学習通信041123
◎「戦後の労働運動をけん引する役割」……。
■━━━━━
炭労、五四年の歴史に幕
札幌、臨時大会で解散
戦後の労働運動をけん引する役割を担った産別組織、日本炭鉱労働組合(炭労)が十九日、札幌市内のホテルで拡大臨時大会を開き解散、五十四年の活動にピリオドを打った。炭労は一九五〇年の結成時、三百を超える組合、約三十万人の組合員を抱え、旧総評の中心的存在として一九五九〜六〇年の三池争議などを指導した。
国内最後の炭鉱となった大平洋炭砿(北海道釧路市)が二〇〇二年に閉山。太平洋炭鉱労働組合も今年十月末に解散したため、炭労傘下の組合はすべてなくなっていた。
十九日の大会には全国からOBなど約百五十人が参加。参加者は「返魂式」で燃やされる赤い組合旗や腕章、鉢巻きを静かに見詰めていた。
(日経新聞 041120)
■━━━━━
炭鉱「合理化」と三池闘争
一九六〇年の炭鉱「合理化」と三池闘争は、日本労働組合運動史上、「合理化」反対闘争としては、記録的な大争議であった。それだけではない。国家独占資本主義下の「合理化」反対闘争をどう闘うか、今日に生きる教訓がそこからは引き出される。
炭鉱労働者一一万人解雇計画
五九年九月、石炭産業労資会議の席上、経営者代表は、六三年度までに炭鉱労働者一一万人を解雇する方針を明らかにした。同五九年一二月、石炭合理化審議会も、六三年度の出炭規模を五〇〇〇万トンとし、販売炭価を一二〇〇円切り下げる、そのため出炭能率(月一人当り)を一四・五トンから二三・七トンに引き上げ、炭鉱労働者数を一七万五〇〇〇人と想定し、約一一万四〇〇〇人を解雇、「非能率炭鉱」を切り捨てるという計画を答申していた。今日にいたる石炭資源切り捨て、炭鉱閉山政策の始まりである。
この政府・独占による炭鉱切り捨て政策の強力な根拠とされたのは、いわゆる「エネルギー革命」論・「石炭斜陽化」論である。さきの石炭合理化審議会「答申」は、炭鉱の「合理化」、閉山の根拠を次のように述べていた。
「最近のエネルギー事情を貫いている太い線は、流体エネルギーの固体エネルギーに対する優位と、経済的合理性の支配という明らかな傾向である。この線にそって需要家の選択が行なわれつつあるということ、これが技術革新下の世界的潮流である」。要するに、技術的にみてもまた経済的にみても、石炭より石油の方が効率がよく、したがって、石炭から石油への「エネルギー革命」は宿命的であり、炭鉱閉山、大量解雇はやむをえないというわけである。
エネルギー革命論批判
炭鉱労働運動としては、この「エネルギー革命」論をまずいかに反撃し、いかに自らの体制を確立するかが、閉山・大量解雇をふくむ「合理化」反対闘争の基本的前提であった。炭労(日本炭鉱労働組合、総評加盟)第二三回大会(五九年一〇月)の方針は、「エネルギー革命」論を次のように批判している。
石炭危機は、第一に、わが国の石炭産業に固有な古い型の生産機構と、そこから必然的に生みだされる古い型の流通機構、独占資本の寄生性と腐朽性に根ざすものである。わが国の大手石炭資本は、その発展の全歴史をつうじて、鉱区の私的独占による鉱山地代、超過利潤の収得と、炭鉱労働者に対する非人間的な低賃金と無権利労働の搾取に寄生してきた。したがって、大手石炭資本は、資本の有機的構成を高め、生産力を引き上げることに熱意をみせず、石炭産業で得た利潤は他の産業部門に流され、生産機構の停滞性が刻印されることになった。
石炭危機は、第二に、日本独占資本と政府の従属的なエネルギー政策に根ざすものである。戦後の対米経済従属はその重要な一側面として、日本の重化学工業をアメリカナイズされた技術で装備させ、石炭需要を制限し、エネルギー消費構造を石油へ傾斜させ、アメリカ「石油帝国」の進出を許す従属的エネルギー政策として展開された。民族的な石炭資源を切り捨てる炭鉱閉山、一一万人の首切り「合理化」は、このエネルギー政策の転換とむすびつくものである。
炭労第二三回大会と炭鉱労働者は、この石炭危機の二つの基本的要因を無視した「エネルギー革命」論の欺瞞性を暴露しつつ、「国内資源の完全利用、技術の自立的な発展、石炭産業の進歩的な方向での再建のプログラム」を提示し、閉山・大量解雇反対の闘争体制を整えるのに、それなりに全力を傾けたといってよい。この時期における炭労の果敢なイデオロギー闘争と政策課題の提起は、戦後日本の労働組合運動のなかでも特筆されよう。
三池闘争とその背景
炭鉱閉山・大量解雇反対の闘争は、北海道・九州の多くの炭鉱で展開されたが、その頂点が三池闘争であった。三池闘争とは、三井三池炭鉱(三井鉱山・福岡県大牟田市)における一九五九年一月から六〇年一〇月におよんだ大争議のことである。職場活動家四〇〇名をふくむ一二〇〇名の指名解雇に対して、当時、わが国最強の企業別組合として自他ともに許した三池炭鉱労働組合(炭労加盟、当時一万五四三二名)は、炭労および総評の支援を得て闘い、二〇〇余日のストライキをふくむ空前の大闘争となった。
三池闘争は、五九年一月三井鉱山が傘下の六山(三池、山野、田川、砂川、芦別、美唄)に対して六〇〇〇名の希望退職募集を提起したときに始まり、この応募が全体で一三二四名、とりわけ三池ではわずか一五二名の応募にとどまり、同年一一月、三池炭鉱に対して一二〇〇名の指名解雇を通告するとともに本格化した。この一二〇〇名の指名解雇は、事実上、前出した一一万人解雇計画の突破口をなすものと労資双方の立場から考えられていて、総資本と総労働の対決へと発展した。
三池闘争の歴史的意義
この闘争は、同じ時期にすすんだいわゆる「六〇年安保闘争」とともに、全日本の労働者階級と民主勢力をさまざまな形でその戦列にまきこみ、指名解雇を最終的に撤回しえなかったとはいえ、炭労第二七回大会方針(六〇年九月)が指摘するように、「労働運動史上に巨大なあゆみをしめし」た。
第一に、三池炭鉱労働者は、二〇〇日におよぶ長いストライキのあいだ、第二組合の分裂にもかかわらず組織をまもりぬき、英雄的な闘いを展開した。
第二に、全国的な三池労働者にたいする支援は、現地オルグ参加延べ三七万人、資金カンパ二七億円にのぼり、階級的連帯が大いに発揮された。
第三に、全国から現地に派遣された組合活動家や青年労働者たちは、この闘いから多くの経験と教訓を学び、すぐれた活動家として成長し、六〇年代労働運動に新しい息吹きをふきこむことになった。
第四に、三池闘争では、警察、裁判所、海上保安庁、中央労働委員会など、国家権力機構が全面的に動員されたが、三池労働者はこれに屈せず闘いの戦列をまもりぬくことによって、安保闘争の前進にとって大きな役割をはたした。すなわち、三池闘争が巨大な六〇年安保闘争の発展をささえ、また安保闘争の高揚が三池労働者の闘いを激励し、「安保と三池」という合言葉が生まれた。
三池闘争の限界
三池闘争は、労働運動史上にこのような不滅の成果を残したが、ついに一二〇〇名の指名解雇を撤回させることができなかった。かつてない全国的な支援と三池労働者の英雄的な闘いにもかかわらず、三池闘争はなぜ「敗北」したのか。
三池労組の指導部を構成する社会主義協会派は、強固な職場の団結と闘争を基礎に、「独走を辞せず」闘うという点で積極的指導性を発揮した。だが、その指導は企業主義的戦闘性の範囲にとどまる傾向があり、国家独占資本主義下の「合理化」反対闘争として産業別統一闘争、全国的な統一闘争を、職場を基礎としながら目的意識的に追求する観点が弱かった。
この点は炭労および総評の指導にも共通した弱点であり、せっかく石炭産業の民主的再建のプログラムをかかげながら、三池闘争が勝利の展望を切りひらきえなかった基本的要因はそこにあった。(戸木田嘉久)
(「事典 日本労働組合運動史」大月書店 p152-155)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「その指導は企業主義的戦闘性の範囲に…………三池闘争が勝利の展望を切りひらきえなかった基本的要因」と。