずねたら、答えは食べることですね。同じ質問を凍えている人にしたならば、答えは暖かさです。さらに、一人ぼっちでさびしがっている人にたずねたとしましょうか、答えは決まってますね、ほかの人びどとのつきあいです。
けれども、こういう基本条件がすべて満たされたとして、それでもまだ、あらゆる人にとって切実なものはあるだろうか? 哲学者たちは、ある、と言います。哲学者たちは、人はパンのみで生きるのではない、と考えるのです。もちろん、人はみな、食べなけれぱならない。愛と気配りも必要です。けれども、すべての人びとにとって切実なものはまだある。わたしたちはだれなのか、なぜ生きているのか、それを知りたいという切実な欲求を、わたしたちはもっているのです。
わたしたちはなぜ生きているのか、ということへの関心は、だから、たとえば切手のコレクションのような、いわば「ひょんなきっかけではまってしまう」興味とは別物です。この問題に関心をもった人は、わたしたち人間がこの惑星に生きてきたのとほとんど同じくらい長いこと議論されてきたことがらにかかわることになる。宇宙と地球と生命はどのようにしてできたのか、ということは、このあいだのオリンピックでだれがいちばんたくさん金メダルをとったか、ということよりもずっと大きな、ずっと大切な問題なのです。
哲学の世界に入っていくいちばんいい方法は問題意識をもつこと、つまり、哲学の問いを立てることです。
世界はどのようにつくられたのか? 今ここで起こっていることの背後には意志や意味があるのか? 死後の命はあるのか? どうしたらこういう問いの答えは見つかるのか? そしてなによりも、わたしたちはいかに生きるべきか?
こうしたことを人間はいつだって問いかけてきました。人間とは何か、世界はどのようにしてできたかと問わなかった文化はありません。
哲学の問いは、それほどいろいろと立てられるものでもありません。いちばん大切な二つの問いはもう立てました。ところがそれにたいして哲学の歴史が教えてくれる答えは、それこそさまざまです。
だから、問いに答えようとするよりも問いを立てる、このほうが哲学に入っていきやすいのです。
今でも、一人ひとりがこれらの問いに自分流の答えを見つけなければなりません。神はいるかとか、死後の生はあるかどかを、事典で調べるこどはできない。事典は、わたしたちはいかに生きるべきか、ということにも答えてくれない。でも、生命や世界について自分なりのイメージをもとうとするなら、ほかの人たちの考えを知ることは助けになります。
真理を追い求める哲学者たちの営みは、そうですね、ミステリー小説にたとえるといいかもしれない。殺人犯はアナーセンだ、と言う人もいれば、ニールセンが犯人だ、いや、イェープセンだと、意見はてんでんばらばらです。現実の事件なら、いずれ警察が解決してくれるでしょう。もちろん、警察も謎が解けなくて事件は迷宮入りということもある。それでも謎にはかならず答えがあるのです。
だから、問いに答えるのがむずかしくても、問いには一つの、そう、たった一つの正しい答えがあると考えることはできる。死後に人はなんらかの形で存在するとか、いや、そんなことはない、とかね。
ところで、古来からの多くの謎は科学が解いてきました。昔は、月の裏側がどうなっているかは大きな謎でした。これは議論したからといって解決できる問題ではなかった。答えはそれぞれのファンタジーにゆだねられていた。けれどもこんにち、わたしたちは月の裏側のありさまを知っています。わたしたちはもう、月に兎が住んでいるとか、月はチーズでできているとか、信じることはできません。
今から二千年以上も前の古代ギリシアの哲学者は、人間が「なんかへんだなあ」と思ったのが哲学の始まりだ、と考えました。人が生きているというのはなんておかしなことだろう、と思ったところから、哲学の問いが生まれた、というのです。
それは手品に似ています。わたしたちは手品を見て、どうしてそんなことになるのか、さっぱりわけがわからない。それであとから、どんなからくりであの手品師は二枚の白い絹のスカーフを生きた兎に変えてしまったのだろう、と首をひねります。
多くの人びとにとって、世界はちょうど、手品師が今の今まで空っぽだったシルクハットからふいに取り出した兎のように、まるでわけがわからない。
兎についてなら、手品師がわたしたちの目をだましているのだ、ということははっきりしています。でも世界となると、話はちょっとちがってくる。わたしたちは、世界はまやかしなんかではないと知っている。なにしろ、わたしたちはこの大地を走りまわっているのだし、わたしたちが世界の一部だからです。つまり、わたしたちがシルクハットから取り出された白兎だというわけです。白兎との違いはただ一つ、兎は自分が手品に一役買っているとは知らない、ということだけです。わたしたちはちがう。わたしたちは、自分たちがなにか謎めいたことがらに参加していると知っていて、すべてはどんな仕組みになっているのかつきとめたいと思うのです。
追伸 白兎は全宇宙になぞらえたほうがいいかもしれない。わたしたち、ここにいるわたしたちは、兎の毛の奥深くでうごめく蚤です。けれども哲学者たちは、大いなる手品師の全貌をまのあたりにしようと、細い毛をつたって這いあがろうとしてきたのでした。
ちょっと面食らったかな? ソフィー。この続きはまたこんど。
(ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」NHK出版社 p22-26)
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哲学とはなにか
哲学とはいったいなんだろうか。この問いかけへの解答の試みは、それこそ無数になされ、それがまたこの問いかけを複雑にしている。大都会の書店の棚にはじつにたくさんの哲学の入門書がならんでいる。それらは哲学についてさまざまな見解を、これもまたさまざまな仕方で説明している。そのなかで、かなりの哲学書は、哲学にあたるヨーロッパ系の言葉の語源から話をはじめる。
たとえば、英語で哲学をフィロソフィーというが、その語源はギリシア語のフィロソフィアである。これは「フィレオー(愛する)」と「ソフィア(知、知恵)」とからなる。つまり、哲学とはもともと「愛知(知を愛すること)」なのだ、というのである。これにはよく考えると深いわけがあるようにも思われるし、じっさいあることはあるのである。しかし、これだけでは、哲学とはなにかという問いかけに答えたことにはほとんどならない。それでは、あらためて、哲学とはいったいなんだろうか。
哲学とはまず世界観である
私たち人間は、それが物質的なものにせよ精神的なものにせよ、生活しているなかで、私たちをとりまく周囲の世界について、なんらかの意味での「ものの見方・考え方」なしには生活していくことはできない。これがなくては、私たちは、羅針盤を失った船に等しい。世界とはなんであり、人間はどのようにして誕生し、また人間は世界のなかでどのような位置を占めているか──こういう問いかけに、本人が自覚しているといないとにかかわらず、人間はなんらかの解答をあたえようとして、そしてこの解答に基づいて行動しようとしているのである。
ここでいう世界とは、私たちのごく身のまわりの世界(いわゆる世間)はもちろんふくまれる。そればかりでなく、自然および人間の社会とその歴史までをもふくむ、要するに私たちをとりまくいっさいのものをさす、きわめて広い概念である。
ところで、世界についてのものの見方・考え方を、簡単に世界観という。哲学はこういう意味での世界観を基礎とし、そこから生まれたものである。つまり、哲学は社会とその歴史や人びとの生活のなかで自然発生的に生じた世界観を、いわば精製したものということができる。そこで、哲学とは、まず、世界観であるということができる。それでは、もうすこし、世界観について考えてみよう。
人間は世界観なしに生きることができない
私たち人間は世界観なしには生きることができない。人間は、多かれ少なかれ、自覚的であれ無自覚的であれ、日常の生活のなかで世界観を形成している。そして、この世界観を形成するということは、直接確かめる手段はないとはいえ、他の動物には見られない、そして人間であればかならずもっている人間に固有の性質である。
人間社会はどのようにして動いているのであろうか。人びとはそれぞれの思惑をもち、それぞれの感情や意志によって行動している。これらの思惑や感情・意志がよりあつまって、お互いに衝突しあい、相乗しあい、そのいわば合力で、社会とその歴史全体の動きが決定される、ただそれだけだ──こう考えたとしたら、それはそれで、すでに一つの世界観である。このとき、社会とその歴史は事実上偶然的な出来事のあつまりにすぎず、そこには法則性・必然性というものは存在しない、という結論が出てくるはずである。
またここで、人びとの主観的な思惑、感情・意志の背後に超越的な存在者がいて、これが世界全体をあやつっているのだと考えたとしたら、これもまた一つの世界観である。このとき、世界におけるあらゆるものは超越的存在者の定めた設計図にしたがって動くのだという一種の宿命論が発生する。
さらにまた、人びとの主観的思惑、感情・意志などは、じつは、派生的・第二次的なものだと考える立場もある。つまり、人間はなによりもまず衣・食・住などの物質的な生活を営まなければならない。だから、これらの生活の欲求を満たす物質的な財貨をつくることがもっとも基本的なことであって、思惑などはそのなかで発生し、またそれによって規定されるのだ、というのである。これもまた一つの世界観である。
このように、私たちは日常生活において世界観をたえず形成し、またそれなくしては生活することができない。そして、この世界観は、ふだんはそれほど明らかな姿をとってあらわれないが、重大な問題に直面したとき、とくに鮮明にあらわれる。
(仲本章夫著「哲学入門」創風社 p7-10)
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「いくら大勢で思ったって、正しくないことが正しいことになるわけではないね。だから、たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。」
「問いに答えるのがむずかしくても、問いには一つの、そう、たった一つの正しい答えがあると考えることはできる。死後に人はなんらかの形で存在するとか、いや、そんなことはない、とかね」
「このように、私たちは日常生活において世界観をたえず形成し、またそれなくしては生活することができない。そして、この世界観は、ふだんはそれほど明らかな姿をとってあらわれないが、重大な問題に直面したとき、とくに鮮明にあらわれる」と。