学習通信041122
◎「ごっこ遊び」……。

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 青年期とは、子どもでも大人でもない時期である。中学生くらいから大学生くらいまでをいう。欧米では、一八歳くらいまでをいうことが多い。欧米では、一八歳で選挙権が与えられる。
 若者ということばは青年心理学の用語ではない。本書では、発達段階としては青年、一般的には若者と呼ぶことにしたい。
 青年期は何をする時期なのであろうか。また、今日の日本の青年期はどんな時期なのであろうか。

アイデンティティの問い

 青年期の発達課題をあげると、男女としての自己の受容、親からの精神的・経済的自立、職業能力の形成と進路選択、市民としての政治能力や社会常識の獲得などとまとめることができる。一言でいうと、「大人になること」といえる。

発達課題は身体的成熟が基礎となり、本人の期待や努力があって達成されるが、社会からの圧力にもとづくものである。だから、発達課題は必ずしも青年が自ら立てる課題と同じだとはかぎらない。内面的には、青年期になると、「自分とは何か」とか「生きる意味は何か」を問いかけるようになる。これが青年自身が直面する課題である。
 次の文章は看護専門学校の一年生(女性、一九歳)が書いた。

私はかつて自分は生きていて意味があるのかなとふと考えることがよくあって、周りには普通に友達とかもいっぱいいて、明るくふるまってたけど、しんどかったです。今は将来やりたいことが見つかって、そんな風に思うことはなくなりました。

 ひとは悩みながら大きくなっていくことは昔も今も変わらない。生きる意味を問いながら、将来の目標を見つけていく。これが青年期の自立である。自立とは、自分の足で立つことである。「私とは何か」という問いに自分なりの答えをもつことをアイデンティティの達成という。アイデンティティとは、私が私であるという感覚をいう。

自我の解体と再編成

 青年期は、これまでの自分を解体し、新しい自分を築こうと試みる。これを自我の解体と再編成という。それはこれまでの周りとの関係をくずし、新しい関係を築こうとすることによって行われる。自我の解体と再編成は、象徴的な意味では、今までの自分が一度死んで、再び生まれかわることといえる。これは「死と再生」と呼ばれてきた。
 ある学生は、親との対立について、次のように振り返る。

高二の夏、部活を勉強よりも優先したために、学校の成績は落ち込み、それを注意した母親と対立した。勉強よりも、部活に打ち込み、その仲間と一緒にいることのほうが大切だと考えた。母親とは意見が食い違い、ますます対立した。親がうっとうしいと思い始め、何をいわれても無視した。高二の冬、部活中のケガで病院に行ったとき、親が一番自分のことを気づかってくれて、あらためて親の存在の大きさに気づいた。以前よりも親を尊敬するようになり、親に対する態度も変わった。母親は本気で部活をやめさせようと考えたこともあったが、最後には子どもが自分で問題を解決することを望んだ。父親は「お前が好きなようにやれ」といっていたが、本音では学生のうちは勉強をしっかりやったうえで部活をやってほしいと思っていた。

 一般に青年期の親子の対立は小学校高学年あるいは中学くらいから始まり、高校二年ではおさまってくるといわれている。しかし、個人差も大きい。この場合は、高校二年の夏から冬にかけての短い期間だった。いよいよ疑問がどうしようもないところまで膨らんできたのだろう。

 受験を本格的に意識し始め、親のいいなりに受験の道を歩んでいることに対する疑問や将来への不安の高まりもあったのだろう。これがこれまでの親との関係をくずそうとするきっかけとなった。親の対応も変化して、自分の考えも尊重してもらえるようになった。とくに、母親が理解を示したことが大きい。入院がきっかけとなって、親の愛情にあらためて気づき、受験に向かうことを自分なりに納得したのではなかろうか。

 以上のように、青年期になると、自分で自分の生きかたやありかたを決めることを求め、これまでの親に従属した自分や関係をくずし、自分なりに納得した自分の人生を選ぶことのできる自分や関係をつくっていく。自分つくりのきっかけに、親の愛情の確認があることに注意したい。親との出会い直しが青年期の自立の土台として大事となる。親にかぎらず、ひととの出会い直しが自立のきっかけとなっていく。

 自我の解体と再編成は青年期の中心的な課題であるが、このように自己と他者との関係の解体と再編成をとおして行われる。ひとの成長は、ひととの出会いと出会い直しで行われる。

青年期の卒業

 生きる意味を問う必要もなくなり、自分なりにつくった枠組みのなかで、具体的な要請に応えることにちからを注ぐようになると、青年期は卒業する。成人期になると、仕事や家庭生活など、目の前の課題に忙しくなる。いつのまにか青年期の悩みを考えている暇がなくなる。それは単に課題を忘れてしまったようにも見えるが、青年期を卒業したからである。
 教育工学者の田口真奈氏は、次のように言う(要約)。

久しぶりに大学に入ったばかりの学生さんと飲みに行った。年上の彼女と価値観が異なって、うまくいかないことを嘆きながら、「僕、生きてていいのかなあ」とつぶやく。ああ、私にもこんな時期があったと懐かしく思う。社会人になった友達にこの話をしたら、「もうそういう話はおなかがいっぱいって感じやね」と笑う。その彼女とも大学時代は「何のために生きるのか」なんてこともよく話した仲である。でも今は「具体的に」どう生きるかが重要だ。どういう仕事をして稼ぐのか。結婚するのか、しないのか。そういう話の中に、「僕、生きてていいのかなあ」の入る隙間はない。でも、だからこそ、大学時代には、ゆっくりと自分について考えることも必要ではないかと思う。その土台があるからこそ、「具体的に」生きていけるのではないだろうか。

 青年期は、自分の生きる意味を問い、友達と議論し、何かに挑戦したりする。青年期の課題がそれなりに探求できたからこそ、次の成人期の課題へと進むことができる。挑戦したことがたとえ失敗であってもいいと思う。やっぱり自分なりに生きてきた証となればいい。

 ところが、青年期を過ごすことが不完全燃焼だったとなると、不本意なままに成人に入っていき、いつまでも青年期を引きずることになる。
(白井利明著「大人のなりかた」新日本出版社 p16-21)

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長谷川……動物の研究をいろいろ見ていますけど、積極的に教育をする動物ってほとんど存在しないと思います。みんな観察学習はするんですね。自分という個体が何かをするときに、他の個体が何をしているかということからヒントを得る。でも、それも完全な模倣学習はほとんどできないらしいんです。他者がやっていることからヒントを得て自分も何かを試してみるとか、自分も同じものにさわってみるとか、そういう現象はいろんな動物で見られますが、積極的に「ああせよ」「こうせよ」と指示するとか、「それをしてはいけない」とか、そういう教育をする動物は他にないと思います。

 それは一つには、教育をするには、自分がいて、他者がいて、自分が何かをするとこういう帰結になる。それとパラレルな立場にある他者がいて、それが同じことをすると同じ結果が得られる、ということの全体が理解できないとだめなんですね。そうすると、やはり他者理解、他者と自分の関係の理解、そして自分の経験を客体化してそれを他者にスライドさせること、それが全部できないと教育はできないんではないでしょうか。

西垣……言葉を話すので有名なボノボの「カンジ」が、自分の妹で人間の言葉を知らない「ツムーリ」に言葉を教えている、という様子がテレビで放映されましたが、あれはいまおっしやったような教育が、一応できているということなんですか。

長谷川……そうですね。でも、野性のチンパンジーで、母親が赤ん坊に「これをしてはいけない」と教えるようなことが実際によくあるかというと、ほとんど観察されません。しかし、教育というものは、人間が生きていく上ですごい影響を与えているでしょう。教育のおかげで、いろんなことが効率よくできて積み重ねもできる。前の世代が持っていた知恵を次の世代に伝えることによって、次の世代はそこから出発できますよね。人間の個人それぞれが知恵の全部を発見しなくてもやりたいことができるという意味で、その蓄積の速度というのはすごい力だと思うんです。

 その教育を成り立たせている認知的な力というのが、先ほどの他者理解でもあり、言語を使って何か抽象的なことを教えたり、仮想的なことを文章に表わしたりして、「こうなったときにはこうしなさい」ということを伝えるということでもある。これはすごいことですね。そのときに過去の経験というものも意味を持ってきます。そういうことが全部一体となっているんじゃないかと思うんですね。

西垣……「こうなったときには」といまおっしゃいましたよね。その点が大事で、シンタックスがない言語だと、この「状況設定」ができないんですね。シンタックスというのは要するに、仮想的な状況のなかで、ある思考シミュレーションを行うための道具なわけです。目前と異なる時空の思考シミュレーションができるということが、いまおっしゃったように、人間の際立った特徴なんですね。これができると、経験をつんだお年寄りが偉くなる。まさにおばあさんというものの意味が高まってきます。

内なる目の芽生え

松井……いまお話に出た自己と他者について、もう少し議論を続けたいのですが、一般的に言って、動物というのは、自己と他者という意識があるんですかね。

長谷川……それはむずかしいです。自己を見る目というのがなくたって十分うまく生きられますから。人間には必ず自意識があるから、自意識がないときにどうなるかというのはなかなか想像しにくいんですけど、感覚系があって、快・不快という動機づけの尺度があって、「いまこれが気持ちがいいからこっちに行こう」とか「これはいやだからあっちへ行こう」というその感覚系さえあれば、それをやっている自分というものを意識しなくても十分うまく暮らせます。

松井……そのときに、同じ種の仲間という存在はどういう意味をもつのか……。

長谷川……それは他者でいいわけ。他者は他者が刺激としてあればいいわけです。

松井……でも、同じ種としての他者と、ぜんぜん違う種の他者がいるわけでしょう?

長谷川……それは標識があればいいわけです。

松井……標識の違い……。

長谷川……何らかの標識があれば。だから自分と同じような表情をする、ということでもいいし、自分と同じような形をしている、ということでもいいし。

松井……でも、自分と同じような表情といっても、そういう認識自体がないわけでしょう。

長谷川……鏡を見てわかるわけじゃなくて、そういう刺激に反応する何らかの反応系があればいいわけです。「風が吹いている」とか、「寒い」とか、そういう感覚系と同じように、自分と同じ他者、という。

松井……それは、コミュニケートしないとわからないんじゃないですか。

長谷川……コミュニケートも、反応系と感覚系があれば全部できて、それをやっている自分を見る目というのがなくたってできる。

松井……なくたってできる。

長谷川……それはすごいギャップです。自意識というか、自己の認識というのは人間にとって当たり前だから、考えにくいですけど。

松井……そういう意味で言えば人間にも、自己と他という認識は、人間とは何かというレベルでその定義に関わる非常に重要な意味がある。自己という概念がいつできるかというのが、ある種人間というものを定義しているんじゃないかと僕は思っているわけ。例えば受精卵があって、胎児になって、出産して、何年か経つまでいわゆる本当の自己なんていう概念はないわけでしょう。

長谷川……ないですね。二歳ごろが自己認識の一つの重要な時期です。

西垣……関連があるかどうかちょっと分からないんですが、子供というのは「何々ごっこ」というのをやりますよね。

長谷川……ごっこ遊び。

西垣……あれ、僕は、自己概念をつくるうえで大事だと思うんですけど。

長谷川……そうです、あれは自己認識に関する重要な現象です。

松井……かなり歳がいってからでしょう、何々ごっこというのは。そうでもないの?

西垣……そうでもない。結構ちっちゃい頃ですよ。

長谷川……結構ちっちゃい。

松井……結構小さいというのは例えば……。

長谷川……やはり二歳かその前後というのが一つあるみたいです。二歳というのは、その少し前に、自分の好きなおもちゃを他者に差し出す、という行動が出てくるなど、自己というものの形成を示すいくつかの指標が出てくる時期のようです。

西垣……やはり言語機能の発達と関係あるんじゃないかなという気がするんですよ。

松井……うん、僕もそう思う。

西垣……子供は劇みたいなことをやるんですね、シミュレーション劇みたいなものを。自分が強いロボットになったり、また元の人間に戻ったり……。そういうことをするなかで、自分をある程度客観的に見つめられるようになっていくんじゃないでしょうか。そうなると、やはりそこでシンタックス、さっき言ったように状況非依存的な言語というものが出てくるんじゃないか。場面が変わっても使える言語というのは、いねばシナリオみたいなものですから、ものすごいパワーをもつツールですよね。そのあたりが全部絡んでいるのかな、という気もするんですけど。

長谷川……その自己と他者ということですが、「自分はこれこれを知っている、でも、あの人は知らないかもしれない」みたいにちゃんと理解できるのは四つか五つくらいで、場合によっては六つぐらいになってもよくわからない子もいるぐらいだから、自己の意識の発達というのも何年かかかる。徴候が見え始めるのが三歳前後という感じだと思います。
(長谷川眞理子著「ヒト、この不思議な生き物はどこから来たのか」ウェッジ選書 p85-91)

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青年は思想と出会う

 青年はいろいろな哲学(思想)と出会います。さまざまな哲学(思想)と出会うことが青年期の特徴だともいえましょう。とくに現代のように社会的な対立や矛盾の激しい時代においては、さまざまな相対立する思想が渦巻いていますから、青年のみなさんは自分が育ったこれまでの文化的雰囲気とは異なる思想(哲学)をふくめて、さまざまな思想(哲学)と出会います。

 青年期以前の子どもたちはまだ哲学(思想)に出会うところまで成長していません。せいぜいマスコミなどを通して思想的色合いをもった文化に取り囲まれているだけです。逆に大人はさまざまな哲学(思想)のなかから、すでに一つの思想を選びとって身につけてしまっています。それは哲学とか思想とかいうほど体系だった整理されたものではないかもしれませんが、いわば「ものの見方・考え方」のようなものを自分なりに身につけてしまっています。

自我の確立

 さまざまな哲学(思想)に出会うのはまさに青年期の特徴です。さまざまな哲学(思想)に出会うこの過程は同時に青年たちの自我の確立の過程でもあります。子どものときに環境のなかから、いわば自然に身につけた考え方とは違った考えがあることに気づき、それとの対立・葛藤のなかで青年たちの自我は形成されていきます。

 現代の青年たちは友人たちとの思想的対立や葛藤を避けようとする傾向があるといわれています。これは現代青年の「優しさ」を意味していると思われます。たしかに現代の青年たちの多くが素直でおとなしい性格をもっていると思われるのは現代の大人たち(もと青年たち)の実感のように思われます。

本当にそうなのか、そうだとすれば何を意味するか、これは別途究明しなければならぬ問題だと思いますが、青年たちの自我形成の過程において、思想的(哲学的)な対立・葛藤を恐れることなく、正面からこれと立ち向い、けっして逃げないことが大事だと思います。

さまざまな哲学(思想)との出会いを大切にして、ときにはこれと格闘して、その出会いを通して、充実した深みと厚みのある自己の人格(自我)をつくりあげていくことが大切だと思います。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p16-18)

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「青年期の発達課題をあげると、男女としての自己の受容、親からの精神的・経済的自立、職業能力の形成と進路選択、市民としての政治能力や社会常識の獲得などとまとめることができる。」

「自分が強いロボットになったり、また元の人間に戻ったり……。そういうことをするなかで、自分をある程度客観的に見つめられるようになっていくんじゃない」か。「「自分はこれこれを知っている、でも、あの人は知らないかもしれない」みたいにちやんと理解できるのは四つか五つ」

「青年たちの自我形成の過程において、思想的(哲学的)な対立・葛藤を恐れることなく、正面からこれと立ち向い、けっして逃げないことが大事」と。