学習通信041121
◎「人間を{笑うことを心得ている動物}と」……。

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 この話は言語を越えて楽しめる話ですが、大変アジア的な部分があります。これをアメリカ人の前でやると、みなさん笑わないですよ。子どもが「お母さん」と言って、お母さんが次の曰死にましたと言うと、聞いてる人が「オー、ノー」とこう言います(笑)。すごいでしょう。おじいちゃんが死んだと言うと、もっと激しい身振りをします。まして、隣の男というたら、「それは大変なことや」とこうなります。

 この仕事をしていて、笑いのベースには、みなさんの宗教観だとか、育ってきた環境だとかが、ものすごく影響を及ぼしているというのを、実感しています。

 で、われわれの落語家の仲間で、英語で落語をするのがとてもお上手な方がいらっしゃいます。その方は桂枝雀さんという大変な努力をされた芸人さんです(平成十一年四月心不全で死去)。非常に真面目な方で、英語を趣味になさっておりましたから、英語で落語をやったらどうなるんだろうというので、一生懸命お考えになって何度も海外公演をおやりになりました。

 「鷺とり」という噺があります。どういう噺かといいますと、鷺という鳥がおりますね。鷺へ、ちょっとずつ近づいていって、ぱっと捕まえるノウハウを編む、そういう男の話です。鷺を見つけた時、遠いところから、大きな声で「さーぎー」とこう言うわけですね。でも遠いところですから、鷺は「ああ、遠くにいるな」と思って、餌をついばんでおります。真ん中へんまで近づいて、さきほどより声を半分ほど落として「さーぎー」とこう言うと、鷺は、あほなんですね。また遠い所へ行ってしまったと思って餌をついばんでおります。もっと近づいて、小さな声で「さーぎー」と言うと、いよいよ遠くにいると思って安心しております。

 すぐ近くにいって「……」と言いましても、鷺は、それでも気づかず、聞こえない程遠くへ人が行ってしまったと思って安心しているところを、パッ! と捕まえるというギャグがあって、そんなことは出来ないけれど、男は北野の円頓寺の池で、寝ていた鷺を捕まえた。その多くの鷺を帯の間にはさんでおりますと、鷺達が途中で気がつくんですね。我々はえらいことになっとるんちゃうか、と。

そこで腰のまわりで鷺達が話し合って、こっから逃げ出すにはどうしたらいいんやろ、みんなで羽ばたいたらいいだろうというので、鷺全体が一斉にうわあと羽ばたくと、男は空中高く舞い上がって、大坂に四天王寺というお寺さんがありますが、男はそのお寺の五重塔の九輪につかまる。鷺を逃がして、サギに遭うたようだと言いつつ、男は一人になるんです。

 下の方を見ると、人がたくさん集まってきた。さて、どうしようかと思っているところに、下の方でみんなが知恵をしぼりまして、お布団を持ってきます。坊さん四人が四隅をぐうっと引っ張って、「ここへ飛び降りぃ」いう合図を送ります。言葉は聞こえませんけど、あっこへ飛び降りたらええんやと思って、ばあっと飛び降りると、その勢いで布団を引っ張っていた四人が、がちがちがちと頭をぶつけて、ひとり助かって、四人死んだ。(笑)

これ、面白いでしょう。これを枝雀さんは英語落語にしてアメリカで演じられたのです。すると、四人も死ぬなんて「ノー」という反応なのです。困りますね。そこで枝雀さんは、大変熱心で優秀な方ですから、オチの部分を、なんとかせないかんというのでお考えになって、そこんところを、ばあんと飛び降りた、そこまではいっしょなんです、飛び降りたんですが、ぐうっと引っ張ってますから、ポーンーと、そのままトランポリンのようになって、もとのところへ帰ってしまった。こういうふうにすると、アメリカの人にも受けるというのです。この結果をどう考えればいいですか。すごいですね。笑いには聞く人の育った環境や、少しオーバーに言うと宗教観も影響するのです。

 それによく似た話で、ドイツとかフランス、イギリスに流布した『ミュンヒハウゼン物語』というのがあります。「ほらふき男爵の冒険」としてみなさんご存知かも知れません。最近ではテリー・ギリアム監督(英国BBCのモンティパイソンでアニメを担当した人)が映画「バロン」にしました。これはなかなか面白い話で、サンドイッチを持って猟に出ているんですが、こちらの話は鷺でなしに鴨がいるんです。撃ちたいんですが、弾が切れている。

そこで考えまして、洋服の糸をほどいて、サンドイッチのベーコンを洋服をほどいた糸の先にくくりつけて鴨の前にポンと投げると、鴨はそれを食べる。ところが脂っこいですから、すぐにお尻から出してしまうんです。それを次の鴨が食べる。またお尻から出ますから、それを次の鴨が食べる。つまり、鴨のネックレスのような状態になって、それを両方端と端を腰のベルトのようにくくって帰るという話なんです。

 で、帰りに、ミュンヒハウゼン物語の中では、手をばんと叩いたら、鴨が大変驚いて一斉にわあっと飛び立った。その力を利用して帰ってきたという話です。方向を決めるのはどうしたかというと、洋服の後ろのところを方向舵にした。でも、飛んだままで着地できないじゃないかと聞くと、いやいや、一羽ずつ鴨の首を締めて降りてきたというんです。

 このように、西洋と東洋で似通っているところはあるんですが、お互いに関係し合っているとは私は思っていません。笑いのシルクロードがあったとは考えられませんから、たまたま人間として面白いと思う部分がよく似ている。ただ、鴨の首をきゅっと締めて、着地させるという発想は、日本人にはないですね。そこが狩猟民族と農耕を主にやっている日本人との差違かなと思ったりもしています。が、どちらにしましても、自分のいる環境によって笑いというのはずいぶんとリアクションが違うということを、私も長年の経験の中で感じています。

 で、いま言いましたように、これは中国で話しているところでしたね。話がずいぶん横へそれました。私は横へそれるほど面自くなっていきますから、どうぞみなさん、横へそらすような努力をしていただきたいと思いますが、で、中国の公安局の人にこの話をしましたら、通訳の人が入りまして、「お母さん」というと、「マアマア、○×△……△○×」とかいうて通訳しやはるんですよ。

 それで「お母さん」といったらお母さんが亡くなった。「おじいちゃん」といったらおじいちゃんが亡くなった。「お父さん」といったらお父さんが亡くなると思ったら、隣のおっさんが死にました。ここで笑ってもらおうと思ってやりました。通訳もちゃんとしました。ところがクスッともお笑いになりませんでした。困ります。落語家は拍手とか笑いがあって帰れるんですが、それができない状態ですから、まことに困ってましたら、向こうの方で公安局員同士が中国語でワイワイ言い出した。なんの話をなさってるんですかと聞いて驚いた。「いま犯人は誰かでもめてるんです」(笑)

 私はね、ここにミステリーゲームのためにやってきたんやないんです。犯人探しのそんなことを言ってるんじゃない。ただの笑い話なんですよ、ちゃんと通訳してくださいと言うて、通訳をしましたら、ようよう意味がわかっていただいて、ああ、そういうことかと理解をしていただいて、わーっと笑って終わりました。それで納得して私は帰ろうとしましたら、「ちょっと待ってくれ」と言うんです。「なんですか」「その話は少しおかしい」「なにがおかしい?」「お母さんいうてお母さんが死んだのはわかった。お父さんいうて隣のおっさんが死んだのもわかった。でも、なんでおじいさんが死ななければいけないのか。それを説明してくれ」ちゅうんです。

 私はあわてましたよ。ものすご瞬時に頭を回転させまして、「いや、あのね、このお父さんは養子さんで、よそから来てます、このお母さんとおじいちゃんは実の親子の関係ですから、血のつながりがあるんで、それで亡くなったんです」と言うて納得してもらおうと思いましたら、「違う」ちゅうんです。

 どう違うんやと聞いて驚きましたねえ。実は、隣におばあさんがいました。そのおばあさんとこっちの家のおじいさんが長年にわたってできていました。その間にできたのが隣のおっさんでした。だからこれがこういうふうにつながっていくんですと。ヘェーですよねえ(笑)。面白い見方、考え方の説明を受けましてですね、ああ、そういう考えもあるなと。しかし、ひとつのできごとで、ものを使わないで、大変うまあくコミュニケーションをとりながら、笑いながら、その場をなごましながら、過ごしていくのは、まさにユーモア感覚なわけで、中国の人たちは優秀な人たちが多いなあと思って、大変感心をして帰ってきたようなことでございます。
(桂文珍著「新落語的学問のすすめ」潮出版社 p18-24)

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おかしみ一般
形のおかしみ
運動のおかしみ
おかしみの膨脹力

 笑いとは何を意味するか。笑いを誘うものの根抵には何があるか。道化役者のしかめっ面、言葉の洒落、ヴォードヴィル(軽喜劇)の取り違え、ハイ・コメディーの場面の間にどんな共通のものが見出せるか。どんな蒸溜法を用いたら、あんなに種々雑多な産物に、鼻つまみな臭気やえもいわれぬ香気を漂わさせる、いつも同じあのエキスが採れるのであろうか。アリストテレス以来、おえらい思想家たちがこのちっぽけな問題と取組んで来たが、この問題はいつもその努力を潜りぬけ、すりぬけ、身をかわし、またも立ち直るのである。哲学的思索に対して投げられた小熊な挑戦というべきだ。

 我々もまた今この問題に手を着けようとするに当って、一応断っておかなければならぬことは、我々はこの喜劇的空想というものを或る定義のうちに閉じ込めようと心がけているものでないということである。我々は、まず何よりもその中に何かしら生きたものを見る。我々は、それがいかに軽いものであっても、人が生に対して払わねばならぬ尊敬の念をもってそれを扱うつもりである。我々はそれが成長し、花を開くに至るさまを眺めるにとどめておこう。

形から形へと、目にもつかぬ段階を経て、それは我々の目の前で極めて風変りな種々の変身をとげるであろう。我々はこれから見るものに対してはどんなものも軽蔑しないつもりである。恐らく、こんなにして一貫して接していったなら、ついには理論的な定義よりも、もっと何か融通のきくものを我々は手に入れるであろう。──長い附き合いから生まれる知識のように、実際に即した親密な知識を。そして、恐らく、またそう望んだのでもないのに、一つの有益な知識を得たことに気がつくであろう。

喜劇的空想はひどく脱線したものに至るまで、それなりに合理的であり、その気違いじみたものにも条理があり、夢を見ているようだといえるが、夢の中にあっても直ちに社会全体に承認せられ理解せられる幻覚を喚び起こすものであるから、どうしてそれが人間の想像の働き方に関して、しかも特に社会的、集団的、民衆的の想像の働き方に関して、我々に教えることがないであろうか。芸術に縁のあるそれが、どうしてまた、芸術と生活とについて我々にその言い分を述べることがないであろうか。

 我々はまず最初に、基本的なものと我々が見倣す三つの観察を提出しよう。それらはおかしみそのものよりもむしろこのものを索(たず)ねるべき場所に向けられているものである。

  一

 まず我々が注意を喚起したい第一の点はこうである。固有の意味で人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない。景色はきれいだとか、風情があるとか、崇高だとか、とるに足らぬとか、あるいは醜悪だとかいうことはあるだろう。が決しておかしいということはないであろう。人は動物を笑うことはある。けれどもそれは動物に人間の態度とか人間的な表情をふと看取したからであろう。

人は帽子を笑うことがある。けれどもそのとき人が嘲弄するのはフェルトとか麦藁とかの品などではなくて、人びとがそれに与えた形であり、帽子に型を与えた人間的気まぐれである。そのように重要な事実が、単純至極だのに、どうして哲学者たちの注意をそれ以上惹かなかったのだろうか。多くの人たちが人間を{笑うことを心得ている動物}と定義した。

彼らは同様にまたそれを人を笑わせる動物と定義することもできたであろう。なぜなら、たとい他の或る動物なりあるいは何か無生物なりが首尾よく笑わせえたとしても、それは人間との類似によって、人間がそれに刻みつけたしるしによって、あるいは人間がそれについてした使用によってであるからだ。
(ベルクソン著「笑い」岩波文庫 p11-14)

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◎「固有の意味で人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない」と。