学習通信041117
◎「人は誰でも自由を欲する」……。

■━━━━━

自由

 日本は自由主義社会だ。封建制社会や社会主義社会のような、国家や制度に個人が縛られる社会ではなくて、個人が自由に行動できる社会だ。君はこのことを素晴らしいことだと思うだろうか。

 なるほど、国家や制度に縛られずに、自分がしたいことをできるということは素晴らしいことだ。でも、「自由」ということは、「自分がしたいことをする」ということでいいのだろうか。自分がしたいことをするのが「自由」ということなら、なぜ泥棒の自由、殺人の自由、売春の自由というのはなくて、逆にそれは法律によって禁止される行為になっているのだろう。自由に制限があるのなら、それはちっとも自由じゃない。

自由ということは、本当はどういうことなのだろう。「規則」の章で、人間には悪いことをする自由もあると言ったけれども、悪いことをする自由は本当に自由なのかどうか、もう一度考えてみよう。

 自分がしたいことをすることが自由であるということだとする。そして、人が自分がしたいことをするのは、それが自分にとってよいと思われるからするのであって、自分にとって悪いと思われることはしないのだったね。でも、人はそれが自分にとってよいと思われるからするのだけれども、それが本当は自分にとってものすごく悪いことで、そのことを知らないから、それをよいことだと間違えてするとする。だとすると、このとき人は、自分にとって悪いことをしているわけで、決してよいことをしているわけではない。

しかし、人は常に自分にとってよいことをしたいはずなのだから、よいことではない悪いことを、知らずにしているその人は、本当は、自分がしたいことをしているのではないということになる。自分では、自分は自分のしたいことをしていると思っているのだけれども、本当は、自分がしたいことなんかしていない。自分がしたいことをしていないのだから、自由ではない。だから、悪いことをすることは自由ではない。悪いことをする自由なんか、ない、と、こういうことになるね。

法律によって禁止されているから泥棒や殺人の自由がないのではなくて、たとえ法律の禁止がなかったとしても、それは自分にとって悪いことだから自由なことではないということだ。この違いに気がついているかいないかが、人が自由に生きられるかどうかの分かれ目だ。

 逆に、法律によって保障されている言論の自由や表現の自由について考えてみよう。

 自分が言いたいことを言い、書きたいことを書くのが言論や表現の自由であるとする。人が何かを言ったり書いたりするのは、誰か他人に向けて言ったり書いたりすることだ。人がそれを他人に向けて言うのは、それを言うのが自分にとってよいことだと思われるからだ。自分にはそう思われるのだけれども、でも本当は、それを言うことは悪いことかもしれない。

たとえば、正しくない考えや、聞き苦しい悪口なんかを聞かされた人は、その人のことを、無思慮で下品な人だと悪く思うかもしれない。だとしたら、自分が言いたいことを言うことは、自分にとって必ずしもよいことではないわけで、よいことではない言論が、どうして自由であるはずがあるだろう。

 自分にも他人にもよいことを言うから、言論は自由なんだ。自分にも他人にもよいことというのは、誰にも正しい言葉のことだ。誰にも正しい言葉なのだから、それを言うのは私の自由だと主張する必要がない。つまり、人には、正しい言葉を言う自由だけがあって、正しくない言葉を言う自由はないということだ。だからこそ、人は正しくない言葉を言う時には、これは言論の自由だ、私の自由だと、他人に対して主張することになるんだ。面白いよね。

 何であれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。このことはしっかりと覚えておこう。いいかい、「私は自由だ」と他人に対して主張するということは、その人が不自由であるからに他ならないね。つまり、「私にはしたいことをする自由があるのに、したいことをする自由がないのだ」と。いったいこれは何を言っていることになるのだろう。

 よいことをしたいのなら自由だし、悪いことをしたいのなら自由ではない。その善悪の判断を自分ですることをしないで、他人にその判断を求めているんだ。他人に自分の自由を求めているのだから、他人に与えられるような自由が、自分の自由であるわけがないじゃないか。

 自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくことなんだ。自分で判断するのでなければ、どうしてそれが自分の自由であるはずがあるだろう。自由は判断する精神の内にある。精神の内にしかないんだ。現在の自由主義社会の人々は、このことをほとんど理解していない。社会制度がどうなのであれ、精神さえ自由ならば、人間は完全に自由であり得るという普遍の真理についてだ。

 不正な社会で正しい言葉を語り、そのことで殺されるとしてもそれは自由ですか、と問う人がいるかもしれない。答えよう。そうだ、自由だ。不正な仕方で生きることは、決して自分によいことではない。精神には生存よりも大事なものがある。それが自由だ。自分が自由であることだ。不正なことは精神の死だ。不正な生存が不自由なものであることを、精神は知っているんだ。

 でも、だからと言って、これは精神の自由のために死を選ぶということではない。難しいけれども肝心なところだから、ゆっくりと考えよう。

 もしも精神の自由のために死を選ぶ、不正な生存よりも死を選ぶのだったら、まるで精神は生に対するところの死というものが何であるかを知っているかのようだ。あるいは、生に対するものとして死というものがあるかのようだ。けれども、精神は、考えるほどに死というものが何であるかわからないのだったね。わからないものを怖れることはできない。考えることによってそのことを知っているからこそ、精神は自由なのであって、自由のために死を選ぶのじゃ、あべこべだ。だいいち、自由のために死ぬなんて、そんな不自由なことってないじゃないか。

 さあ、精神の自由とはどういうことなのか、なんとなく実感できてきたかしら。そう、精神の自由とは、何よりもまず「怖れがない」ということだ。怖れがあるところに自由はない。わかるね。「したいけれどもできない」と言う時、したいことをできなくしているのは、その人の怖れ以外の何ものでもない。言いたいことを言えないのは、他人にどう思われるかということへの怖れだし、イヤな仕事を辞めたいのだけれど辞められないのは、生活できなくなること、つまり死ぬことへの怖れだ。

 死への怖れが、人間の中では一番大きな怖れだ。これが人生を最も不自由にしているものだ。死ぬことを怖れて、人がどれだけ人生を不自由にしているかを想像してごらん。生き「なければならない」、食べ「なければならない」、みんなと合わせ「なければならない」、あらゆることがこの怖れから出てきているとわかるだろう。でも、死は怖れるべきものではなかったのだったね。考えれば、人は必ずそのことに気がつく。そのために精神というものがあるんだ。精神は、考えて、自由になるためにこそ存在しているんだ。

 人間はあらゆる思い込みによって生きている。その思い込み、つまり価値観は人によって違う。その相対的な価値観を絶対だと思い込むことによって人は生きる指針とするのだけれども、まさにそのことによって人は不自由になる。外側の価値観に自分の判断をゆだねてしまうからだ。この意味では、イスラム過激派も自由民主主義も、同じことだ。自分で考えることをしない人の不自由は、まったく同じなんだ。人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には、存在しない。

 精神は、考えることで、自分の思い込みから自分を解き放つ。死が存在するということも、アラーが絶対だということも、社会によって自由が保障されるということも、すべてが不自由な思い込みだ。これが思い込みだということには、考えなければ気がつかない。自由になるためには、人は、自分で考えなければならないんだ。だから、思い込みこそが不自由だなんて、ここで言われた通りに思い込んでいるだけで、自分で考えることをしていないのだったら、その思い込みの不自由はいつまでたっても同じなんだよ。

 あらゆる思い込みから自分を解放した精神とは、捉われのない精神だ。自由とは、精神に捉われがないということだ。死の怖れにも捉われず、いかなる価値観にも捉われず、捉われないということにも捉われない。何でもいい、何をしてもいい、何かどうであってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。これは本当にものすごい自由なんだよ。たとえば、想像してみるといい。死ぬという思い込みから解放された精神が、永遠に存在する宇宙として自分のことを考え続けているといった光景だ。とんでもない自由だとは思わないか。こんな自由は、やっぱり怖ろしくてたまらないから、多くの人は、勝手知ったる日常の不自由に戻ってゆくのだろう。

 さて、徹底的に考えぬいた君は、完全に自由だ。いや、本来すべての人は完全に自由なんだ。自分で自分を不自由にするのでなければね。君は、今や何をしてもいい。何をすることもできる。素晴らしいことだ。ところで、この素晴らしい君の自由、何をしてもいい、何をすることもできるこの自由な人生は、ひょっとしたら、そういう君の運命なのではないだろうか。運命として決まっているのじゃないだろうか。後でこのことを考えよう。
(池田晶子著「14歳からの哲学」トランスビュー p166-171)

■━━━━━

人は誰でも自由を欲する

 人間は誰でも自由を希望すると思います。自由でありたいという欲求は万人のものですが、とくに青年にとっては強い欲求です。それは旧い社会にたいする反抗という形をとることもあるでしょうし、親や教師たちの過干渉や管理主義にたいする「つっぱり」という形をとることもありましょう。

 逆に青年が自己にとじこもり孤独を愛する傾きがあるのも、じつは自分を取りまくさまざまなしがらみから自由になりたいという欲求の現われと見ることができましょう。反抗も突っぱりも孤独を好むのも青年期の特徴であり、このような時期を経て青年たちは自我を形成していきます。

 このような意味での自由や孤独の問題はまた哲学のテーマであり続けてきました。この自由というテーマを通して、ここでは人間の問題を考えることにしましょう。

 まず自由というテーマはじつに多様な側面や要素をふくんだテーマだということを考えておく必要がありそうです。もともと自由という言葉自体が多義的でいろいろな意味をもっています。自由という言葉の定義などこまごましたことにはなるべく立ち入らないことにして、話を具体的にすすめたいのですが、自由という理念のもついくつかの主要な側面を見ておきましょう。

 自由という言葉をもっとも一般的で広い意味で考えると、それは「妨げられないこと」 「束縛や強制のないこと」ということになりましょう。一般に国語辞典などにもそう書いてあります。自由という言葉は旧く中国で作られ、中国人も「妨げのないこと」「勝手気まま」という意味でこの言葉を使っていました。ヨーロッパでも旧くは自由にあたる言葉はこれと同じ意味で使われていました。

 物理学でも旧くから「自由落下」といういい方があって、自由は「妨げられないこと」、「妨げのないこと」という単純な意味で使われていました。今日でもこの意味で自由という言葉が使われることはもちろんあります。

 ところが現代では自由という言葉は右のような意味よりももっと積極的で具体的な意味で使われています。思想の自由、言論の自由、信教の自由、集会・結社の自由、あるいは恋愛・結婚の自由といった内容のもので、近代的市民的自由です。これらは「自由と権利」というように、二つを並べていうこともあります。そのように自由は基本的人権の一つでもあります。

 このように見てきますと、これらの自由はきわめて近代的な自由であって、旧い古代奴隷制や中世の封建制のさまざまな抑圧や束縛からの自由を求めた一般の庶民(あるいは働く人びと)の要求にもとづくものであり、そしてこれらの人びとの解放と平等を求める長い運動とたたかいによって獲得されてきたものだということ、したがってこれらの自由は社会の歴史的発展の所産だということに私たちは気がつきます。これはきわめて重要なことです。自由というものはただ偶然に抽象的にあるわけではありません。

──略──

内面の自由

 自由はまた「内面の自由」とか「道徳的自由」といわれるような面をふくんでおり、つまり心の問題だとされています。たしかに自由にはそのような面があります。自己の良心、あるいは理性の声以外のいかなる力にも強制にも屈服しないという精神的自由の主張です。これはいかなる権威、いかなる力にも従わず自己の内的意志を貫こうという立場であり、たとえばドイツ古典哲学のカントなどを代表とする道徳的自由の立場であって、これは哲学的にきわめて重要な立場です。

 「自己の良心にのみ従う」、つまり「自己の良心以外のいかなるものにも従わない」というのは、一見すると単純で抽象的な主張のようですが、カントはフランス革命期の哲学者であり、この革命を支持しており、「自由・平等・友愛」の理念の支持者でした。当時の封建的ドイツの学者としてその主張を行動に移すことは到底不可能なことでしたが、彼は近代的で市民的な気持ちを彼の道徳哲学のなかに盛り込んだのでした。

 カントはこのように「自己の内なる道徳命令にのみ従うべきだ」という「理性の自律」を主張しましたが、このような自由の考え方が当時の進歩的・民主的ブルジョアジーの思想と完全に一致するものであることとともに、この「理性の声」である「道徳命令」は一種の「内的必然性」つまり法則という性格をもっており、このような内的必然性という考え方を自由という理念のなかに導入した点においてもカント哲学は重要です。

 自由は何ものにも「妨げられないこと」ですが、人間はまったく自由で、何ものにも妨げられないで、何をしてもよろしいということになると、かえって何をしていいのかわからなくなるという点があります。「何をしてもいい」とは「何もしなくてもいい」わけであり、「何をなすべきかわからない」という状態を意味します。自由ということが単に抽象的に理解されると、このような次元のことになってしまいます。そこでカントは自由を「理性の自律」と考え、「自己の内なる道徳命令にのみ従うこと」と考えたのでした。このようなカントの自由についての考えは正当なものだといえましょう。

具体的な自由

 しかしさらに考えてみると、自由とは内なる法則に従うというだけではなく、外なる法則(自然や社会の法則)にも従うことを意味する点があることに気づかないわけにはいきません。たとえば空を鳥のように飛ぶ自由をほしいとすれば、ただ内的な気持ちや意志の力だけでは飛べないことは明らかです。

万有引力や空気の性質についての流体力学的な法則など、自然界におけるさまざまな法則を十分に知り、これらの外的な自然法則を利用して飛行機などを製作してはじめて空を飛ぶことができます。このように人間的自由は「内的法則」だけではなく、「外的法則」にも従わなければ実現しないものだということになります。

 すなわち自由はいかなる「外的な力」にも「妨げられないこと」を意味していますが、同時に自由は内と外との「法則」には従わなければならぬことを意味しています。つまり自由は自己の意志以外のいかなる「力」にも従わないことではあるが、「法則」には従うことであるということになります。

 このような自由の考え方は、旧くはスピノザ、そしてヘーゲルの考え方ですが、マルクスやエングルスもこの考えをとりました。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p38-47)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎池田晶子の「自由論」どうとらえますか? なにか落ち着きません。
これは、科学的社会主義の立場からの「自由論」ではありません。

◎「自由は内と外との「法則」には従わなければならぬことを意味しています。つまり自由は自己の意志以外のいかなる「力」にも従わないことではあるが、「法則」には従うことであるということ」……と。