学習通信041116
◎「一時間の辛い作業のほうが、二時間のやさしい仕事にくらべて」……。
■━━━━━
しかし、たとえ労働はすべての商品の交換価値の真の尺度ではあっても、それら商品の価値がふつうはかられるのは、労働によってではない。二種の異なった労働の量のあいだの割合をたしかめるのは困難な場合が多い。二つの異なった種類の作業に費やされた時間だけでは、この割合をかならずしも決定することはできない。そのために耐えしのんだ辛さや、そのために用いられた創意のさまざまな度合も、同じく計算にいれなければなるまい。
一時間の辛い作業のほうが、二時間のやさしい仕事にくらべて、いっそう多くの労働がいるかもしれない。また、習得するのに十年の労働がかかる職業に一時間はげむほうが、通常のわかりきった業務で一ヶ月働くよりもいっそう多くの労働がいるかもしれない。だが、辛さにせよ、創意にせよ、それの正確な尺度を見つけだすのは容易なことではない。
実際のところ、異なった種類の労働のさまざまな生産物を相互に交換するにあたっては、両方について、いくらかの斟酌(しんしゃく)が加えられるのが普通である。といっても、それはある正確な尺度によってではなく、正確ではなくても日常生活の業務を処理してゆくには十分なおおよその同等性を目安にして、市揚のかけひきや交渉によって調整されるのである。
(アダム・スミス著「国富論 T」中公文庫 p55)
■━━━━━
しかし、労働がすべての価値の基礎であり、諸商品の相対価値を相対的労働量が決定すると述べたからといって、私が、労働の質の差異と、ある業務における一時間または一日の労働を、別の業務における同じ持続時間の労働と比較することの困難とに注意を払わぬ者だ、と考えてはならない。異質の労働が受ける評価は、あらゆる実用上の目的にとっては十分な正確さをもって、市場で直ちに調整されるようになる。
そしてそれは、大部分は労働者の相対的熟練度と遂行される労働の強度とに依存している。この目盛は、いったん形づくられると、ほとんど変更されることがない。もし宝石細工匠の一日の労働が普通の労働者の一日の労働よりも大きな価値をもっているなら、それはずっと以前に調整されて、価値の目盛のうえでその妥当な位置に置かれてきたのである。
それゆえ、異なる時期における同一の商品の価値を比較するにあたっては、その特定の商品に要する労働の相対的熟練度と強度とについて、考慮を払う必要はほとんどない。というのは、それは両時期において同等に作用しているからである。ある時のある種類の労働が、別の時の同じ種類の労働と比較されているのである。もし一〇分の一、五分の一、または四分の一の増加あるいは減少が起ったとすれば、この原因に比例した効果がその商品の相対価値に生み出されるだろう。
もし一枚の毛織物が現在は二枚のリネンの価値をもっているが、一〇年後には、一枚の毛織物の通常の価値が四枚のリネンになるとすれば、われわれは、毛織物の製造に要する労働が増加したか、あるいは、リネンの製造に要する労働が減少したか、それともまた、この両方の原因がともに作用したか、そのどれかである、と結論して差支えないだろう。
私が読者の注意をひきたいと思う研究は、諸商品の相対価値の変動の効果に関するものであって、その絶対価値のそれに関するものではないから、異なる種類の人間労働が受ける評価の比較上の程度を検討することは、ほとんど重要ではないだろう。われわれは次のように結論するのが妥当であろう。
すなわち、最初はその異なる種類の労働の間にどれほどの差異があったとしても、またある種類の手先の技巧の習得のためには、他の種類のものよりも、どれほど多くの創意、熟練または時間が必要だったとしても、それは一つの世代から次の世代へかけてひきつづきほとんど同じであるか、あるいは少なくとも、その変動は年々についてはきわめてわずかであり、したがって短期間については、諸商品の相対価値に影響を及ぼすことはほとんどありえないのだ、と。
「労働および資本のさまざまな投下部門における異なる賃金率ならびに異なる利潤率の間の比例は、すでに指摘したように、社会の貧富、つまり社会が発展的状態にあるか、静止的状態にあるか、それとも衰退的状態にあるかによっては、あまり影響されないようである。公共の福祉におけるこのような大きな変化は、一般的賃金率ならびに一般的利潤率には影響を及ぼすけれども、すべての異なる部門の賃金率および利潤率には、結局は、同等に影響を及ぼすにちがいない。
それゆえ、なにかこのような大きな変化が起っても、異なる部門の賃金率および利潤率の間の比例は同じままであるにちがいないし、少なくともかなりの長期間については、容易に変更されることはありえない。」(スミス著「国富論」)
(リカードウ著「経済学および課税の原理-上-」岩波文庫 p29-31)
■━━━━━
交換価値は、さしあたり、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。このような比率においては、これらの使用価値は同一の交換量をなしている。だからプロペルティウス詩集一巻とかぎたばこ八オンスとは、たばこと悲歌というまったくちがった使用価値であるにもかかわらず、同じ交換価値でありうるのである。交換価値としてならば、ひとつの使用価値はただそれが正しい割合で存在しておりさえすれば、他の使用価値とまったく同じねうちがある。
ひとつの宮殿の交換価値は、靴墨幾缶かで表現することができる。その反対に、ロンドンの靴墨製造業者たちは、かれらのたくさんの靴墨缶の交換価値を、いくつかの宮殿で表現してきた。だから、諸商品は、その自然的な実在の仕方とはまったく無関係に、またそれらが使用価値として満足させる欲望の特殊な性質にもかかわりなく、それぞれ一定の量においてはあいひとしく、交換によってたがいに置きかえられ、等価物として通用し、こうしてその多様な外観にもかかわらず、同じひとつのものを表示しているのである。
使用価値はそのまま生活資料である。だが逆に、これら生活資料自体は、社会的生活の生産物であり、人間の生活力の支出の結果であり、対象化された労働である。まさに社会的労働の体化物として、あらゆる商品は同じひとつのものの結晶なのである。この同じひとつのもの、つまり交換価値で表示される労働の一定の性格が、いまや考察されなければならない。
いま、一オンスの金、一トンの鉄、一クォーターの小麦、そして二〇エレの絹がひとしい大きさの交換価値であるとしよう。こうした等価物としては、これらのものの使用価値の質的区別は消えさっているが、こうしたものとしては、それらは同じ労働のひとしい分量を表示している。これらにひとしく対象化されている労働は、それ自体、同じ形の、無差別な、単純な労働でなければならない。
この労働が、金、鉄、小麦、絹のうちのどれにあらわれるかということは、この労働にとってはどうでもよいことであって、それはちょうど酸素にとって、鉄の錆、大気、ぶどう汁、あるいは人間の血液のなかのどこに存在するかがどうでもよいことであるのと同じである。けれども、金を掘りだすこと、鉄を鉱山から採掘すること、小麦をつくること、そして絹を織ることは、たがいに質的にちがった種類の労働である。
実際、物的には使用価値の差異としてあらわれるものが、過程のうえでは、使用価値をつくりだす活動の差異としてあらわれる、だから交換価値を生みだす労働は、使用価値の特定の素材にたいして無関係であるのと同様に、労働そのものの特定の形態にたいしても無関係である。
さらにまた、さまざまな使用価値は、さまざまな個人の活動の生産物であり、したがって個人的にはちがった労働の結果である。だが交換価値としては、それらは、ひとしい、無差別の労働を、つまり労働する者の個性の消えさっている労働を表示している。だから交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的労働なのである。
もし一オンスの金と、一トンの鉄と、一クォーターの小麦と、二〇エレの絹とが、ひとしい大きさの交換価値、つまり等価物であるとすれば、一オンスの金と、二分の一トンの鉄と、三ブッシェルの小麦と、五エレの絹とはまったくちがった大きさの交換価値である、しかもこうした量的な差異こそ、交換価値としてのそれらに総じてありうる唯一の差異なのである。
ちがった大きさの交換価値として、それらは、あるものの多量あるいは少量を、つまり交換価値の実体を形成するかの単純な、一様の、抽象的一般的労働の、あるいは大きいあるいは小さい量を表示している。そこでこれらの量をどうしてはかるかが問題になる。というよりむしろ、こういう労働の量的定在は何であるかが問題になる。なぜならば、交換価値としての諸商品の大きさの差異は、それらのうちに対象化された労働の大きさの差異にすぎないからである。運動の量的な定在が時間であるように、労働の量的な定在は労働時間である。
労働の質をあたえられたものとして前提するならば、労働そのものの継続時間の差異が、ありうる唯一の差異である。労働は、労働時間としては、時間、日、週等の自然的な時間尺度をその尺度としている。労働時間は、労働の形態、内容、個性に無関係な、労働の生きた定在である。それは量的であるとともに、その内在的尺度をもつ労働の生きた定在である。商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる。
同じ労働時間が対象化されているいろいろな使用価値のそれぞれの量は等価物である。いいかえれば、すべての使用価値は、それについやされ対象化されている労働時間がひとしくなるような割合において、等価物である。交換価値としては、あらゆる商品は一定量の凝固した労働時間にほかならない。
交換価値が労働時間によって規定されていることを理解するためには、つぎの重要な諸点をしっかりつかんでいなくてはならない。すなわち、諸労働の、単純な、いねば質をもたない労働への還元、交換価値を生みだす、したがって商品を生産する労働が、社会的労働であるための特殊な方式、最後に、使用価値に結実するかぎりでの労働と、交換価値に結実するかぎりでの労働との区別、これである。
商品の交換価値を、そのうちにふくまれている労働時間ではかるためには、さまざまな労働自体が、無差別な、一様な、単純な労働に、要するに質的には同じで量的にだけ差異のある労働に還元されていなければならない。
この還元は、ひとつの抽象としてあらわれるが、しかしそれは、社会的生産過程のうちで日々おこなわれている抽象なのである。すべての商品を労働時間に分解することは、すべての有機体を気体に分解することに比して、よりはなはだしい抽象ではなく、しかもまた同時により非現実的な抽象でもない。このように時間によってはかられる労働は、実際にはさまざまな生体の労働としてあらわれるのではなくて、労働するさまざまの個人が、むしろ同じ労働の単なる諸器官としてあらわれるのである。
いいかえれば、交換価値で表示される労働は、一般的人間労働という表現をあたえることができよう。一般的人間労働というこの概念は、あるあたえられた社会のすべての平均的個人がおこなうことのできる平均労働、つまり人間の筋肉、神経、脳髄等のある一定の生産的使用のうちに実在している。それはすべての平均的個人が身につけうるような、そしてまたすべての平均的個人があれこれの形態でおこなわざるをえないようなか単純労働なのである。
この平均労働の性格は、国がちがい文化の段階がちがうにしたがってちがっているとしても、ひとつのきまった社会ではあたえられたものとしてあらわれる。単純労働は、どんな統計からでもたしかめうるように、ブルジョア社会のあらゆる労働のうちとびぬけて大きな部分をなしている。Aが六時間のあいだ鉄を、そして六時間のあいだリンネルを生産し、Bもまた同じく六時間のあいだ鉄を、そして六時間のあいだリンネルを生産しようとも、あるいはまたAが一二時間のあいだ鉄を、Bが一二時間のあいだリンネルを生産しようとも、これはあきらかにただ同じ労働時間のちがった用い方にほかならないものとしてあらわれる。
けれどもより高い活力をもち、より大きな特別の重さをもつ労働として、平均水準以上にある複雑労働についてはどういうことになるのであろうか。この種の労働は、結局のところ、複合された単純労働、何乗かされた単純労働に帰するのであり、したがってたとえば、複雑労働の一日は単純労働の三日にひとしいということになる。
この還元を規制する諸法則はまだここでの問題ではない。だがこの還元がおこなわれていることはあきらかである。なぜならば、もっとも複雑な労働の生産物であっても、交換価値としては、一定の割合において単純な平均労働の生産物にたいする等価物であり、したがってこうした単純労働の一定量に等置されているからである。
(マルクス著「経済学批判」岩波文庫 p23-27)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
スミス……
「だが、辛さにせよ、創意にせよ、それの正確な尺度を見つけだすのは容易なことではない。」
リカードウ……
「ある種類の手先の技巧の習得のためには、他の種類のものよりも、どれほど多くの創意、熟練または時間が必要だったとしても、それは一つの世代から次の世代へかけてひきつづきほとんど同じであるか、あるいは少なくとも、その変動は年々についてはきわめてわずかであり、したがって短期間については、諸商品の相対価値に影響を及ぼすことはほとんどありえないのだ」
マルクス……
「けれどもより高い活力をもち、より大きな特別の重さをもつ労働として、平均水準以上にある複雑労働についてはどういうことになるのであろうか。この種の労働は、結局のところ、複合された単純労働、何乗かされた単純労働に帰する」……。
「資本論」第1篇・第1章・第1節も参考に……。