学習通信041124
◎「映像とは、……「可視の種」……を送りだしているせい」

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第一章 感覚について

 人間の種々の思考について、まずはじめに「個別的」に考察し、そのあとで「系列的」につまり相互依存関係において考察しよう。「個別的」には、それらはすべて「対象」(オブジェクト)と呼ばれる私たちの外部の物体のなんらかの性質あるいは偶有性の「表象」(リブリゼンティション)ないしは「現象」(アピアラソス)である。それが目や耳やその他の人体の諸器官に作用する。そして、この作用の多様性が現象の多様性をつくりだす。

 それらすべての思考の根源は、私たちが《感覚》と呼ぶものである。〔人間の理性のなかにある概念はすべて最初は、全体的にまたは部分的に、感覚器官によってとらえられるものだからである。〕その他のものはすべてこの根源に由来する。

 感覚の自然的原因を知ることは、さしあたりぜひ必要というほどではない。またそれについてはすでに他の場所でくわしく書いた。しかし私の現在の方法を完全なものとするために、ここでも簡単に述べておこう。

 感覚の原因は外的物体すなわち対象である。対象は、各感覚に固有の器官を、味覚とか触覚のばあいのように直接的に、あるいは視覚、聴覚、嗅覚のばあいのように間接的に圧迫する。この圧迫が、神経その他体内の筋や膜を媒介にして内部へ伝えられ、脳髄や心臓にいたる。その結果そこにはこれをなんとか解放しようとする抵抗ないしは反対圧力、あるいは心の努力が生じる。

そしてこの努力は、「外部に向かって」いるために何か外的なものであるようにみえる。そしてそのように「みえること」(シーミング)すなわちこの「想像」(ファンシィ)が、「感覚」と呼ばれる。そしてこの感覚は、目については「光」または表わされた「色彩」、耳にかんしては「音」、鼻孔にかんしては「臭い」、舌および口蓋についていえば「味」、身体の他の部分については「熱さ」「冷たさ」「固さ」「柔らかさ」、その他私たちが「触感」によって識別しうる性質にある。

 「感覚しうる」(センシブル)と呼ばれるこのようなすべての性質は、それらをもたらす対象そのもののなかにある。しかし、それはじつは私たちの諸器官をさまざまに圧迫するそれと同数の物質の運動にほかならない。圧迫された私たちの内部においても、やはりそれらはさまざまの運動以外のなにものでもない。〔運動は運動以外のなにものをも生むものではないからである。〕しかし、それらが私たちの前に現象となるときは、それらは想像(ファンシィ)であり、目覚めているときも夢見ているときも同様である。

 また、目をおしたり、こすったり、たたいたりすることは私たちに光を想像させ、耳をおさえることは騒音を生じるように、私たちが見たり聞いたりする物体も、私たちの気がつかない激しい作用によってやはり同様のものを生みだしているのである。なぜならばもしもそれらの色や音が、それらを生みだす物体すなわち対象のなかにあるとすれば、鏡やこだまのばあいに私たちが知っているようには、色や音をその対象から切り離すことができないからである。

つまりそのばあい、私たちの見る物体はある個所にあり、他方、現象はべつの場所にあるのである。そして一定の距離では、対象が私たちのなかに生じさせる想像は実在の対象そのものに属しているようにみえるけれども、やはり、対象と心象(イメージ)あるいは想像はべつのものである。したがって感覚は、あらゆるばあいにおいて根源的想像以外のかににものでもない。それは〔すでに述べたように〕私たちの目や耳、その他そのために定められた諸器官にたいする外的事物の圧迫、すなわち運動によってもたらされる。

 しかしながら哲学の諸派は、アリストテレスの、ある書物をよりどころとして、これとはべつの学説をキリスト教国のあらゆる大学を通じて教えている。彼らによれば「映像」とは、見られる物体があらゆる方向に「可視の種」、〔英語にすれば〕「可視的な姿」、「現象」、「相」、または「見られるもの」を送りだしているせいであるという。そしてそれらを目に受けとめることが、「見ること」であるという。

また「聴覚」の原因についても、聞かれる物体が「聞こえの種」、つまりある「聞こえの相」あるいは「聞かれうるもの」を送りだし、それが耳に入って「聴覚」となる。さらにまた「理解」の原因にかんしても、理解されるものが「可知の種」、すなわち「知られうるもの」を送りだし、それが私たちの理解力に達して理解されるという。

 私は大学の効用を否定しようとしてこう述べているのではない。私はこれからコモンウェルスにおける大学の役割について語ろうとしている。そこでついでながら、大学において改革されるべきものは何かについて、ありゆる機会に諸君に理解していただかなければならないのである。なかでも無意味な発言は当然改善されるべきものである。
(ホッブス著「リヴァイアサン」世界の名著 中央公論社 p56-58)

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「俗流」唯物論者のフォークト、ビュヒナー、モレスコットからは、エンゲルスは一線を画したが、それは、とりわけかれらが、脳は肝臓が胆汁を分泌するのと同じように思想を分泌するという見解に迷いこんだからにほかならない。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p52)

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 教授式の哲学によって迷わされていないあらゆる自然科学者にとっては、あらゆる唯物論者にとってと同様に、感覚は、現実に意識と外界との直接的な結びつきであり、外的刺激のエネルギーが意識の事実に移り変わったものである。この移り変わりを、それぞれの人間は何百万回となく観察してきたし、現実にいたるところで観察している。

観念論哲学の脆弁は、感覚が、意識と外界との結びつきとみなされず、意識を外界から引きはなす仕切り・隔壁とされること、──感覚に照応している外的現象の像とはみなされずに、「唯一に存在するもの」とされることにある。

アヴェナリウスは、教会監督のバークリが使いふるした、あの古ぼけた脆弁に、ほんのわずかばかり変わった形をあたえただけである。われわれは、まだ、たえずわれわれが観察しているところの、感覚と一定の仕方で組織された物質との結合の条件をすべて知っているわけではないのだから、そこで、存在するものは感覚だけだと認めよう、──これがすなわち、アヴェナリウスの脆弁の帰するところである。
(レーニン著「唯物論と経験批判論 -上-」新日本出版社 p57)

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◎「感覚は、現実に意識と外界との直接的な結びつきであり、外的刺激のエネルギーが意識の事実に移り変わったものである」と。

学習通信20041020 を重ねて深めてください。