学習通信041125
◎「生きていることよりも苦しいことであったとしたら」……

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自 殺

 万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。



 自殺に対するモンテュエスの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。



 死にたければいつでも死ねるからね。
ではためしにやって見給え。
(芥川龍之介著「侏儒の言葉・西方の人」新潮文庫 p92-93)

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死ねば楽になれるのか──再び自殺

 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。

 この短絡が起こるもうひとつの大きな理由がある。先に死んだ人は、死んだことで、楽になったように見えるからである。つまり、もう生きていないから、生きなくてもすんでいるから、楽になったように見えるのである。しかし、ここでもむろん、我々は立止まることができる。

 なるほど、死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているのかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったとしたら、どうする。

「死んだ人自身」なんてものはない。死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。無になるということが、すなわち、楽になるということなのだと。

 しかし、無が楽であるとは、どういうことなのだろうか。無とは、文字通り無なのだから、そこには苦しいも楽しいもないはずである。そんなものは、なんにもないはずである。ゆえに、無になることが楽になることだと言っている人は、無になることが楽になることだと言っているのでは、じつはない。正確には、生きていることの苦しみが無になること、それが楽になることだと言っていることになる。

 けれども、ここでもなお我々は立止まることができる。つまり、この理屈によれば、死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。要するに、生きていることの苦しみが無になることが楽になることだというのは、あくまでも、生きている自分がそう思っているだけだということである。ということは、死ねば楽になるなんてことは、やっぱり、ないということである。

 えい、うるさいわ、理屈なんぞはどうでもいいわ。とにかく自分はこの苦しみから逃れたいのだ、死んですべてを無にしたいのだ。かくして人は、自問自答の堂々巡りの末に、衝動的に死ぬのであろう。

 ああ、しかし、うるさいようだけれども、それでもなお我々は考えられるのである。いやここでこそ、せめて死ぬ前に一度くらいは、まともにものを考えてみていいのである。なるほど、すべてを無にしたい。しかし、無なんてものは、はたして存在するものであろうか。無は、存在するのであろうか。

 なんとまあおかしいじゃないの。無は、存在しないから、無なのであろう。無が存在したら、それは無ではないであろう。なんで死んですべてを無にするなんて芸当が、我々に可能なものであろうか。

 じっさい、こんな理屈は、考える必要すらないのである。在るものは在り、無いものは無いなんて理屈は、理屈ですらないのである。理屈以前のたんなる事実、犬が西向きや尾は東、みたいなもんである。なあんだ、というようなもんなのである。

 とはいえ、だいたいにおいて、当たり前なことほど人は気づかないものである。当たり前なことほど、難しい理屈に聞こえるものである。けれども、右のような理屈が、そんなふうに聞こえ、めんどくさくて死ぬ気がなくなったというのなら、それはそれで、無用の用というものであろう。
(池田晶子著「41歳からの哲学」新潮社 p123-125)

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生と死について

健康な現実主義……

 「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と『論語』にある。死についての考えを弟子に問われたとき、孔子がこたえたことばだという。

 私はこのことばが好きだ。死についていたずらに考えめぐらすのは生の衰弱を示すもの、という健康な現実主義の感覚がそこには示されていると思う。

 そういったら、A君がそっぽをむいた。あとできいたら、「浅薄な現実主義!」とノートにのたくり書きしてたそうだ。

 事のはじまりは、こうだった。──しつこくA君が「死についてどう考えるか」と私に迫ったのだ。私は、こういう問いかけを好まない。問題のたてかたに問題があるように思う。そこで、とっさに頭にうかんだ『論語』のことばに托して、やんわりそのことを指摘したつもりだった。

 しかし、それはA君を満足させなかった。反対にさえ作用したらしい。私はあらためて、A君の問への答を用意しなければならない、と思った。

 じつは、A君の問は、私にも身におぼえのないものではない。A君よりもう少し若いころのことだったかと思う。そのころ私は、パスカルの『パンセ』をかじり読みしていた。そこには、つぎのようなことばがしきりにでてきた。

 「私がまもなく死ななければならないということ、これが私の知るすべてである」

 「人間は、死を克服することができなかったので、自分を幸福にするために、それをあえて考えないようにくふうした……」

 ここには否定しようのない真実がある、と私は感じていた。いまにして思えば、まさにあの『論語』のことばにむかってつきつけられたようなことばだ。

 しかし、やはりそのころ、たしかロマン・ロランの書いたもののなかでだったと思うが、パスカルの同時代人スピノザが『エティカ』のなかに書いているつぎのことばを知った。

 「自由な人間は、なによりも死について考えることがない。かれの知恵は死についての省察ではなく、生についての省察である」

 なぜだかは知らず、おおきな感動をおぼえた。ここにこそ、より深い真実がある、と感じた。そして、それはそれ以来、私のあたまの底に焼きついてはなれず、生きることにむかって力強く私をはげましつづけるものとなった。

 それがスピノザについてのただしい理解か誤解かはともかく、そこから私が私なりにうけとり、それ以後ふくらましつづけてきたもの、それをあらためて整理してみよう。そして、それをもってあらためてA君と話そう。そう思った。

アメーバにおける不死

 だが、どんなふうに整理したらいいのだろう。思いまよっているうちに、ふとアメーバのことがあたまにうかんだ。

 人間も、もとをたどればアメーバのような単細胞の原生動物にいきつく。そして、これらの原生動物は、細胞分裂によって増殖していくかぎり、個体の死ということが、おそらくはない。だからといって私たちは、アメーバを理想とするわけにはいくまいではないか。

 まず核が二つにわかれ、ついで細胞質が二つにわかれ、こうして一つの個体から二つの個体ができあがる。第二の世代の誕生。しかしこの場合、もとの個体は死ぬわけではあるまい。その死体なんて、どこにも残らない。もとの個体がそっくりそのまま、新しい二つの個体となるわけだ。
 こんなふうにして一つが二つ、二つが四つ、とふえていくかぎり、アメーバはまさに「永遠の生命」の保持者だろう。

 原生動物の一つ、ゾウリムシの観察記録を読んだことがある。ゾウリムシは有性生殖をもおこなうが、それができないようにいつも一匹だけ隔離しておくと、ふつう、一日に二回分裂する。それを、二二年間にわたって観察しつづけた人がいるそうだ。この間、世代の数は一万三五〇〇世代を数えたが、つねにはじめのまんまのゾウリムシが再生産されつづけたという(セルゲーエフ「生命の驚異と動物たち』高橋浩一郎訳、東京図書)。

 一万三五〇〇世代といえば、人間の場合、ピテカントロプスなど原人の時代の末期から今日にいたるまでの世代数に相当するが、その間、個体の死というものを知らなかったわけだ。そのかわり、なんの進歩もそこには見られなかったわけだが。

 もっとも、畑正憲氏によると、こんなふうに分裂による無性生殖だけをつづけたゾウリムシは、しまいには小さくなって死んでしまうという。進歩がないどころか、退歩がおこる、というわけだ。やはり、その生活のどこかで有性生殖をしないとダメで、「なん日めかの分裂をおわったものに、つれあいを入れて、接合という有性生殖をさせると、元気をもりかえす」のだという(『われら動物みな兄弟』角川文庫)。

 分裂生殖のくりかえしによって「永遠に自己同一な生命」の保持が可能か、それともそれは「しだいに衰弱していく生命」の、かぎられた期間の保持以上には出れないのかはともかくとして、それによるだけでは、生命進化の可能性が皆無にひとしい、ということだけは、たしかなことだろう。原生動物の段階から、すでに有性生殖という方法があらわれているということは、たいへんに意義ぶかいことだと思う。

 有性生殖の場合、生まれてくる子どもは、両親のどちらともそっくりおなじではない。生命進化の可能性が、そこにおおきくあらわれてくるのだろう。生命進化のテンポがますにつれて、生殖方法が有性生殖一本槍となってきていることは、それを裏書きしているだろうと思う。

 そうなったとき、古い個体の死ということも、また、不可避のものとなる。それは、全体としての生命の進化・発展のための必然的な条件なのだ。


不死の都市の物語

 アーサー・C・クラ一クに『都市と星』(山高昭訳、ハヤカワ文庫)という作品がある。
 舞台は、遠い遠い未来の、この地球上のある都市。その名はダイアスパー。そこは厳重に外部から遮断され、外には荒れはてた砂漠がひろがる。そこでは人間は、不死の能力をかくとくしている。

 訳者の要約を一部、借用するが、この都市では、人間は、精神も肉体もパターン化してメモリー・バンクに貯蔵し、それを周期的に実体化して生活している。あらゆる情報も物質も自由にとりだせ、消滅させ、再生できる。外界とは無関係に、都市には永遠の午後の日ざしがふりそそいでいる。この都市は「永遠につづく黄金時代」をかくとくしていて、なんと十億年を越える歳月がなんの変化もないまま流れている。

 そこではもう、新しい子どもは生まれない。かつて生きていた人間が再生してくるだけ。再生は、いきなり青年の状態からはじまる。だから、この都市には子どものかげはなく、老人の姿も見られない。都市の外の世界については、人は知ろうともしない。

 だが、「再生人間」でない一人の青年が生まれて、この状態を破る。かれはこの都市の外へ冒険を試みる。そして、別の人類の集団にであう。リスと呼ばれるこの地には、死があり新しい生命の誕生があり、したがって老人と子どもの姿がある。人工のものではない森や山や池がある。そして、ダイアスパーにはない人間的な感情の交流がある。

 この青年はダイアスパーに、死とともに真の生をもたらすだろう。人間的な感情がよみがえり、人びとの目はふたたびかぎりない宇宙にむかってひらかれるだろう。そういう展望をもって、この作品はおわる。

 作者はリスをさえも、けっして理想的な社会としてえがいているのではなく、そこでの人びとはやはりそれなりに自足してしまっており、あの青年の行為はそのリスの人びとの自足をも打破するものとしてえがかれているが──そして、そこにもこの作品の芸術的なカがあるのだが──いまはそれは横におこう。

 いずれにせよ、この作品が、生と死の問題についての深い省察に人をさそうことはまちがいない。

人類の生命、個人の生命

 ダイアスパーの人びとのような生活、それがスピノザのいう「自由な人間」の生活なんかではあるまい。「生についての省察」とは、そんな生活を設計することなんかではないはずだ。

 反対に、それこそは「死についての省察」とむすびついたものだろう。死を逃げようとだけつとめる結果は、真の生をも失ってしまう、ということだ。

 やっぱり、問題は「生についての省察」だ。そして、その個人の生は、たえず発展していく人類の生命を背景にもってのみ、現在のようなものであることができた。私たちの現在の生が、ピテカントロプスの再生でないことを、先祖のピテカントロプスに感謝しよう。ピテカントロプスが不死をかくとくしていたとすれば、現在の私たちの生はありえなかったろうし、少なくともこのようなかたちではありえなかったろう。

 現在の私たちの生に、人間らしい充実をあたえること。そのためには、文化というかたちで社会的にたくわえられた過去の人類の遺産をどん欲に吸収すること。そうすることによってはじめて、私たちの感覚も人間的な感覚となるのだから。そして、私たちが芭蕉の目をくぐって一本のスミレを見、ゴッホの目をくぐって一輪のヒマワリ、一本の糸杉を見るとき、その私たちの感覚のなかに、芭蕉やゴッホは生きつづけているともいえるだろう。

 私たちの人生の時間は、気の遠くなるような過去からかぎりない未来へとつづく人類の生命の最前線にある。その最前線を最前線にふさわしい充実したものとし、そこに意義ある一歩をふみだすこと。そうすることによって私たちの人生のいとなみは、どこまでも人類とともに生きつづけるものであることができるだろう。

 そのようにA君にむかって語ろう、と思った。ねえ、A君──ダイアスパー的生活は、いわば新版・高等アメーバ的生活じゃないか。そして、そんなのにくらべたら、チンパンジーやピテカントロプスのほうがずっと人間的なのではないだろうか。

 まえにも書いたことだが、チンパンジーはたいへん好奇心が強く、進取の気象に富んでいる。動物のなかでは例外的に、オトナになってもハシャグことを知っているし、夕日を見つめてぼんやりたたずんでいることもあるという。いずれも、ダイアスパーの人びとにはないものだろう。そして、その夕日を見つめてたたずむチンパンの脳に点滅するものは、「死についての省察」のめばえではおそらくはなく、「生についての省察」のめばえであるにちがいないのだ。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p125-132)

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「 私たちの人生の時間は、気の遠くなるような過去からかぎりない未来へとつづく人類の生命の最前線にある。その最前線を最前線にふさわしい充実したものとし、そこに意義ある一歩をふみだすこと。そうすることによって私たちの人生のいとなみは、どこまでも人類とともに生きつづけるものであることができるだろう。」……。

学習通信041016 を重ねて深めて下さい。